第2話 「パティスリー開店準備中!」
「さて、準備をはじめましょっか。世界征服の第一歩を……この小さなキッチンから。」
朝焼けが差し込むパティスリーの厨房で、アシュは手にしたホウキをくるりと回した。
昨日ようやく看板を掲げたこのお店、名前はまだない。いや、正確には――**『パティスリー・アシュ』**という仮名で申請してはいるものの、「名前で世界が震えるにはインパクトが足りない」とリリィに一蹴されていた。
「リリィ、お掃除お願いね。それと試作の器具、昨日のままになってるから、そっちもお願い」
「は〜い! でもアシュさん、この業務用オーブンの扱い、慣れなさすぎじゃない? 昨日なんか3回、焦がしてたし〜」
「うぅ……あれは設定がややこしすぎるのが悪いのよ。魔界の灼熱竈とは勝手が違うんだもん」
ふんすと胸を張るアシュ。だがリリィはその言い訳にお構いなく、厨房奥のスチームオーブンを開けて鼻をしかめた。
「うわ、また焦げの匂い残ってる〜。こりゃ浄化魔法で吹き飛ばすしかないね!」
「ちょ、ちょっと待って、それはやめて! せっかくの魔力、クッキーに込めなきゃ意味ないでしょっ!」
「や〜ん、それならがんばっちゃう♡」
くるくるとリリィが跳ねるたび、金色のポニーテールがふわりと揺れる。どこか天然で突拍子のないこの妖精は、アシュにとって最初の協力者だ。
厨房は狭いが、壁には香辛料の棚、中央には木製の大きな作業台。空間にはまだ新しい木材と甘いバニラの香りが混じっている。
アシュは気を引き締め、今日最初に試作するレシピ――焦がしキャラメルのビターシューに取り掛かった。
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「まずは、パータ・シューを焼きましょ。……強火でバターとお水を温めて……」
鍋にバターを溶かしながら、水と塩、そして少量のグラニュー糖を投入。沸騰する直前のタイミングを見極め、薄力粉を一気に投入する。
ジュッと音を立てて水分が飛び、木べらを使って素早く練る。
「この香ばしさ……たまらない。焦げる寸前の熱と香りって、ほんと絶妙」
リリィは作業台に座って、じっとアシュの動きを見つめている。
「ねぇアシュさん、どうしてキャラメルにしたの?」
「……ほろ苦くて、でも甘い。子どもには分からない味。でも、大人になってからこそ沁みる味。……いまの私の気分に、ぴったりなのよ」
ふと、ルルの笑顔が脳裏をよぎる。
キャラメルの香りは、過去の記憶をくすぐる。魔王として過ごした日々よりもずっと鮮明な、大切な一片。
「ほろ苦くて……でも、美味しいの」
ポツリとリリィが呟いた。どうやらアシュの感情が味に現れていたらしい。
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午後には外装の手直し。リリィが店先の花壇に魔法で光る花を咲かせ、アシュは店の前に立て看板を設置した。
「パティスリー名はどうするの? 『世界征服堂』とか?」
「それ絶対に誰も来ないからやめて」
「じゃあ『お菓子な征服屋』?」
「それもダメ! イメージって大事なんだから」
散々迷った末、仮の名前で今日のところは落ち着いた。
『Pâtisserie Asche 〜甘い反逆の始まり〜』――アシュの案である。リリィは「中二っぽい〜」と笑っていたが、どこか気に入ってくれたようだ。
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再び厨房に戻り、キャラメルシューを取り出す。
表面はこんがりとした茶色、焼き立ての香ばしい香りが鼻孔を刺激する。
パリッとした皮の内側に、丁寧に炊き上げた焦がしキャラメルクリームをたっぷりと絞り込んでいく。
「……できた」
アシュは一つを手に取り、リリィに差し出した。
「はい、毒見係さん」
「毒見じゃなくて味見でしょ!? いっただきまーす♪」
ふわりと甘く香る湯気と、口に入れた瞬間とろけるキャラメル。
リリィの瞳が見開かれたまま、頬が赤く染まる。
「これ……うまっ……! すっごく、泣きそうなくらい、あったかい味……!」
アシュは微笑み、厨房の窓から空を見上げた。
空の彼方には、まだ知らぬ街、国、そして人々がいる。
この小さなスイーツを武器に、彼女は征服の一歩を踏み出すのだ。




