第9話 祖母・梅が遺した小さな箱
ある雨の日の午前、
診療室に一本の電話が入った。
「須之内先生。
先日、おばあさまの家の整理中に……
ご遺品の一部が見つかりまして」
声の主は、祖母・梅の友人であり、
長年家を見守ってきた 村川さん だった。
桃は慌てて休診札を下げ、
午後の予約を数件調整してもらうと、
祖母の家へ向かった。
梅が亡くなって二年。
家の扉を開けた瞬間、
桃の胸に温かくもしんとした寂しさが広がる。
「これが……おばあさまが、大事にしまっていたものです」
村川さんが差し出したのは、
手のひらほどの古い木箱だった。
角が擦り切れて、何十年も使われていたことがわかる。
桃はそっと受け取り、
深呼吸して蓋を開けた。
中には、三つのものが入っていた。
1つ目は、 古い歯科用ミラー。
2つ目は、 桃が幼い日の写真。
そして――
3つ目は、折りたたまれた 一通の手紙。
差出人欄には、
見覚えのある名前があった。
──『桜』。
桃の胸が掴まれたように痛んだ。
(……お母さんの手紙?)
震える指で封を切り、中の便箋を広げた。
便箋の文字は震えていた。
おそらく病床で書いたものだろう。
──桃へ
あなたがこれを読むころ、
私はそばにいないかもしれません。
それでも、あなたに伝えたいことがあります。
桃ちゃん、
あなたはよく笑う子でした。
くしゃっと目を細めて笑うと、
まわりの人まで笑わせてしまう子でした。
私が弱って台所に立てなくなってきた頃、
あなたは「一緒に作る!」と言って
白玉を丸めてくれたね。
あの時あなたが作った白玉は、
どれよりも甘く感じました。
桃ちゃん。
あなたはきっと、
“誰かの痛みを見つけられる人”になると思います。
痛みは、目に見えるものだけじゃなくて、
見えないところに隠れていることもあるから。
どうか、たくさんの人を笑顔にしてあげてね。
その笑顔の中に、私もきっといるから。
──桜より
⸻
桃の視界がぼやけた。
気づくと便箋を胸に抱きしめ、
声にならない息をこぼしていた。
「……お母さん」
母の残した言葉は、
すもも先生としての“根っこ”に届いていくようだった。
支えてくれた祖母・梅。
そして見守っていた母・桜。
その二人の温かさが、
一気に胸の奥でつながった。
ふと箱の中の古い歯科ミラーを取り出すと、
そこには小さな文字が刻まれていた。
「桃、負けない子になりなさい」
祖母・梅の筆跡だった。
桃は泣き笑いしながら呟いた。
「……おばあちゃん、ずっと言ってたもんね。
『桃は泣き虫だけど、人のためには強くなれる子だよ』って」
その言葉の意味が、
今になってようやく、深く身体に染み込んだ。
クリニックへ戻ると、
ちょうど夕日が窓から差し込み、
診療室を温かく照らしていた。
桃はそっと木箱を棚に置き、
深く息を吸った。
(お母さん……
私、あなたが信じてくれた“人の痛みに気づく人”に
少しはなれているかな)
木箱のふたを閉める瞬間、
どこかで風鈴が鳴るような、
柔らかい音がしたような気がした。
桃は小さく笑い、
白衣の袖を整える。
「よし……次の患者さんを呼ぼう」
その声は、
どこか母の面影を宿しているように感じられた。




