手からこぼれ落ちるもの
銀行から家に飛んで帰った。
今日中に、侯爵家に詫びに行きたいという手紙を出さなければ。
明日、息子の婚約者の代理人が来るそうだ。
執事は、今日中に署名しないといけない書類をまた持ってきた。
別荘の権利書も探さねばいけない。
息子から差し入れの要望が届いている。知るか。牢屋で呑気に寝ころがっているんだろう。
息子の浮気相手の家に、怒鳴り込みに行かねば。慰謝料の一部を肩代わりさせてやる。
こんなときに妻がいたら、役割分担できたのに。役立たずが。
今まで養ってやった恩も忘れて、離婚だと?
侯爵家へ詫びの伺いを持っていった使用人は、返事をもらえずに帰ってきた。
どいつもこいつも、役に立たん!
ムシャクシャして眠れない。
酒を持ってこさせて、飲む。
こんな時こそ、愛人が必要だ。
執事に呼んでこいと命じたら、淑女を夜中に訪問することはできないと断られた。
気持ちを落ち着ける香というのを置いていくのが、また腹立たしい。
だが、それ以降の記憶がない。……香は役に立ったようだ。
朝日が昇っても、重厚なカーテンが遮って気がつかない。
なかなか起きない私を、侍従が揺らした。
二日酔いで天井が回る。気持ち悪い。頭も痛い。
食堂に行くのをやめて、ベッドにスープを運ばせた。
執事がこれ見よがしにため息を吐く。
「例の代理人の方がいらっしゃる前までには、身なりを整えてください」
くそ。それがあったか。
それまでは横になれる。ああ、吐き気がするぞ。
起き抜けよりはマシになったが、体調不良のまま、代理人とやらに会う。
パリッとスーツを着こなした弁護人だ。
私の顔を見てハンカチで口を覆う。失礼な。
「深酒は感心しませんね」
「……あ、失敬」
私が酒臭いらしい。
侍従が応接室の窓を細めに開けた。
「では、さっそく本題に入りましょう。
まず、ご子息は夜会において、ご令嬢を公衆の面前で侮辱し、一方的に婚約の破棄を宣言されました。
ご令嬢が被った精神的苦痛は甚大であり、その程度は想像に難くありません。
社交界におけるご令嬢の評価が低下したであろうことも看過できません。
ご家族の社会的立場や評判にも重大な影響を及ぼしました。
加えて、言いがかりとも取れる誹謗中傷や恫喝の言動も確認されております。
新たな婚約の発表が同時に行われたことからも、ご令嬢を軽んじた悪質な行為と判断せざるを得ません。
婚約中にご子息に贈った贈答品、本来は婚約者から贈られるべき衣装を仕立てた代金、デートにおいてこちらが支払った諸経費などは、実費を請求いたします。
事前の相談もなく、ご令嬢の将来設計は著しく損なわれました。
これから新たな縁談を整えるための時間的・経済的負担も発生いたします。
また、ご令息と婚約していなければ、学生時代に婚約者を捜していたでしょう。
つまり、より良い縁談を得る機会を失ったとも言えます。
それらを総合的に勘案いたしまして、慰謝料はこの程度が相当かと存じます」
弁護士は一気に並べ立てた。そして、示された金額に、目玉が飛び出る。
頭の中身がぐらりと揺れた気がした。
「な、な、そんな……」
「これでも、新しい婚約者が見つからなかった場合の、生涯保障にはとうてい足りませんよ」
弁護士が鼻で笑う。
「こちらは、業務提携を解消した場合の請求額です。契約時に取り決めているので、驚いたりはなさいませんよね」
更に嫌味を重ねてくる。
なんて、性悪な弁護士を寄越すのだ。私だって、息子の被害者だぞ。
こみあげてくる吐き気を手で押さえた。
「その、事業に関しては……中断してしまうと、そちらにも損害が発生するだろう? 羊毛を抱えて、お困りになるのではないかな?」
多少条件が悪くなっても、事業が継続できれば……関係が続けば、いつか怒りが解けて、慰謝料の減額を交渉できるかもしれない。
そんな淡い期待を、弁護士は断ち切った。
「そのようなご心配はいただかなくて結構です。
元々、取引先はそちらだけではありませんし。
出来上がった商品も平々凡々で、特色がありませんでしたね。自信満々に売り込んできたわりに、期待外れだとおっしゃっていました。
親戚になるから切り捨てにくいと困っていたくらいですよ」
こんな侮辱を受けても、言い返すことができない。
悔しさでどうにかなってしまいそうだ。
弁護士は冷淡に告げた。
「慰謝料の支払期限は今月末日といたします。
それまでに一括でのお支払いが確認できない場合、領地内の紡績工場および隣接地を当方の管理下に置かせていただきます。
その後、裁判所への申立を経て、工場の差押え並びに土地の接収を求めることも検討しております」
「馬鹿な! それでは、事業の乗っ取りではないか」
ここ数年の私の努力を根こそぎ奪おうとするなんて。
「いいえ? 慰謝料をお支払いいただければ、工場に手をつけることはありませんよ」
弁護士はニタリと悪魔のように笑った。
ああ、私も弁護士を同席すべきだった。なんで、うっかり一人で会ってしまったのか。
「あの、後日、こちらも弁護士を立てて……」
「そんな要求が通るとお考えですか? 怒りの火に油を注ぐようなものだと思いますが」
何という屈辱か!
弁護士が消えた扉に向かって、ティーカップを思い切り投げつけた。
客を見送った執事が、メイドを連れて戻ってきた。
メイドがさっと割れたティーカップを片づける。
「お前、息子が妙な企みをしていることに気付かなかったのか?」
恨めしい気分で、執事を睨めつける。
「存じませんでした」
と即答されると、逆に怪しく思えるな。
弁護士が置いていった請求額を見せる。
「何を売ったらいいと思う?」
執事は数字に目を通すと、息を飲んだ。
「これはまた、膨大な額でございますね」
「お前もふっかけすぎだとおもうだろう? 足元を見られた」
苦々しげに言う私を、執事は冷たい目で見下ろす。
「一人のご令嬢の人生を狂わせた金額ですから、なんとも……」
その言葉でカッとなった。
「お前まで私を責める気か?」
「まさか、そのようなつもりは……。
ただ、先ほどのご質問にお答えするならば、このタウンハウスを売却すれば足りるかと存じます」
「なんだ?」
「ですから……工場を明け渡すか、タウンハウスを売ってお支払いするか、どちらかでしょう、と申し上げました」
澄ました執事の発言に、愕然とした
「な、なに、を……」言葉に詰まる。
私の功績か先祖の誇りか、どちらかを手放さなければならないというのか。
執事は割れたものを片付けたメイドと共に、応接室を出て行った。




