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ひきょうもの

作者: 桜庭 春人

 今、目の前にあるもの。

 薄いアメリカンコーヒー。食べかけの甘ったるいアップルパイ。放置プレイをくらったアイスが溶け出して、かなり気持ち悪い色になっているメロンソーダ。そして泣きじゃくる御栗。

 修二はほとんど途方に暮れながら、『ジムノペディ』が流れる喫茶店の一席に座っていた。


***


「水木ィ、どうしよう。あたし、振られるかもしれない」


 そんな第一声と共に御栗が電話してきたのは、午後も二時を過ぎた頃だった。自室で惰眠を貪っていた修二は、携帯を片手に眠い目を擦る。遮光カーテンから漏れ出す光が眩しい。ぼさぼさの頭を掻き回しながら、修二は寝起き丸出しの声で答えた。


「一体どうした」

「どうしたもこうしたも……」


 歯切れの悪い言葉に、修二は体を起こしながら眉根を寄せた。いつも言い過ぎる程に口の動く御栗らしくもない。よくよく耳を澄ませてみれば、微かに聞こえる呼吸音には、嗚咽が混じっていた。

 そこでようやく異変を感じ取り、修二は慌て気味に答えた。


「おい、マジで何があった」

「……ちょっと話聞いて欲しい。『アルフレッド』で待ってるから、お願い」


 懇願の言葉を最後に、通話はあっさりと切られた。修二は無機質なツーツーという音にしばし呆然として、我に返るなり急いで着替え始めた。気性の激しい御栗の事だ。格好つけてゆうゆうと現れたりすれば、何を言われるか分からない。彼女とそれなりに付き合いの長い修二はそれをよく心得ていたから、この際多少の寝癖は割愛し、転がるようにして家を出た。


 御栗の指定した『アルフレッド』は、ここから二駅離れた地下街の喫茶店だ。普段通りの馬鹿な話をするなら、そこらのファストフード店で十分事足りる。なのにあえて『アルフレッド』を選ぶ辺り、御栗はよほどの何かを抱え込んでいるに違いなかった。

 だからこそ、急いでやらないといけない。

 気が強くて面倒くさくて、けれどその内面に脆さを持ち合わせている彼女の事が好きだったから、汚れたスニーカーの紐が解けかかるのも構わず、修二は駅への道を急いだ。

 一日で最も暑い時間帯。汗だくの耳に、蝉の声がうるさかった。


***


「あたし、ケータに嫌われたのかなあ」


 修二が肩で息をしながら到着した時、御栗は既に奥の席に陣取って、薄くグロスの塗られた唇を震わせていた。その時点で涙腺は決壊寸前だったらしく、一言振り絞るようにそう言うなり、彼女はぼろぼろと大粒の涙を零した。周囲からは修二が彼女を泣かせているようにしか見えないようで、一斉に向けられ、そして背けられた視線が体に突き刺さる。店内に流れる『ジムノペディ』の重い音を振り払うようにして、修二は御栗の向かいの椅子を引いた。彼女の前に置かれたサクランボが飾られた店名入りのグラスの中では、白と緑がどろどろに混ざり合っている。


「こんな時間にたたき起こして何の用だよ」


 自分でもつまらない事がよく分かっている冗談を修二は口にした。御栗はこちらを見る事すらせず、ぐすぐすと泣き沈んでいる。

 これは相当キてるな。

 そう判断し、修二は内心ため息をついた。正直言って、友人の彼女と二人きりというのは中々気まずい。ましてそれが内心狙っていた相手だとなれば、尚更のことだ。しかし今、修二はあくまで御栗の友人としてここにいる。出来る事をしてやらなければならない。ひとまず自分の注文を済ませて、修二は改めて御栗と向きあう。

 

「で、『ケータ』がどうしたって?」

 

 御栗は彼女の恋人であり、修二の親友である菊池圭太の事を『ケータ』と呼ぶ。

 高校から始まった三人の付き合いは、かれこれ五年程になる。というより、それぞれを別々に知っていた修二が二人を引き合わせたと言ってもいい。比較的付き合いの浅い菊池が御栗を持っていったというのも皮肉な話だ。結局告白するタイミングを逃した修二は毎日必死で笑顔を作って、友人二人と付き合う他なかった。

 そんな背景を欠片も知らない御栗は、綺麗にマニキュアの施された指先で涙をぬぐいながら答えた。


「ケータ、あたしに飽きちゃったのかもしれない」


 要するに、『ケータ』が浮気しているかもしれないというのが御栗の泣いている理由だった。

 今日の午前中、駅前のアウトレットモールで、菊池が知らない女性と歩いているのを見たというのだ。それも、かなり楽しそうな様子で。

 何とかそこまで聞き出した修二はため息混じりに、ファンの取り付けられた天井を仰いだ。のんびりと空気をかき混ぜているそれは、不思議と心を落ち着かせてくれる気がする。


 カウンターでは、働き者のコーヒーメーカーが低い唸り声を上げている。修二は背中でその音を聴きながら、運ばれてきたアップルパイにかぶりついた。舌に絡みつくような甘さが鬱陶しい。店長一押しのメニューらしいが、どう贔屓目にみても在庫処分のための方便だとしか思えない味だ。ただし、シナモンだけは中々いい仕事をしている。もぐもぐと口を動かしながら、修二は御栗から目を逸らした。


 実のところ、修二にはその女性が誰であるかの予想がついていた。恐らく、彼女は菊池の姉だ。もうじき御栗の誕生日だから、姉とプレゼントを見繕いに行く。そんな話を、数週間前に聞いた覚えがある。

 修二はテーブル端のスティックシュガーの頭をちぎり、中身をコーヒーカップに放り込んだ。温くなった琥珀色の液体をかき混ぜながら、正面の御栗を窺う。珍しく化粧の薄い彼女は、ぐったりとうなだれていた。


 しかし、それは修司だけが知っていればいい事だ。握りつぶしてしまえばいい。昔、英語の授業でもやったじゃないか。“All is fair in love and war.”(恋と戦争においては、あらゆる戦略が許される)だ。

 自分の中に湧いた汚い考えに内心驚きながら、修二はテーブルに頬杖をついた。ガラス張りの壁の外では、蛍光灯が照らす薄黄色い道をまばらな人が行き来している。その中には当然カップルの姿もあって、修二は居た堪れない気持ちになった。


 このまま黙っておいて上手くそそのかせば、存外にやわな御栗は菊池と別れるかもしれない。ついでに失恋で落ち込んでいる所を慰めてやれば、修二にもチャンスは巡ってくるかもしれない。

 もちろん、上手くいくなどという保証はどこにもない。それでも、ひょっとしたら……という甘い夢想をせずにはいられなかった。失恋者の哀しい性だ。


 店内に流れる音楽が切り替わった。『ジュ・トゥ・ヴー』だ。店長はサティが好きなのだろうか。修二はカウンターの奥に佇む、髭の生えた男性をちらりと見やった。御栗の後ろでは、生い茂る観葉植物が空調の風に揺れている。その時目に入った御栗の姿が、何だかとても小さく見えて、修二の心に僅かな迷いが生じる。


 このまま修二が小細工すれば、確かに思い通りにはなるのかもしれない。

 けれどきっと、御栗はすごく悲しむのだろう。脆い内面をぐちゃぐちゃにして、今よりずっと泣くのだろう。

 それは修二の望むところでは決してなくて、その迷い故に修二は馬鹿な質問をした。


「御栗。菊池のこと、好きか?」


 随分長い沈黙を挟んだ修二の唐突な質問に対し、御栗は大きな目を濡らしたまま小首をかしげ、しかしはっきりとした口調で答えた。


「好きだよ。大好き。当たり前じゃん」


 その返事を聞いて、修二はこっそりと口端に笑みを漏らした。 

 ああ、そうだ。御栗のこういう所が、修二は好きだったのだ。だからこそ、未練がありながらも今まで二人を見てこれた。そして、今度は諦められる。

 修二は軽く頭を掻くと、わざとらしい程きつい口調で言った。


「菊池のやつ、酷いな。御栗がいるのに、他の女と出歩くなんて。ありえないよな」


 御栗が傷ついた顔をして俯く。それを出来るだけ見ないようにして、修二は更に続けた。


「でも俺、あいつが御栗のこと一番好きなの知ってるよ」


 目の前の御栗が、驚いたように顔を上げた。今まで気付かなかったが、その顔は流れた化粧でずいぶん汚れてしまっている。修二は笑い出したいのを堪えながら、じっと御栗の目を見つめた。


「今度の事だって、多分何か理由があるんだろ。ちゃんと聞けよ、恋人同士だろ」


 菊池なんか、サプライズにする予定だった誕生日の事を聞かれて困ってしまえばいい。ざまあみろだ。

 舌でも出してやりたい気分だった。

 おろおろしながらデコレートされた携帯を取り出そうとする御栗を手で制し、修二は言った。


「払っといてやるから、早く行けよ。直接聞いた方がいいだろ」

「でも」

「俺と二人で話してたのがバレたら、それこそまずいだろ」


 それでもまだ逡巡を示す御栗に、修二は犬を追い払うような手つきをしてみせた。出来るだけわざとらしくないよう、「それに」と顔をしかめてやる。


「俺の前でいつまでも見苦しい顔をさらすな」

「あ、酷い」


 御栗が笑い混じりに口を尖らせた。一瞬、二人の目が合う。修二が出入口を指し示すと、御栗は「今度絶対に返すから!」と言い残し、慌しく立ち上がる。可哀想なメロンソーダは放置されたままだ。修二は残りのアップルパイを頬張りながら、友人の背中を見送った。スピーカーから流れる音楽に、一瞬だけドアベルの名残惜しげな音が混ざる。再び集中した店内の視線が、今度はあまり気にならなかった。


「まっず」


 修二は小さく一人悪態をつくと、底が見えかかっているコーヒーカップに手を伸ばした。不味すぎて喉に詰まったのだ。無理やり飲み下すと、胃液が逆流しかける感覚に涙が滲んだ。修二は目を擦り、乱暴に咀嚼を続ける。

 中身のリンゴはやたら甘いし、パイ生地の口当たりはもそもそしている。その上、何故かしょっぱい。最後の一欠片を何とか飲み込み、修二は天井のファンを仰いだ。

 ひと仕事終えたコーヒーメーカーが、カウンターで大きなため息をついた。

【恋愛短編小説企画「アイコトバ」参加作品】


こんにちは。

短編企画「アイコトバ」を主催させて頂きました、桜庭です。

この企画は、恋に関する格言や諺をテーマに短編を書こうというものです。

初の主催ということで何かと及ばない点が多いながら、十名を超える作者様が参加して下さいました。

「企画:アイコトバ」で検索して頂ければ、他の参加者様方の作品をご覧になれます。

参加者の皆様にも、読み専の皆様にも、お楽しみ頂ければ幸いです。


お読み頂きありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
[一言] すっかり感想が遅くなりました。なぜに今頃と思っても呟かないでください(笑) そういえば私にとって初めての桜庭さんとの出会いはこの作品だったんですよ。 よく男性向けの作品や男性作者の場合、男…
[一言] 文章展開ともに素晴らしく、素敵な作品だと感じました。 物語がラストへと収束していく際に『ジュ・トゥ・ヴー』に曲が変わったと言うのも、良い演出だと思います。『君が欲しい』という曲だからこそ、そ…
2010/09/04 20:32 退会済み
管理
[一言] 初めまして。小説は質より量を実践中の神村律子と申します。 読ませていただきました。 セリフを一行空けて書く手法はなかなか斬新ですね。 それとも私が知らないだけかな? 喫茶店の匂い、B…
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