これが日常②
燐太は髪の毛からポタポタと滴(シズク)を滴ながら、静かな廊下を進んでいた。
朝から絡まれたせいか、それともその後、のんびり歩いていたせいか、燐太は遅刻した。今は授業中で、さっき昇降口の時計を確認したら、一限が始まって十五分を過ぎた頃だった。
一限はなんだっただろうか、と教室の前の廊下で少し考える。授業によっては、できればこのままサボりたい。
燐太はドアの前で、そっと聞き耳を立てた。中から、若い男の落ち着いた声がわずかに聞こえる。
──数学か。
燐太はほっと息をついた。
数学の教師、管谷(スガヤ)は、自分も若い頃はヤンチャばかりしていた、と多少の事は軽い注意で許してくれるのだ。きっと今回の遅刻も、笑って許してくれるだろう。
もしこれが社会の教師だったらそうはいかない。ネチネチと最低でも二十分は嫌みを言われる。
燐太はそいつの顔を思い浮かべてしまい、顔をしかめた。そして想像でまで彼奴に会いたくない、と頭を軽く振ってそれを追い払うと、教室のドアをカラリと音を立てて開けた。
「……おはよーございまーす」
教室中の視線が、自分に向けられるのを肌で感じつつも、燐太は気の抜けたような挨拶をした。
「おはよー、中三川。社長出勤か~?」
管谷のおちゃらけた台詞に、クラスが軽い笑いに包まれる。燐太は困ったようにへらりと笑い、首の後ろを掻いた。
「えっと~……すみません?」
「ふっ、なんで疑問系なんだよ。……ところで、なんでそんなにびしょ濡れなんだ? それに頬から血ぃ出てるぞ? 制服もなんかぼろぼろだし……。なんかあったのか?」
「えっ」
管谷に指摘され、慌てて頬に手をやると、ぬるりとした感触がして、見てみれば手のひらに血が付いていた。あまり出血は多くないようだ。
──良かった。これくらいならほっとけば治る。それよりも……なんて説明しよう、これ。
子どもの霊のことをばか正直に話すわけにもいかないので、どうやって誤魔化そうか考えていると、教室の後ろの方から、態とらしい大きなため息が聞こえた。そして、呆れたような声が後に続く。
「リン、またやられたの?」
そう言いながら席を立って、燐太に歩み寄ってきたのは、長島 棗(ナガシマ ナツメ)だった。
「……ナツ」
燐太は困ったように、目の前に立つ棗を見つめた。
長島棗は、中学に入ってすぐにできた友達だ。入学式の日、出席番号が一つ前の棗が話しかけてくれたのが切っ掛けだ。それ以来よくつるむようになり、今じゃお互い何でも言い合える仲だ。しかも、三年間同じクラス。
棗は、軽く眉を寄せると、手に持っていたハンカチで、燐太の頬を拭った。そして、手際よく絆創膏を貼る。
「今度は何? 野良猫?」
絆創膏を貼り終え、今度はスポーツタオルで、濡れた燐太の頭を拭きながら、棗は訊ねた。
その言葉に、軽く目を泳がせ頷く。
「……うん。でも、俺から近寄った訳じゃないよ?」
「はぁ~。ほんとに、リンは何でこんなに動物に嫌われてんのかね」
「なっ! 嫌われてなんかないよ!」
「なんだ? 中三川は、動物に好かれないのか?」
棗の言葉に、燐太が頬を膨らまして反論していると、今まで黙って様子を見ていた管谷が、面白そうに口を挟んだ。それに棗はニヤリと笑うと、燐太を横目で見ながら話し出した。
「そうなんですよ、先生。リン自身はものすごい動物好きなんですけど、当の動物には、こっちがビックリするくらい嫌われてるんですよ」
「ナツ!!」
燐太は、少し声を大きくして棗を止めようとするが、棗は知らん顔で話続ける。
「すごいんですよ。散歩中の犬には、必ず威嚇されるし。酷いときは、追いかけられるし。飼い主さんが必死に止めてくれるから、怪我しないで済むんですけど、猫だとそうはいかない。必ず飛びかかられて、こうなるんです。今日はまだ軽い方ですよ」
そう言いながら、燐太を指差す。
燐太は顔をしかめつつも、何も言わない。いや、言えない。全てほんとの事だからだ。
そして、そんな燐太を心配して、なるべく一緒に行動したり、怪我の手当てを毎回してくれるのが、棗なのだ。
そんなわけで、強く出れない燐太は、頬を膨らまして不機嫌さをアピールする。
それを見て、棗が苦笑しながら燐太の頭に手を伸ばしたとき、今まで棗の話を笑いながら聞いていたクラスメイトが、「そう言えば」と話しはじめた。
「この前燐太、ゴミ捨て場の方で烏に襲われてた?」
「え、それって、隣のクラスの奴が言ってた話し? あれ中三川の事だったの?」
何人かは聞いたことがあるらしく、教室がざわめく。
燐太はその話を聞いて、固まっていた。冷や汗が、背中をツゥ、と滑り落ちる。ごくりと生唾を飲み込み、目の前にいる親友から目を逸らす。
棗もその話を聞いて、固まっていた。燐太の頭を撫でようと伸ばしていた手は、中に浮いたまま、行き場をなくしている。
しかし、自分からゆっくりと目を逸らした燐太を見て、棗はカッと目を見開いた。そして、伸ばしていた手を燐太の頭にのせ、指に力を込める。燐太の頭から、ミシミシと音がするのは気のせいだろうか……。
「リン」
棗の地を這うような声に、燐太はびくりと肩を揺らす。
今までざわめいていたクラスメイトも、管谷も、突然のことに大人しく二人を見守る。
「ごっ、ごめんナツ。えっと、その……」
若干青ざめた燐太が、どうにか棗を落ち着けようとしたとき、勢い良く教室のドアが開かれた。次いで中年男性の神経質そうな声。
教室中の視線が、開け放たれたドアの向こうに集中した。
例外なく後ろを振り返った燐太は、そこにいる人物を見て、顔を歪めた。
そこにいたのは、社会科の教師、岩渕(イワブチ)であった。
「うるさいですぞ! 担当の先生が来てないのですか?」
顔を真っ赤にして怒鳴る岩渕に、管谷が申し訳なさそうに名乗り出た。
「すみません岩渕先生。私もつい生徒た」
「管谷先生貴方でしたか!」
岩渕は管谷に気がつくと、謝罪の言葉を遮って、ヒステリックな声をあげた。彼の目は、まさに獲物を見つけた獣と同じ目になっている。
それを見て、みんなは思った。あぁ、スイッチが入ってしまった、と。
「管谷先生貴方という人は! 今は授業中ですぞ。いつまでも若者気分でいられても困りますな。貴方もいい加減教師としての自覚をしっかり持ってもいい頃ではありませんか?」
くどくどと、教師として云々を語り始めた岩渕に、管谷は適当に相づちを打ちつつ、後ろ手に燐太と棗に席に着くよう合図する。
棗はそれに気づくと、自分のせいで先生が怒られてしまった、と罪悪感にさいなまれている燐太の手を引いて、席に向かった。
席に着いた燐太は、ちらりと隣の席の棗を伺い見て、こっそりため息をついた。
──あ~あ、あとでナツに怒られるんだろうなぁ。
〈赤い女 これが日常②〉