第4話 消えた義歯と夏祭り
夕暮れの風に、縁日の匂いが乗っていた。
診療を少し早めに終え、すもも先生──須之内桃は
スタッフたちと町の夏祭りへ足を運んでいた。
「先生、似合ってますよ、その浴衣!」
「ありがとう。これ、母が買ってくれた最後の浴衣なの」
淡い桃色の浴衣。
幼い頃、母・桜と手を繋いで歩いた記憶がよみがえる。
桜の笑い声、金魚のすくい方を教えてくれた手のぬくもり。
その記憶はどれも短いのに、なぜか鮮やかだった。
桃がその余韻に浸っていると、
突然、遠くから切迫した叫び声が響いた。
「先生ぇー! 入れ歯が、入れ歯がないんだよぉー!」
振り向くと、町内会の古株・大林のおじいさんが
汗だくで駆け寄ってくる。
普段は笑顔の穏やかな人なのに、まるで世界が終わったような顔をしていた。
「落としたの? いつから?」
「たぶん、焼きそば食べてからだ……! ないと噛めない、噛めないと生きていけん!」
スタッフが必死で笑いをこらえている。
「よし、探しましょう。
“入れ歯の捜索”だなんて、夏祭り名物になりそうね」
桃は浴衣の袖をまくって、灯りの中へ歩き出した。
焼きそば屋、射的、綿菓子、金魚すくい……
おじいさんが歩いたであろうコースをスタッフ総出で辿るが、
どこにも入れ歯の影はない。
「先生、ほんとに出てくるんでしょうか……」
「大丈夫。入れ歯はね、“持ち主を恋しがる”のよ」
スタッフが苦笑した。
これは桃が祖母・梅から聞いた言葉だ。
「でも、どこに……」
ふと、桃はおじいさんに向けて尋ねた。
「何か、思い当たる場所は?」
「……あっ」
おじいさんが指差したのは、祭り会場の奥にある小さな公園。
盆踊りの音が遠く、夜風が柔らかい場所。
桃は小さく息を飲んだ。
あそこは、母・桜とよく座ったブランコがある場所だ。
公園にたどり着くと、
ブランコの支柱の下に、ぽつんと銀色の物体があった。
「……あった!!」
おじいさんが涙目になりながら駆け寄る。
「わしの歯ぁぁぁ!」
桃もそっと微笑んだ。
「どうしてここに?」
「その……わしのかあさんがな、生きてるときよくここで休んどってね。
祭りに来ると、つい立ち寄るんだ……
わし、気づいたらここに座ってて……たぶん、その時落としたんだな」
おじいさんは入れ歯を胸に抱きしめるようにして言った。
「……ここに来ると、かあさんの声がする気がするんだよ。
“あんた、よう食べてるかい”ってな」
桃は胸がきゅっとした。
まるで自分の姿を見ているようだった。
「大切な場所なんですね」
「おうよ……ここだけは、なにも変わっとらん」
桃は、自分が子どもの頃、
母がブランコを押してくれた記憶がふと重なった。
──“桃、風の匂い、ちゃんと覚えておきなさいね。
大人になってからも、きっと帰ってこれるから”
母の声が、ほんの一瞬、夏の夜の風とともに蘇った。
桃はそっと微笑んだ。
「さ、おじいさん。入れ歯はキレイに消毒しないとね。
明日クリニックに来てください。調整もしましょう」
「すまん、先生。ほんとに助かった……!
あんた、梅先生に負けんくらいの名医だよ」
桃の胸が熱くなった。
祖母・梅、そして母・桜。
彼女たちが残してくれた“帰ってくる場所”が
自分の中にしっかり息づいていると感じた。
夜空に花火が上がった。
赤、青、金色の光が、すもも先生の浴衣の帯に反射して揺れた。
「……お母さん。ちゃんと覚えてるよ。
一緒に見た、夏の夜の色」
桃の言葉は夜風に溶け、
遠くで鳴る太鼓の音に寄り添いながら、
静かに夜空へ昇っていった。




