蜜の味:前編
社内ネットワークの個人フォルダに、新着メモが届いていた。
「取引先より電話がありました。20:00に再度ご連絡いただけます」
短い文面。
どこの取引先の、誰かも書かれていない。
それは、私達だけの暗号…。
ロビーですら肌寒い。
ヒールの音が甲高く響く。
そっと。
通用口に回る。
午後8時。
自社ビルの、地下駐車場。
殆どの社員が帰宅した後で、照明も半分以下に落とされ薄暗い。
ミカは、車の電磁ロックに手をかけた。
ヘッドライトが点滅し、おかえりなさいといわれているようだ。
吐く息が白い。
首元を押さえ、運転席に身を沈める。
ほどなくして、助手席のドアが開いた。
まだ、車は温まっていない。
「ごめん、待たせた?」
「ううん」
乗り込んできたスーツの男性が、鞄を後部座席に放った。
「助手席に、乗るの?」
普段なら後部座席に乗せるべき人物を、助手席に乗せて社を出るのはいささか油断しているような気がして、ミカは落ち着かない。
「いい、見られてもなんとでも言い訳できる」
男は、ミカのため息に気付かぬ振りで、もうシートベルトまで装着済みだ。
「わかった。いつものところでいい?」
「ああ」
ミカは、車のエンジンをうならせた。
中堅化粧品メーカーに勤めて5年。
ミカ自身も、中堅社員になってしまった。
もう、四捨五入したらアラサーである。
同期入社の女子たちは、皆結婚して退社した。
恐ろしいことに、皆、販売店の店長と結婚したものだから一時は問題にもなった。
そんな結婚で貴重な社員を失うわけにはいかない、というのが会社の本音である。
そこから、暗黙のうちに社内恋愛はご法度という雰囲気になってしまった。
だから、ミカは慎重にならざるを得ない。
今隣に座る、エリアマネージャーの相模を恋人に持つ身としては。
結婚を意識しないわけではない。
相模はまだ30代だが、出世頭でルックスが良いせいか人気も高い。
互いの両親とも顔合わせをしているので、いつ結納となってもおかしくはない時期ではあるのだ。
しかし、前述の理由で婚約にすら至っていない。
バイパスを良い感じにとばしていると、相模の携帯が鳴った。
メールの着信を確認すると、相模は前を向いたままミカに言った。
「ミカ、今日泊まっていい?」
「え」
少し驚いた。
社内恋愛が公けになららいよう、極力互いの家には行かないようにしていたし、デートは県外を選び、たまにこうやって一緒に帰るときも
「電車通いのマネージャーと帰りがご一緒になったのでお送りすることになって」というていを装うのに。
相模の提案は、思っても見なかった。
「いつものホテルに向かってるよ?」
「うん、でも明日休みになったし」
明日の出張の予定が、先方の事情でなくなったらしい。
ちらりとうかがった相模の顔は、何やら疲れているようだ。
「…泊まっていいの?」
「いいよ」
今日の相模の様子がなんとなくおかしいことに気付いてはいたが、どうやら重症のようだ。
社内恋愛ご法度令は知っているはずである。
「どうしたの?」
「ん?蜜の味を堪能したいだけ」
「蜜?」
例えが分からない。
「お前が花で、俺がミツバチ」
「なにそれ」
蜜をなめるハチ。
不覚にも、卑猥な想像をしてしまう。
「目の前においしい蜜がある。しかも明日は休みになった。ちょっと贅沢したいじゃないか」
本当に疲れているんだろう。
休みなら、いいか。
ミカは自分を納得させて、右にハンドルを切った。