誰にも気づかれない英雄
翌朝、森がざわめいた。
「……魔獣? この森に?」
リアンのもとに、精霊たちが騒ぎながら飛び込んできた。
情報によれば、北の外れで“灰角の熊”が姿を現したという。
それは、本来深い山奥にしか棲まない危険な魔獣。
毒を含んだ灰色の角で森を汚し、他の魔物さえ避ける厄介な存在だ。
「……討伐しなくては。王都に報せを……!」
「間に合いません。今ここにいる人たちを、森から出すほうが先です」
リアンは静かに立ち上がった。
その背中に、あの“ぼさぼさ頭の地味な男”の面影はなかった。
彼は、森に住まう精霊たちに次々と命を下し、
毒に強い草を集め、香で魔獣の動きを鈍らせ、
風を読んで火の流れを計算し、
一本の木の倒れ方さえ利用して、獣の進路を“森ごと封鎖”した。
「……一人で、こんな……!」
私は呆然と、リアンの指示に従って動く精霊たち、風、植物の流れを見つめていた。
これはもう、魔法でも剣でもない。
森そのものを武器にしていた。
「討伐じゃありません。あれは“追い返す”だけでいい。無駄な殺しは、森が嫌がります」
獣は音もなく姿を消し、数時間後には森の空気も、いつもの穏やかさを取り戻していた。
そして、そのことを知る者は、森の中にいるわずかな者たちだけだった。
⸻
「ねえ、あなたって、」
私は、その夜、もう一度焚き火の前に座ったリアンに声をかけた。
「あなたって……すごい人だったのね」
「……いいえ。僕はただ、森が好きなだけです」
「でも、私、今まで“立派な男”って、肩書とか家柄とか、見栄えで決まると思ってた」
リアンは少しだけ、照れたように笑った。
「それで……いまは?」
「わからない。でも——」
私は、そっと言った。
「“見逃してた大事なもの”って、こんな感じなんだと思う」
彼は何も言わなかった。ただ、その目に、穏やかな光が灯った。
それは、どんな宝石よりも、まっすぐで、優しかった。