第8話 “治らない歯痛”と、夜に泣く会社員
夕方の診療が落ち着いたころ、
受付の沙耶が慌てて桃を呼びに来た。
「すもも先生、大変!
待合室で泣いてる男性がいます……っ」
桃はタオルを手に取り、急いで待合室へ向かった。
ソファの端で肩を震わせていたのは、
スーツ姿の 根岸拓郎(35)。
以前も何度か来院した、真面目な印象の会社員だ。
「根岸さん……どうしたんですか?」
彼は涙を拭き、うまく呼吸ができないまま、
「……歯が、痛くて」と答えた。
しかしその顔は、歯の痛み以上に
心の疲労で押しつぶされそうだった。
レントゲンを撮り、口の中を丁寧に診察する。
しかし、虫歯も炎症も、異常はどこにもなかった。
「確かに痛むんですか?」
「はい……夜、家に帰るとズキズキして、
そのまま眠れなくなるんです」
桃は頷きながら、
根岸の“呼吸の浅さ”に気づいた。
(身体じゃなくて、心の痛みが出ている可能性が高い……)
少しだけ声を落として言った。
「根岸さん。
最近、眠れていますか? 食事は?」
根岸はゆっくりと目を伏せた。
「……寝られません。
家に帰ると、息苦しくて。
歯の痛みだけじゃなくて、胸が……こう、締めつけられる感じで」
桃は背中を支えながら、椅子に座らせた。
「痛みって、歯から来るものだけじゃないんです。
不安やストレスが強いと、
“歯の痛みとして”出てしまうことがあるんですよ」
根岸はしばらく黙っていたが、
ついに堰を切ったように話し始めた。
「仕事でミスをしてしまって……
部下に迷惑をかけて。
それが原因で、異動の話が出ていて……
家族にも言えなくて……もう、全部が怖いんです」
声が震え、目に涙がにじんだ。
桃はそっと横に座り、タオルを差し出した。
「歯の痛みはね、
“本当の痛み”から目をそらしたい時に出ることもあります」
根岸は顔を上げた。
「本当の痛み……?」
「ええ。
きっと根岸さんは、
“家族をがっかりさせたくない”って思いが強いんだと思います。
だから、胸の痛みを“歯痛”にすり替えてしまったんです」
根岸は涙を拭きながら、小さく息を吐いた。
「……情けないですね。35にもなって、泣いてしまうなんて」
桃は首を横に振った。
「情けなくなんかないですよ。
泣けるってことは、まだ頑張れるってことですから」
その言葉に、根岸の目が少しだけ柔らかくなった。
桃は治療計画書を裏返し、
ペンでひとつの線を引いた。
「まずは今日、たくさん泣くこと。
そして……家族に、ひと言だけ話してみませんか?」
根岸は不安そうな顔をした。
「言って……嫌われませんか?」
桃は優しく微笑んだ。
「嫌われません。
不安を分けてもらうのが家族です。
大丈夫、ちゃんと伝わりますよ」
しばらく考えるように目を閉じた根岸は、
やがて涙をこぼしながら頷いた。
「……話してみます。
今の自分の気持ち、正直に」
根岸は、以前より少しだけ明るい顔で診療室に来た。
「すもも先生……。
歯の痛み、消えました」
桃は思わず笑顔をこぼした。
「本当ですか?」
「はい。
妻に全部話したら、
『あなたが心配だったの』って……
泣かれてしまって」
照れくさそうに笑う根岸。
「ちゃんと抱きしめてもらって……
その日の夜は、久しぶりにぐっすり眠れました。
歯も、胸も、痛みが消えてました」
桃は椅子に手を添えながら言った。
「良かった……
痛みって、誰かに受け止めてもらうと消えるんですよ」
根岸は深く頭を下げた。
「先生、本当にありがとうございました。
僕、ちゃんとやり直します」
閉院後、
桃は母・桜の写真を思い浮かべた。
──「桃ちゃん、辛い時は誰かに話していいんだよ」
幼い頃、その言葉に救われた夜があった。
(お母さん……
いま私が誰かの“痛み”に気づけるのは、
あなたが教えてくれたからだよ)
桃は窓を開け、
夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
痛みが消える瞬間を、
今日またひとり、見届けられたことに感謝しながら。




