第3話 いびき夫婦
午後の診療が落ち着いたころ、受付で小さな騒ぎが起きた。
「先生ー! ご夫婦で来院なんですが……ちょっと険悪です」
案の定、診療室に入ってきた夫婦は、目を合わせようともしない。
「この人のいびきが毎晩毎晩! 寝られたものじゃありません!」
「俺だって好きでかいてるわけじゃない! 苦しいんだよ!」
すもも先生──須之内桃は二人を椅子に座らせ、
軽く笑って空気を和らげた。
夫の口呼吸の癖、軽い無呼吸の兆候。
歯並びや顎の位置からも、原因は十分に考えられた。
しかし桃が感じ取っていた一番の問題は、
“いびき”そのものではなく、
二人がお互いを思うゆえの言葉のすれ違いだった。
「うるさいって言ってごめん。でも、心配なのよ。
夜中に息が止まったらどうしようって…」
「俺だって……苦しいのに“うるさい”と言われると、
眠るのが怖くなるんだよ」
──どちらも、相手のことを“気にして眠れない”のだ。
桃はペンを置き、少しだけ視線を落として言った。
「……あの、お二人に少しだけ、私の話をしてもいいですか?」
夫婦は驚いたように頷いた。
「私の父、いびきがとても大きい人でした。
家中に響くくらいで、子どもの私はよく寝不足になってました」
夫婦は思わず顔を見合わせて笑う。
「でも……父が病気で亡くなって、家からいびきが消えた夜、
すごく怖かったんです。
“あの音、もう二度と聞けないんだ”って」
桃は少しだけ息を吸った。
静かな診療室の空気が、彼女の言葉をゆっくりと運ぶ。
「だから、誰かのいびきって……
“そこに誰かが生きている音”でもあるんですよ」
妻の目が潤み、夫は俯いて目元をぬぐった。
「……ごめん。心配してくれてたのに、怒って」
「わたしこそ。うるさいってしか言えなかった」
桃はやわらかく微笑んだ。
「どちらも優しいんです。
怖いから、言葉が少し大きくなってるだけなんですよ」
夫婦は診察後、並んで帰っていった。
「帰ったら録音してた“いびきコレクション”消しておくわね」
「やっぱり録音してたの!?」
笑い声が、秋の金木犀の香りの中に溶けていく。
受付のスタッフが言った。
「先生……お父さんの話、初めて聞きました」
桃は少し照れたように笑いながら、
待合室に飾られた祖母・梅の写真へ目をやった。
「おばあちゃんがね、父が亡くなった夜に言ったんです。
“桃、静かな夜は、人の心がいちばんうるさいよ”って」
その言葉が、診療室をそっと温めていった。




