第5話 コーヒーが苦い理由
梅雨が明けたばかりの朝。
須之内デンタルクリニックに、
スーツ姿の中年男性が沈んだ顔で来院した。
「先生……コーヒーの味がしないんです」
桃はその言葉に少し驚きながらも、丁寧に問診を進めた。
男性の名は 岸本。
いつもは無口だが、妻と一緒に来院する穏やかな常連さんだ。
「検査では異常はないですね。舌・口腔の状態も良好です」
「でも、家で妻が淹れてくれるコーヒーだけ……味がしないんです」
岸本は真剣なまなざしで続けた。
「先生、僕……おかしくなったんでしょうか」
桃はすぐには答えず、デンタルチェアの横に座って
少しだけ声を和らげた。
「“味がしない”っていうのは、
体じゃなくて、心が疲れているサインのこともあるんですよ」
岸本の肩が、わずかに揺れた。
話を聞いてみると、岸本の家では
この数か月、夫婦の会話が減っていたらしい。
「仕事で帰りが遅くなって……
食卓につくと、いつも妻のコーヒーが置いてあるんですが、
飲んでも、前みたいに“ああ、美味しい”って感じないんです」
「その時、奥さんとは話しますか?」
「……ほとんど。
『お疲れ様』って言ってくれるんですけど、
僕の返事が短いから、最近は何も言わなくなって……」
岸本は苦しそうに息を吐いた。
「味がしないのは……
たぶん、妻の気持ちをちゃんと受け取れていないからだと思うんです」
桃は静かにうなずいた。
「人の味覚は “誰と食べるか” で変わりますから」
その言葉を言った瞬間、
桃の胸の奥に、幼いころの記憶がふっと浮かび上がった。
母・桜が最後に作ってくれた夕食。
味噌汁、焼き鮭、そして桃の大好きだった冷やし白玉。
病弱だった母は、台所に立つのも辛いはずなのに、
笑いながら言った。
──「桃と食べると、味がちゃんとするね」
それからまもなく、母は亡くなった。
祖母に引き取られ、
しばらく何を食べても味が薄く感じた時期。
でもある夜、祖母がぽつりと言った。
──「味はね、人を思い出すと戻ってくるもんなのよ」
その言葉通り、
桃は少しずつ“母の味”を思い出しながら、
味覚を取り戻していった。
岸本の話を聞きながら、
桃はその記憶を思い返していた。
「岸本さん、奥さんのコーヒー……
昔は、どんなふうに感じていましたか?」
岸本はしばらく黙っていたが、
やがて目を潤ませて微笑んだ。
「……ああ、すごく美味しかった。
いつも同じ味なのに、
『今日のは特に美味しいね』なんて言ったりして」
「それ、奥さん嬉しかったでしょうね」
「はい。
僕が帰ると、急いで淹れてくれて……
カップの持ち手に、いつも指紋が残ってたんです。
それを見て、ああ、待っててくれたんだなって……」
桃は静かに言った。
「岸本さん。“味がしない”んじゃなくて、
“気持ちが届いていない”だけなんだと思います」
岸本は目を丸くした。
「奥さんは、もう言葉にしなくなっただけで……
本当は毎晩、あなたが帰るのを待っているんじゃないですか?」
その言葉が胸に響いたのか、
岸本の肩が震えた。
数日後。
岸本が再来院し、
顔をほころばせて近づいてきた。
「先生! 味が……戻りました」
「ほんとですか?」
「はい。昨日、妻とゆっくり話したんです。
“最近どう?”って。
僕が聞いたら、妻が泣いて……
『あなた、味わってくれないから不安だった』って」
岸本は照れくさそうに笑った。
「……久しぶりに、コーヒーが苦かったです。
でも、なんか優しい苦味でした」
桃も笑った。
「それ、奥さんの味ですよ」
岸本は深く頭を下げた。
「先生のおかげです。ありがとうございました」
⸻
診療室に静けさが戻ったころ、
桃は少しだけ空を仰いだ。
母・桜が淹れてくれた、
あの日の甘い白玉の味。
それは今も、桃を支える“大切な味”だった。
「……お母さん。
私、今日も“誰かの味”を取り戻せたよ」
桃はそう呟いてから、
次の患者を迎えるために白衣の袖を整えた。




