第1話 入れ歯の約束
朝の光が柔らかく差し込む診療室。
白衣の袖を軽くまくった須之内桃は、治療台の照明を整えながら、小さく息をついた。
壁には「須之内デンタルクリニック」と書かれた祖母の手書き看板が今も飾られている。
「次の方どうぞー」
受付の声に続いて、杖をついた老婦人がゆっくりと入ってきた。
「先生、お久しぶりねえ。ほら、この入れ歯、やっぱり合わなくてね」
桃は思わず笑顔になった。
「お久しぶりです、八重さん。お祖母ちゃんが作った入れ歯ですね」
「そうなのよ。あの人が作ってくれたやつ。もう十年以上使ってるの」
祖母・須之内梅は、町で50年も歯科を続けた人だった。
“歯は心の窓よ”が口癖で、治療よりも「患者の話を聞くこと」に時間をかけていた。
桃もその背中を見て育ち、自然と歯科医の道へ進んだ。
「八重さん、この入れ歯、もう頑張りすぎてますね。
でも、お祖母ちゃんが作ったもの、大切なんですよね」
八重は少し恥ずかしそうに笑った。
「だってね、これを入れると、梅先生の声が聞こえる気がするのよ。
“八重さん、今日もきれいな笑顔ね”って」
桃の胸の奥が、じんと温かくなった。
「じゃあ、新しいのを作りましょう。
でも、少しだけお祖母ちゃんの形を残しておきますね」
数日後。
新しい入れ歯を手にした八重は、鏡の前で何度も口を開け閉めした。
「うん……これ、梅先生と同じ噛み心地だわ」
「祖母の型を少し使ったんです」
「そうなの?……ありがとう、すもも先生」
その日の夕暮れ。
診療室を片付けていた桃は、祖母の写真にそっと話しかけた。
「おばあちゃん、今日もありがとう。
私、ちゃんとあの人の笑顔を守れたと思う」
診療台の傍らに置かれた小さな観葉植物の葉が、
窓からの風に、ふるふると揺れた。




