蜜の味:後編
隣に、人のぬくもりがある。
カーテンから差し込む薄い光が、まだ早朝であることを知らせる。
ほの暗い部屋の壁で、時計が正確に秒針を刻む。
6時少し前。
シングルベッドで2人で寝るのは少し窮屈だったからか、いつもより早めに目が覚めた。
ミカは隣に眠る相模の背中に顔を寄せた。
ぎゅ、っと後ろから抱きつく。
あたたかい。
そして、ふたたびまどろみの中へ。
2人してようやく目覚めたのは、10時を回った頃だった。
「おはよう」
「んー」
「今日、どっか行く?」
「いや、なんも考えてない。ミカはどこか行きたい?」
「せっかくの休みだから、一日中ごろごろしててもいいよ?」
「もったいないなー」
相模はそういって笑う。
「とりあえず、ご飯でも食べにいこうか?」
「うん」
運転は相模がしてくれた。
車を走らせ向かったのは、近所のファミレス。
土曜の昼間、家族連れも多いその店内で2人は軽くランチを食べた。
自分に関係のない雑踏は、なぜか心地よい。
適度な雑音が、それぞれの会話を邪魔することも無い。
「ねぇ、ミカ」
食後にコーヒーを飲みながら、相模が切り出した。
「昨日、部長に俺たちのこと話した」
「え?」
思いがけず、重大な事実を耳にして体がこわばる。
「なんで?」
「……俺、関西に転勤することになる」
やっぱりか、と、さらに緊張していく。
「それで?なにか関係あるの?」
「結婚しても仕事を辞めさせないという条件を提示された」
どういうことかサッパリわからない。
何を勝手に話を進めているのか。
結婚を考えてくれているという安堵と、相談をしてくれていないという不満。
複雑な心境がうずまく。
「それってどういうこと?」
「俺はお前と結婚する意志があって、それを会社にも認めてもらったってこと」
淡々と、相模はそう告げた。
「でも、会社辞めるなってことは別居?単身赴任を考えてるの?」
「社内結婚するのには、いろいろと根回しが必要だし、スケジュールもあるからあと1年はかかると思う」
「……」
「関西転勤の内示が出た時からいろいろ考えたんだけど、お前が仕事を辞めることもふくめ」
「勝手に考えないで、相談してよ」
表情もこわばっているのが自分でもわかった。
言葉を選べない。
「ただ、お前のキャリアを俺が勝手に切ることも出来ないな、と思って、先に上に相談した」
2人の問題なのに?
というか。
「ねぇ、もしかしてこれプロポーズじゃない?」
混乱する中、最も重要な事実に気付く。
「……そうだね?」
「仕事人間って、これだから情緒に欠けるのよ!」
「はぁ?最終的にそこが問題なわけ?」
相模から苦笑が漏れる。
真剣な表情から、困ったような、あきれたような。
「でも、俺と一緒に人生歩んでくれるわけでしょ?」
それは、間違いないけど。
「あたしどうしたらいいの?あたし、いつまでも上質な蜜でいられる自信ない」
「蜜?」
聞き返して、「ああ」と相模が納得する。
「俺はミカしかいらない」
「こんなファミレスでいう台詞?」
釈然としないが、耳の裏がこそばゆくなる。
「俺に蜜の味を覚えさせたのは、お前なんだから責任とってね」
「また勝手なこと言ってる……」
「関西で実績残して、本社に戻ってくるから」
「うまく行くかな?」
「遠距離が?それとも結婚が?」
「……どっちも。それに仕事も」
「とりあえず、1年考えて。俺は、大丈夫だと思うけど。ミカはもっと自分を信じて」
どこからそんな自信があふれてくるのか。
相模は、もっと上質な蜜があることを知らないのか。
どうやって自信を持てというのか。
相模が好きで、好きすぎて自信が持てない。
ごちゃごちゃしている。
でも。
ミカにとっても、それが甘い甘い蜜の味だと。
きっと、一人になったら実感するのだと。
心のどこかでは分かっているのだ。