我慢の限界
最終回です。
誤字報告をありがとうございます。
夜の森はザワザワと音を立て、時折、動物の鳴き声がした。
執事は魚のフリットを口に入れた。
「その魚、湖で釣ったのよ」
「え、奥様がですか?」
「いいえ、料理長が」
「ああ。その土地の素材で料理したいと言っていましたね」
妻が離婚して別荘に移るとき、数人の使用人がついてきた。その内の一人だ。
「旦那様の弟君に家督を譲っていいか、親族が集まったじゃないですか」
「愛人と旅行に行って留守だったときね」
妻もフリットを口にして、パリっと噛み下した。
「そのお一人が地方で飯盛り宿を経営していまして」
「普通の宿とは違うの?」
「はい。客が給仕を気に入ったら、部屋に連れて行ける宿です」
「……なるほど」
妻はかすかに眉をひそめた。
「旦那様の愛人が夜逃げをしようとしていたので、隠れ家としてご紹介しました」
「愛人を醜聞から守るため?」
「そういう意図はないようですよ。遠方で馬車の定期便もないので、手持ちの金が尽きたら、働くしかない状況です」
執事はもったいつけるように、回りくどい話し方をする。
「旦那様からの贈り物は持っていったんでしょう?」
「急きたてたので、持ち出せたのはごく一部です。
その田舎にある質屋も親族の傘下なので、足元を見て買い叩くでしょうね」
「……つまり?」
妻は、何かの企みを嗅ぎ取って、先を促した。
「旦那様が愛人に買い与えた物を、二束三文で買い叩くということです。
資金難にあえいでいたときに援助を断られた、その腹いせをするんだと意気込んでいらっしゃいました」
「旦那様が可愛がっていた女が堕ちていくのを……そういうやり方もあるのねぇ」
妻は感心したように白ワインを飲んだ。
都心の娼館に売るよりも、その後の人生を観察できるし、介入できるし、長く八つ当たりできる飯盛り宿。
親族の、夫への恨みは深く澱んでいるようだ。
「息子の浮気相手のお嬢さんは、どうしているの? 家に帰宅できたのかしら」
泥棒猫はどうなっただろう。浮気者は嫌いなので、少しは痛い目にあってほしいと思いながら訊いてみた。
「招待されていない夜会に乱入、しかも会場は王城内のホールです。
招待されていたお坊ちゃまより、罪は重いです。むち打ちだそうで」
「まあ、女性に?」
「王城に忍び込んだわけですからね。
彼女の家は、侯爵家の怒りを解くために差し出せる物などありません。財産を手放し、爵位返上して慰謝料をかき集めました。侯爵にとっては、はした金ですが。
王家に睨まれた女性を娶ろうとする者もいないので、家族と一緒に平民になるでしょう」
果たして、普通の平民になれるのか。
むち打ちの後遺症で寝付くかもしれないし、没落の元凶だと家族に娼館に売られても不思議ではない。
自分の外見を武器に、自分より上位の貴族に喧嘩を売った愚かな娘だ。
「息子も罪作りね。城に引き入れたのはあの子でしょう?」
「お坊ちゃまが頑として認めないため、浮気相手が当家の馬車に潜み、単独で進入したことになりました」
「それ、無理がないかしら。ドレス姿の令嬢が一人でできることではないでしょう。
『運命だ』とか言っておきながら、自分に都合が悪くなったら平気で切り捨てたのね。嫌になるくらい、父親にそっくりだわ」
夫は、十年前も三年前も、妻が激怒したら、愛人を身一つで追い出した。不貞をする男など、自分が可愛いだけのロクデナシだ。
息子には「不貞は妻を傷つける」と教えたのだが、「でも、母上も別荘を手に入れて、許したんですよね。得して、よかったですね」と言われてしまった。
慰謝料を払えば、なかったことになる……そんな訳はない。
傷ついた心は元には戻らないのだ。
そんなことを、どう教えれば良かったのか、今もわからない。
苦悩している妻に、執事は質問をした。
「ご実家の子爵家には戻られないのですか?」
「もう、兄の代になっていますからね。戻っても、身の置き所はないわ」
「旦那様は、子爵家のタウンハウスに先触れもなく訪問されました。お止めできず、申し訳ございません」
執事は改まって頭を下げる。
「あの集合住宅には、我が家のような貧乏貴族が住んでいるから、もめ事があったらすぐに警邏を呼んでくれるのよ。
あの人も、捕まったんでしょう? いい気味だわ」
妻は楽しそうにグラスを傾けた。
「それに、うちの場合は少量しか取れない高級羊毛を融通しろと押しかける高位貴族もいるのよ。
だから、タウンハウスの爺やは、手強いわよ。あんまりしつこいと、新聞社に醜聞として売られちゃうわ」
妻の実家は店舗を持たず、ごく少数の高位貴族とだけ商売をしているのだ。
「あの人はうちの羊毛のことを勉強せずに事業を始めちゃって、慌てて羊毛を卸してくれる貴族を探したのよね。いくら大声で脅されたって、あの人より高位貴族の方が怒らせたら怖いんだから。
穀物の先物取引で大当たりしたころからおかしくなったのかしら。強引に不動産を奪い取り、また大当たりするはずだと新しい事業を始めて。
結局、増やした物を全て手放したのかしら」
「そうですね……歴代のタウンハウスを愛人に与えたので、新しいタウンハウスは集合住宅で探すことになりそうです。
収支で言えばマイナスだと言えましょう。本当に、ご先祖様に顔向けできません」
「愛人から取り上げればいいのに」
「取り返したのですが、随分と悪趣味に改装されていましたし、弟君も虐待された記憶が蘇るので手放したいとのことです」
実の弟に、どれだけのことをしていたのか……。そんな男の痕跡は、消して正解かもしれないと、妻は思った。
「私は別荘をもらっておいて、よかったわ。静かでいいところよ。
料理長はこちらに来てしまったけれど、大丈夫なの?」
「最後のお食事はメイドが作ったものでしたが、文句を言わずに召し上がっていたようです」
「そう。たまに、素直なときもあるわね。極まれに」
ほぼ嫌な思い出で埋め尽くされているが、そうでないときもあった……。
「他の者は退職したり、留まって新しい主人に雇われるべく面接を受けたりする予定です。ご用意いただいた紹介状も渡してあります」
「あの人の腰巾着たちは、追い出した? 残していたら、次の住人に悪いわ」
「旦那様が憲兵に捕まったと屋敷に連絡が来たときに、横領や詐欺の証拠を示して連れて行ってもらいました。主人不在の家で、絶対に気が大きくなって罪を重ねると思いましたので」
「いい判断ね」
長年、一つの家を切り盛りしてきた同僚とも言える関係だ。プライベートな時間でも、仕事の話題が尽きない。
「死んではなりませんよ」
ふいに、妻が低い声で命じた。
「新しい当主になった方、義弟とはいえわたくしたちの結婚式にも呼ばず、ご挨拶をしたこともありません。
領地で領政に務めると言っても、王都に出てこなければならないこともあるでしょう?
貴方が手伝わなくて、誰がやるのです」
「……息子もそれなりにできるので」
「お孫さんの墓参りも、しなくては。敵を取ったと、報告に行った?」
「……」
「わたくしが仕事に忙殺されていて、気付かなくてごめんなさいね」
「いいえ。いいえ、奥様。私が、あんな人たちを、もっと早く見限っていたら……」
執事はハンカチを目元に当て、うつむいた。
「さて、わたくしはどうしようかしら」
「絵を描くのがお好きだと釣書に書いてありましたが」
つまり、婚約者になる前の話だ。よく覚えているものだと驚く。
「そういえば、そうね。嫁いでからは一度も絵筆を握っていないのですけど、いいかもしれないわ。
まずは、今の別荘の絵を描いてみようかしら」
「いつか、個展を開かれることがあったら、ご招待ください」
「もう、嫌だわ。素人になんてことを言うの。欲張りになってしまうわよ」
懐かしい楽しみを思いだし、明るい声が出た。
「新しい旦那様――弟君ですが、そのお子様たちは使用人として育っています。
もし、できますならば、芸術の教養として絵画の手ほどきをお願いできませんでしょうか」
絵の話を出してきたのは、これを言いたいからかと妻は察する。
「ついでに、行儀作法も……というわけ?」
「……できましたらば」
執事は共犯者の笑みを浮かべる。
「つきましては、私の『独身の方の息子』が奥様のサポートをさせていただきたいと申しております」
「ここに? 住み込みで? ……子どもたちも、ということよね」
「費用は、愛人の別荘を売り払ったお金から出せますので。ぜひ、家庭教師をやっていただきたく存じます」
「わたくし、もう離婚したので関係者ではないのですけど」
妻は空になったグラスを、わざとタンと音がするように置いた。
「あれだけ忙しく働いていらっしゃったので、急に暇になるのもお身体に悪いかと」
「なんだか上手く利用されているような気がするわ。
ならば、親元との連絡調整はあなたが担当なさいよ。月々の支払いも、銀行振込でなく、手渡しにくること」
「なんと、老骨をこき使いなさる貴婦人でありましょう。
その場合は『執事』として、同じテーブルにはつけません。お子様たちに『貴族のマナー』に反する姿を見せるわけにはいきませんから」
「あら、それでは、わたくしもドレスに着替えないといけないじゃない。やっぱり家庭教師やめようかしら」
執事が笑い声を上げ、食堂の様子をうかがっていた料理長もこっそり目尻を拭った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
身勝手なオッサンの愚痴などお目汚しでは……と悩んだのですが、アップしました。
たくさんの方々にお読みいただけて、嬉しいです。




