イエスの火曜日
ぷつり、と音を立てたような刃に、マナブは陶酔を重ねた。
まるで飛行機雲を伸ばしながら飛んでゆくそれのように、一直線な痛み。
身体の真ん中を走った小さな稲妻は、シナプスを刺激しているようだ。
どろりと溢れた赤い液体が何かを理解した途端、全ての負が溜め息として排出された。
これで僕は廉潔だ。
ふとそんな事を考えて、ぼんやりと濁りを映した目で手首を見つめる。
ともすれば高慢な思考であるが、彼にしてみれば当然の解答だ。
一点の穢れもないのだと信じて止まないマナブは
鬱積した感情と泥を吐き出す為、日常的にこの作業を繰り返した。
胸元に光る十字のネックレスには、磔にされたイエスが項垂れている。
それは老いた所以か、マナブの所作から目を背けているのか。
宗教的概念など無いが、彼は主であるとかキリストであるとか、果ては聖書に到るまで
まるで自らを主に仕える身だと頑なに信じているかのように信仰した。
それが起因して、毒杯を煽るように飲み込んで、排出する術として一連の行動をしているのだ。
生かされた罪人達が。僕に手招きしてるんだ。
仲間になれと、廉潔で清廉な僕を穢そうと必死なんだ。
加速してゆく思考に比例して、押し広げた線を作る刃が激しさを増してゆく。
ひとつふたつみっつよっついつつむっつ。ぱくり、と口を広げ、赤い涙。
息切れでも起こしたかのような呼吸に、頭の中は色彩を失ってゆく。
マナブ以外、人の影が行き交わない小さな公園。
砂場と共に設置されている、ドーム型の高い滑り台。その天辺。
足を真っ直ぐ前に伸ばした姿勢で腰を下ろしているマナブの変わりに、
赤く排出された鬱積だけが、その急なスラロープを滑り落ちてゆく。
つつつ、と這い蹲るように。下へ下へ。
ああ、僕の穢れが這っている。
叫びだしそうな慟哭に従順であろうとした途端、スラロープの先から声がした。
その声が何と発しているのか、ぼんやりとした頭では理解出来ず
正常を取り戻してゆく、覚め切った色彩を引き連れながら、マナブは声の方に視線を移した。
「そこのあなた。ここら辺で憎たらしいウサギを見なかった?」
視線の先に捉えた少女は確かにそう言った。
中世ヨーロッパでもあるまいし、と不意に考えたのは少女の奇妙な格好だ。
テレビで見たことのあるような、少女趣味な服装。
何者にでもなったつもりか、と毒づきそうになる手前。
「聞こえているの?大振りな懐中時計を持った、憎たらしいウサギが通らなかった?」
そう続けた少女の言葉に、マナブは「チッ」と舌打ち。
彼女の足元直ぐにまで、排出した赤が流れているというのに、見えていないのだろうか。
それとも、知っている上での発言だろうか。
「…懐中時計を持ったウサギ?あんた、絵本の見すぎなんじゃないのか?」
無愛想に答えれば、少女は口唇を尖らせた。
マナブに言わせれば、大事な儀式の途中で邪魔に入ったとしか解釈出来ない。
嘲るように嘲笑して「不思議の国のアリスとは違うんだよ」と吐き捨てる。
「あなたの先入観と固定概念なんか興味ないし、そんな風に笑われる覚えもないわ」
「じゃぁ何か?あんたは本当に、懐中時計を持ったウサギなんて探してるのか?」
「そうよ。三月ウサギを探しているの。あいつには、言ってやりたい事が山ほどあるのよ」
「…ハッ、ばかばかしい。そうかい、じゃぁ答えてやるよ。僕は見なかった」
「そう…。全く、もう!また逃がしたわ!あのやろう…」
独り言のようにブツブツと何かを呟きながら、少女は足元の砂を蹴っ飛ばす。
さぁ、と風に遊ばれた砂は、マナブから見て左側に砂塵となって流れていった。
「全く、もう!は、こっちの台詞だよ」と呟いて、マナブは溜め息を吐いた。
これで用は済んだろう、と少女に告げるが
何ぞ用事でもあるのだろうか、少女は、じっとマナブを見上げている。
「まだ用があるの?」
「順番を待っているのよ」
「・・・順番?何の」
「すべりだい」
溜め息交じりに、上がってくればいい、と告げれば
何時の間にか少女の姿はマナブの隣で、ちょこんと座っていた。
そして、まるで蠍の喧嘩でも眺めるような表情で、マナブの手首を眺めている。
どうしたのだと慌てる訳でもなく、赤に驚く訳でもなく。
ただじっと、赤と、その向こうにある押し広げられた傷口を見つめているだけ。
「そんなに珍しいか?」
沈黙と視線に急かされるようにマナブが問えば、少女は首を横に振った。
ヘッドドレスの紐がゆるゆると左右に振れるさまを、まるで振り子時計を見つめる感覚で眺めていると
「別に。悪趣味だわ、と思っただけ」
と一言返って来た。
それだけ言い切ると、意図的に「はぁ」と白い息を吐く。
「あんた、本当に何なんだ」
「マリー。間違っても、あんた、なんて下品な名前じゃないの」
「…あ、そう。僕は、」
「興味ないわ、マナブ」
ぽつりとそう答えて、マリーは靴の先に付いた砂を払った。
まるで非現実の中に引きずり込まれたような感覚の中で、マナブはその爪先を見つめる。
戻って来い、と頭の中で腕を引いたのは、向こう側の大きな道路から鳴ったクラクションの音だ。
ハタと我に返ると、マナブはじとりとマリーを睨み付けた。
「どうして僕の名前を知ってるんだ」
「それは、どうしても説明しなければならないこと?」
小首を傾げて、眺め上げているマリーの視線に
マナブは思わず「…興味、ないけど」としか言葉を返せなかった。
浮遊しているような不感覚の中で、真意を探ろうとしても無理なのだろう、と
無意識に諦めたと言った方が正しいのかも知れない。
「可哀相…。こんなに醜くなって」
徐に呟いて、マリーは何処からかレースの付いたハンカチを取り出した。
それを器用にマナブの手首に巻きつけると、ゆるくキュッと端を結んだ。
じわり、と真っ白なハンカチに赤い染みが侵食を始めてゆく。
「可哀相…か。おかしな同情でもしてるのか?」
「いいえ、勘違いしないで。あなたなんかじゃなくて、この手首に同情しているのよ」
「・・・増しておかしな事を言うな、きみは」
「あなたが痛みを感じようと、どうでもいいの。ただ、この手首が可哀相なだけ」
きっぱりと返してから、マリーはマナブの手首に軽く口付けを落とした。
「大丈夫、きっとまた綺麗になるわ」と何度か呟いて。
「マリー。きみは、こんな事をしたいと感じたことはないか?」
「愚問ね。ある訳がないわ。だって、私の綺麗な手首に傷なんて付けたくないもの」
「そりゃぁ正論だ」
竹を割ったような返答に、マナブはケラケラと笑った。
奥深くの心情に共感して貰おうと企んだ訳では無かったが、
まさかそんな理由で返答されるとは思ってもみなかった。
傷なんて付けたくない。それは尤もな正論だ。
「ねぇ、どんな理由があって、あなたはこんなことをしているの?」
「何だ、興味でもあるのか?」
「別に。暇つぶしの好奇心だと思ってくれて構わないわ」
言って、ゆるくウェーブの掛かった毛先に指を絡めるマリー。
退屈な話を延々と聞かされ続ける女が見せるような行動だ。
「理由なんて簡単さ。僕の中の穢れを排出しているだけ」
「穢れ?人を恨む気持ちは、穢れと言うの?」
「人を恨む気持ち?僕にはそんなものないさ」
「だって、殺してやりたいほど憎いんでしょう?あなたのお友達のこと」
マリーの言葉で一瞬にして脳裏を掠めた景色を、フラッシュバックと言うのだろうか。
見上げた景色は、悪意の目。まるで自分を囲むように向けられる、悪意の目だ。
軽薄で礫のような言葉と、嘲笑う声。そして、自分目掛けて飛んでくる拳の数々。
沢山の机と椅子が並ぶ音楽室で、一斉に鍵盤ハーモニカが鳴り出すような恐怖。
ぎり、と奥歯を噛み締めると、律儀に自分が制服を着込んで此処にいる事に気付いた。
「ほら、殺してやりたいほど憎んでいるのよ、マナブ」
「違う!違う違う違う!僕にはそんな汚らしい感情は無い!」
あなたの信じている主って、てんで軽率なのね。
最後まで抵抗も拒絶もしないから、そんな事になるのよ。
吐き捨てるように呟いて、マリーはマナブの首元で項垂れ続けるそれを指差した。
そして立ち上がると、スラロープを滑ることなく、軽く跳ね上がり、砂場へ。
左手首を眺め続けるマナブの肩は、小刻みに震え出した。
それを見上げて、一瞥すると、マリーは踵を返す。
「項垂れてるくらいなら、反旗を翻す方がよっぽどマシだわ」
じゃぁね、デキソコナイのイエス様。
その言葉は明らかにマナブに対するものだった。
それを理解しながら、ゆっくりと頭の中で反芻しているうちに、マリーの姿は消えていた。
砂場に残されたのは、彼女のものと思われる足跡だけ。
「うぅぅあぁぁぁああああ!」
気が触れたように叫ぶと、マナブは通学カバンを引っ掴んで走り出した。
それでも頭の中で反芻されるのは、「デキソコナイのイエス様」
走りながら、胸元で項垂れ続けるそれを引きちぎると、足元へと投げ捨てる。
何度か跳ね上がった音の後、それは網目状の側溝に落ちていった。
マナブの排出した鬱積と同じように。
翌日、あの公園にはマリーの姿があった。
ひとり、あちこちを見渡しながら必死に目を凝らしている。
「三月ウサギのヤツ…。今日も上手く逃げたものだわ」
呟いて、砂場に踏み込めば、風の悪戯で飛ばされてきた一枚の新聞。
それを踏んづけてしまったと認識して、マリーが視線を落とせば、大きく踊る文字。
真昼の悪夢!男子生徒(17)同級生を次々に刺す!
風に煽られて、はたはたと音を立てるそれを、飛んでゆかないように足で踏みつけ
マリーはそのセンセーショナルな言葉だけを訥々と朗読すると、ふわりと足を浮かせた。
再び風に遊ばれて舞い上がった新聞は、砂塵と同様に横へ流れていって、じきに見えなくなった。
「けしかけ過ぎた、かしら」
まるで驚く様子もなく呟くと、小首を傾げて眉間に皺を寄せる。
「とんだイエス様だこと」と続けて、視線を上げれば、ベンチの向こうに長い耳。
「あ!見つけた!今日という今日は絶対に逃がさないわよ!待ちなさい!」
厚底のブーツをバタバタと鳴らしながら、マリーは飛んで行った新聞紙とは逆方向に走り出す。
大きな懐中時計を持った、あのウサギを捕まえてやると意気込んでいるようだ。
飛ばされた新聞紙は、空中で一度だけ翻ると
ゆらゆらと左右に振れながら、ゆっくりと地面に落ちた。
マナブの投げ捨てたあのネックレスを隠すように、側溝の上にふわりと落ちると
風さえもう遊び飽きたのか、暫くその場所を動くことは無かった。
そんな、真昼の火曜日。