第4話「ひとくちで恋に落ちたらしい」
朝の通りに、ふわりと甘い香りが流れる。
扉の上に掲げられた木製の看板には、手描きの文字でこう記されていた。
《Pâtisserie Asche ~甘い反逆の始まり~》
その店名どおり、ここはかつて“魔王”と恐れられたアシュ=ラディエルが構える、世界征服のための菓子工房だった。
「いらっしゃいませ。本日は、ラズベリーフィナンシェが焼き上がっております」
アシュは今日も変わらぬ笑顔で、焼きたてのお菓子を手に、カウンターに立っている。
「アシュちゃん、今日も香りがすごいわねえ。昨日のあのクッキー、孫が夢中だったのよ」
常連客のマダムが笑顔で入店し、カスタードブリュレパイを2個指差す。
アシュはトングでそっとパイを取り、手早く包装しながらもこう返した。
「ありがとうございます。新作のフィナンシェ、よければお試しください。今日のは、果肉とピューレを両方使ってみたんです」
「まぁまぁ、これは楽しみね」
そんなやりとりが交わされる、小さな幸せの満ちた朝だった。
⸻
(厨房内では…)
「……ラズベリーの甘酸っぱさを、バターが包み込むように……もう少し火を落として……」
厨房ではアシュが真剣な眼差しで、鍋の中のピューレを見つめていた。
アルミボウルの中では、焦がしバターとアーモンドパウダー、そしてしっとりとした粉が丁寧に混ぜ合わされ、しっとりと粘りのある生地ができあがっている。
小さなフィナンシェ型に生地を流し込み、表面に軽くラズベリーのソースをたらす。
「よし、180度で15分……勝負はそこから」
パタン、とオーブンの扉を閉じる音。
香ばしい匂いが、じわりと空気に混ざりはじめる。
⸻
「アシュ、焼けた? お腹すいたー!」
助手のリリィが魔導書をパタパタと仰ぎながら入ってくる。
「まだだよ。試食用には2分前に出したばかりだから、もうちょっとだけ待って」
「じゃあ厨房で見てる! いい匂いで倒れそう〜」
アシュは笑って、カウンターへ向き直った。
店先では、また一人、新しい客が扉を開けていた。
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カランコロン……。
「……この香り……まさか、ここから?」
その男は背の高い長身、黒いコートとサングラスという暑苦しい格好で、周囲の客から少し距離を置いて立っていた。
「いらっしゃいませ……ご注文、お決まりですか?」
「ラズベリーフィナンシェを、1つ。……一番香りが強いものを頼む」
「は、はいっ」
アシュは一瞬たじろぎつつも、さっと焼き色の均等なフィナンシェを選び、手渡した。
男は紙包みを開き、そのまま口に運ぶ。
──カリッ。
焼き目のついた外側が歯の奥で崩れ、中からふわりとバターとベリーの香りが広がる。
「……これは……」
小さくつぶやくように目を閉じ、ひと呼吸。
「……恋に落ちた……」
「えっ?」
「この菓子にだ」
⸻
リリィが吹き出しかけたのをアシュが肘で押さえる。
男は真面目な顔のまま、名乗った。
「ユーリ=シュトラール。旅の美食記者をしている。……この味に出会えたこと、運命かもしれないな」
「えっ、記者さんなんですか?」
「そう。昨日隣町の市場で、君の店の噂を聞いた。香りの追跡は俺の特技だ。……この味は記事にしたい」
アシュは一瞬、目を丸くする。
「そ、そんな大げさな……」
「いや、大げさではない。……君のお菓子が、世界を変えるかもしれない」
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「じゃ、また明日も来ます。今度は……別のメニューも期待してるからな」
「は、はい……ありがとうございます」
ユーリが去った後も、リリィはニヤニヤとアシュを見ていた。
「ふふーん。これはもう、“世界征服”も目前だね?」
「いや、まだそこまで……」
「もうひと押しで“イートイン”始めれば、みんな逃げられなくなるよ」
「それ、征服っていうより、甘い罠……?」
笑いながらも、アシュの胸には少しだけ、自信の芽がふくらんでいた。
今日もまたひとつ、彼女の“甘い反逆”が、町に広がっていく——。




