第7話 歌えない少女と、ひまわりの入れ歯
夏の強い日差しが診療室のブラインドに縞模様を作っていた午後。
桃は予約にない小さな影が、そっと扉の前に立っているのに気づいた。
「どうぞ、入っていいよ」
控えめな足取りで現れたのは、
小学5年生の 小田切ひな。
胸の前で抱きしめる小さなポシェットが震えている。
「すもも先生……歌えなくなっちゃったの」
ひなの声は、か細く震えていた。
診察椅子に座ったひなは、
ゆっくりと口を開けた。
前歯が2本、欠けている。
「学校の合唱でね、ソロを任されたんだけど……
その一週間前に転んじゃって。
歯が折れてから、息がうまく漏れちゃって……
みんなの前で声が出ないの」
桃は、そっとひなの手に触れた。
「怖かったね。でも大丈夫。
歌うための歯、一緒に作っていこう」
ひなは涙をこらえながら、
「……歌いたいのに、声が出なくて悔しい」とつぶやいた。
桃はその言葉に、
幼い頃の自分を少し思い出した。
母・桜の前で歌を披露しようとしたのに、
恥ずかしくて声が震えていたあの日。
──「桃ちゃんの声、ひまわりみたいで元気が出るよ」
母の、あの柔らかい笑顔。
(ひなちゃんにも、あの時の私みたいに
顔を上げられる瞬間を作ってあげたい)
治療計画を説明すると、ひなは不安そうだが頷いた。
「じゃあ、仮歯を作るね。
歌う時に空気が漏れにくい形にするから」
桃はひなの口の形に合った
小さな前歯の模型を丁寧に作りながら、
そっと、ある細工を施した。
(ひなちゃんが歌う時に、
気持ちが上を向くように……)
その裏側には、
ひなの好きな花・“ひまわり”の小さな絵を
目立たないように刻んだ。
完成した仮歯を装着した瞬間、
ひなは目を見開いた。
「息が……漏れない!」
「うん。歌っても大丈夫だよ」
しかし、ひなは首をすくめた。
「……みんなの前に立つのが怖いの」
桃は微笑んで言った。
「じゃあ、ここで歌ってみる?
私だけしか聞いてないよ」
しばらくの沈黙のあと。
ひなは小さく息を吸い、
控えめに歌い始めた。
細く、震えた声。
でも、音はしっかり前に出ている。
桃は心の中で(大丈夫)とつぶやきながら、
そっとひなの背中を押した。
すると――
ひなの声は、ひまわりが陽を向くように、
少しずつ伸びていった。
歌い終えたひなは、恥ずかしそうに笑った。
「歌えた……!」
「うん。ちゃんとひなちゃんの声だよ」
桃は、ひなの仮歯にそっと触れながら言った。
「実はね、この歯には“小さなひまわり”を描いてるんだ」
「えっ……!」
「ひなちゃんの声が、また太陽みたいに広がりますようにって。
それを思い出せば、きっと怖くないよ」
ひなは両手で口元を押さえ、
涙をこぼしながら笑った。
「ありがとう……絶対、歌う」
数日後。
ひなの母が、診療所に真っ先に駆け込んできた。
「先生!
ひな、合唱でソロ歌いました!
観客席から、ひなを照らすライトが当たって……
本当にひまわりみたいに見えたんです」
桃も胸を押さえて微笑んだ。
「よかった……きっと自分の力ですよ」
「先生、これ……ひなが描いたお礼の絵です」
そこには大きなひまわりと、
小さな前歯が並んで描かれていた。
桃は絵を見つめながら、
母の言葉をそっと思い出した。
──「桃ちゃんの声はひまわりみたい」
(お母さん。今日、またひとつ……
私が誰かの“声”を取り戻せたよ)
診療室の壁に絵を飾ると、
花の中心が、まるで笑っているように見えた。




