第2話 虫歯のない少女
朝の診療がひと段落した頃、受付から小さな声が聞こえた。
「先生、この子が“歯が痛い”って言ってるんですけど……」
診療室のドアの隙間から顔を出したのは、小学3年生くらいの女の子。
黒髪のショートボブに、目を伏せたままの表情。
母親の後ろに隠れて、かすかに唇を噛んでいる。
「こんにちは。どのあたりが痛いかな?」
すもも先生──須之内桃は、しゃがみ込んで目線を合わせた。
少女はしばらく黙っていたが、やがて左の頬を指さした。
「ここ……。でも、虫歯じゃないかも」
桃は丁寧に診察を進めた。
レントゲンも撮り、歯の隙間や神経も調べたが、どこにも異常はない。
痛みの原因が見つからないことに、母親は少し苛立った様子で言った。
「家では“痛い痛い”って泣くのに、学校では平気らしいんです。
なんか、甘えてるんじゃないかって……」
桃は軽く首を振った。
「お母さん、痛みには“心の虫歯”もあるんですよ」
母親が戸惑う中、桃は少女に優しく声をかけた。
「ねえ、最近、学校で何か嫌なことあった?」
少女の目に、すぐ涙が溜まった。
「……お友達がね、わたしの歯が出てるって笑うの」
「“ウサギみたい”って言われてから、給食のとき、笑えなくなったの」
桃はそっと頷いた。
彼女の歯はきれいに並んでいたが、前歯がほんの少し前に出ている。
それは決して“欠点”ではない。
だが、子どもの世界では、たった一言で心が深く傷つく。
「それで、ここ(頬)を押さえると落ち着くのね?」
少女はこくんと頷いた。
桃は診察台のライトを消し、柔らかく微笑んだ。
「じゃあね、“心の治療”もしましょうか」
⸻
次の週。
少女がまたクリニックにやってきた。
桃は、彼女のために小さな鏡を用意していた。
「ほら、ここ見て。
この前歯ね、“笑う力”の歯なの。
人が笑うときにいちばん光る歯なのよ」
少女はおそるおそる笑ってみた。
ライトに照らされた前歯が、確かに小さく輝いて見えた。
「ほんとだ……」
「ね? ウサギじゃなくて、“光の歯”でしょ」
少女は照れくさそうに笑い、母親もその姿を見て小さく目元をぬぐった。
帰り際、少女は受付で小声で言った。
「先生、もう歯、痛くない」
桃は白衣のポケットに手を入れながら、
ふっと祖母の言葉を思い出していた。
──“心の痛みは、レントゲンには映らないのよ、桃”




