蜜の味:中編
自宅マンションの駐車場に、吸い込まれるかのように車を停めた。
うまく、バックで駐車できた。
自宅に相模を呼ぶのは、2回目だ。
ミカはふと、洗濯物を室内に干したままだったのを思い出す。
玄関前まで来て、
「ちょっと待っててください」
そう言って先に入ろうとしたが、
「いいよ」
ミカの逡巡を悟り、相模は苦笑しながらドアノブに手をかけ一緒に室内に入った。
「ただいまー」
相模が、誰もいない室内に声をかける。
おじゃまします、でないその自然な対応に、ミカの心臓が「きゅん」とときめく。
そのさりげなさが好きだ。
相模はコートを脱ぐと、ワンルームに設えられたソファに深々と腰を沈めた。
もちろん一人掛けのソファである。
ミカはテーブルの脇に足をくずして座った。
「土日、出張ってどこに行く予定だったの?」
「関西」
短く答え、相模はコーヒーを要望した。
ミカはキッチンに立ち、電気ケトルに水を入れた。
インスタントのコーヒーをカップに入れ、湯が沸くのを待つ。
「何か、食べる?」
「ん、何があるの?」
冷蔵庫を開けると、使いかけの野菜が少し。
「焼きそばくらいなら、すぐ出来るけど」
「ん、テキトーに」
「待っててね」
先にコーヒーを出し、再びキチンへもどる。
ざっと野菜を切って、中華麺を投入したしょうゆとソース味の、簡単な焼きそばを作る。
その間に、相模はテレビの電源を入れていた。
ちょうど放送していたビジネス番組を熱心に観ている。
テーブルに二人分の料理と缶ビールを出すと、相模がちょっとだけ嬉しそうな顔をした。
「何?」
「いやー、俺焼きそば好きなんだよね。さらに言うなら、焼きそばと一緒に飲むビールも好き」
「そ?よかった」
なんだか、ほんわかした気分になる。
しばらく、たわいのない話をしながら時間が過ぎた。
また、相模の携帯がメールの着信を知らせた。
社用携帯なので、会社絡みの知らせであることは明らかだ。
だが、相模はそれを一瞥しただけだった。
「いいの?」
「いい。ミカと一緒にいるときは仕事は排除」
その言葉を、単純に受け取る。
「お風呂は?」
「んー、先に入っていいよ。俺の着替え、あったっけ」
「出しとくね」
結婚後の生活がそこに見えるようで、うきうきしてしまう。
ミカが入浴を済ませ脱衣所に出ると、ぼそぼそと、会話している声が聞こえた。
相模が誰かと電話している。
思わず、身動きできなくなる。
「ええ、はい、はい…。それは先方次第ですけど。来週ですか?はい…」
仕事の話をしているようだ。
「わかりました。明日、こちらから大沢部長に確認します」
大沢は、人事部の部長の名前だ。
まさか、転勤か?
さあっと、ミカは体温が下がるのを感じた。
販路拡大のために、関西事務所を立ち上げる話は半年ほど前から聞いていた。
まさか…。
さっきは、仕事は排除と言ってたが、まだ、言い出せない何かがあるということだろうか。
電話が終わるのを見計らって、さも今風呂から上がったかのように浴室を出る。
「あがったよー」
顔をあげた相模と、視線が絡む。
そっと、相模が腕を広げた。
ミカは数歩進み、相模の体に背中を預ける。
首筋に唇が当てられた。
ちゅ、と湿った音が耳に届き、頬が紅潮する。
蜜の味の話を思い出し、心拍数が上がる。
寝巻の上から体を這う相模の手が、温かい。
「ミカ、好きだよ」
「知ってる…」
こそばゆい気分で、体をひねった。
唇を重ねる。
私は、蜜になれているのだろうか。
そんな疑問が、ミカの心をかすめる。
もし、相模が転勤になったら、自分はどうするだろう?
仕事を辞めて、ついていく?
それとも、相模が帰ってくるのを待つ?
不安が。
じわりと。
なぜ、何も言ってくれないの?
蜂は、もっとおいしい蜜に飛んで行ってしまうんじゃないの?
体を相模に預けながら、ミカの心は不思議な高揚感に包まれた。