第20話「再来の仮面と、黒き甘味の記憶」
店内には、夕暮れの陽光が斜めに差し込み、焼きたてのスコーンの香ばしい匂いが空気を満たしていた。
アシュはカウンターの奥で、今日最後の仕込みに集中していた。グラスの中で冷やされていくチョコレートムースを眺めながら、彼女の手は寸分の狂いもなく動く。
その時――
「カラン……」
店の扉につけられた小さな鈴が鳴った。
聞き慣れた音だが、妙に重たく感じたのは、訪れた気配が“甘いもの”のためだけにあるとは思えなかったからだ。
アシュが顔を上げる。
扉の前には、黒ずくめの外套と仮面に身を包んだ男が、静かに佇んでいた。
「……また来たぞ、征服者の姫よ」
琥珀の瞳がわずかに見開かれる。
あの仮面――忘れようにも忘れられない。数話前、彼は一度《Pâtisserie Asche》を訪れ、“黒曜のムース・ノワール”を食し、不穏な言葉を残して去ったのだった。
「……あの時の。まさか、また姿を現すとは思わなかった」
アシュの声には静かな緊張が滲む。
リリィもカウンター裏からひょこっと顔を出し、目を細めた。
「やっぱり来た……ただのスイーツ好きじゃなかったよね、この人」
仮面の男は、ショーケースの前で立ち止まり、ガラス越しに並ぶスイーツたちを見つめる。そして目を細め、低く言った。
「今日は……“あれ”は無いのか。黒曜の闇と記憶の味――あのムースをもう一度味わいたいと思っていたのだが」
「“黒曜のムース・ノワール”なら、丁度今、仕上げているところだよ」
アシュは、あえて静かな声でそう告げた。
仮面の男はうっすらと頷いた。
「やはり、君が作る菓子には……記憶を揺さぶる力がある。前回はあれを食べて、懐かしいものが蘇ったのだ。かつて交わした“旧き盟約”の匂いがな」
「盟約……?」
アシュの瞳が鋭さを帯びた。
男はゆっくりと仮面の縁に手をかけ、口元だけを露わにした。
「覚えているだろう、魔王時代。お前がまだ“覇王アシュ・グラシエル”として、七つの王国を相手取っていた頃……我らは、影で共に動いていた」
「……!」
リリィが驚いた声を漏らす。
「えっ!? アシュさん、こんな人と一緒に征服してたの!?」
アシュは黙して頷いた。
「ほんの一時期だ。……だが、確かに共に動いた。“裏の同盟”として、私が陽なら、彼は完全な陰だった」
男は肩を竦めた。
「今さらどうということもない。お前は記憶を失ったと思っていたが……菓子を作るようになって、少しは思い出したか?」
アシュは沈黙の中で、わずかに首を振る。
「過去は過去。今の私は、菓子職人だ。“魔王”ではない」
その言葉に、仮面の奥からくぐもった笑い声が漏れた。
「……だが、お前の菓子には、魔の力が宿っている。あの“黒曜のムース”がその証だ。あれを食べれば、誰しもが自分の深層に触れてしまう。記憶を、感情を、魂を……」
男は言葉を切り、仮面を戻した。
「この街の人間が……お前の菓子でどう変わっていくか、楽しみにしているよ。私のように、過去に呼び戻される者もいるだろうからな」
「……見守るつもりか?」
「いや。いずれ、介入するつもりだ」
男は静かに言い残し、くるりと背を向けた。扉の鈴が再び鳴る。
「アシュさん……あの人、危ないよね」
リリィの不安げな声に、アシュは小さく頷いた。
「そうだね。でも……今はまだ、戦う時じゃない。私の“征服”は、戦いじゃないんだから」
彼女は冷蔵庫から黒曜のムースを取り出し、そっと指先で表面を撫でた。
漆黒の艶に、淡い琥珀の光が反射する。
「……きっといつか、この菓子があの人を変える。そう信じてる」




