第4話:最初の一歩は血の足跡。
◇4◆
「うーむ。どうしようかなあ」
青年はウエポン・ショップの隅で膝を抱えるようにしてしゃがみ込んで、難しい表情を浮かべていた。
「出来たぞ、刃引きの刀。……って、なにを悩んでるんだ?」
そこに褐色肌の男、カティアールが帰ってきてこちらを見下ろす。青年はえっへへ、とニヘラ顔で立ち上がる。
「俺の名前、どうしようかなって」
「なんだ、まだ決めてなかったのか」
「名前を付けるのは苦手なんだ。昔飼っていた犬の名前だって一年間考えたくらい」
「……ちなみに訊くが、一年間なんて呼んでたんだ?」
「シバイヌちゃんだよ。気付いたらそれが名前になってた」
その言葉に彼は呆れたような視線を向けてきて、ため息をつく。「愛があるのかないのか分かんねえな、それ」とこぼす。
そこで青年は思いついたようにハッとなり、ずい、とカティアールへ顔を突き出す。青年は一七〇センチほどで、彼は大柄で一九〇はある巨躯である。
「カティ、君がつけてくれないか。俺の名前」
「はあ? なにを言い出すんだお前は」
「袖振り合うも他生の縁なんて言うじゃないか。ここで会ったのもなにかの縁ってことで」
「会って三時間程度で名前を付けてやるほどの縁じゃねえだろう。そもそも店主が客に名づけるなんて馬鹿げた話があるか」
「困ったな……このままじゃ、案が思いつかない。また一年くらい考えることになる。その間はカティアールと名乗るしかない」
「勝手に俺の名前を使うな。お前、さては自分で考えるのが面倒になったな?」
カティアールはじっとりとした視線をこちらに向け、それを受けた青年はごまかすように口笛を吹いて視線を逸らした。
「別に減るもんじゃないし良いじゃないか。それとも命名に金でもとるのかい? それはなかなかアコギだと思うけど。あそこの店主は金の亡者だなんてウワサが流れないと良いね」
「どんな脅しだよ。陰湿な嫌がらせはやめろ。ああ、もう。分かった。つけてやるよ」
「えっへへ。やった。ごねてみるものだね」
青年が唇を尖らせ、カティアールはあきらめたようにため息をついて両手を挙げた。それを見てから口角を上げて、首をかしげる。
「まったく、良い性格してるなお前は。どれ……そのタグを良く見せろ」
言われて囚人IDの刻まれたタグを彼に見えるようにつまみ上げると、しばらく沈黙が降りてくる。その間も、青年は嬉しそうにニコニコと笑みを湛えている。
「R1N12Aか。なんとかアルファベットに出来そうだな。1をiに変換してみるか。12はどうするかな」
「適当で良いのに。案外、真面目だね」
「動物と暮らすときはちゃんと考えるタイプなんだよ」
「へえ。なにを飼ってたの?」
「フェレットだ。ハッピーな人生を送れるように幸太と名付けた」
「良い名前だね。ペットにつける名前にしては人間っぽいけど」
「それは二度と言うな。俺は動物にみょうちきりんな名前を付ける輩が嫌いなんだよ。あと、ペットじゃない。家族だ」
「えっへへ。こだわりが強い人は好きだよ」
「……12をくっつければDに近くなるな。R1N12A、RINDA……。リンダはどうだ」
彼はタグから手を放して青年を見る。彼は「良いね、リンダ。覚えやすいし、それで行こう。ありがとう、カティ」と満面の笑みを返す。
「変なやつだな。とてもデータ省の人間を殺して回った人間とは思えない」
「……まあ、人にはそれぞれ事情ってものがあるんだよ。君にだってあるんだろう?」
「それはそうだな。さて――お前が変なことを言い出すから遅くなったが、刃引きした刀だ。銘は黒夢。良業物で二十万だ」
差し出されたそれは黒蝋色塗りで、持つとずっしりと重く、リンダは鍔や柄、拵えを見てから何度も小さくうなづいた。
「鍔は椀型、柄は糸巻か。うん、良いね。馴染みそうだ。抜いても良いかい?」
「もちろんだ」
しゃら、と鞘から抜くと、鎬造りに波紋は乱刃で、店内のオレンジの灯りを鈍く反射している。つばが飛ばないよう、黙ったまま鞘に納めてからリンダはカティアールを見た。
「丁寧に作られてるね。久しぶりに職人技を見た気がするよ」
「俺を含めてここにいるのはどうしようもない罪人だが、物づくりにはプライドを持っている。銃だろうと刀だろうと、誰を撃とうと誰を斬り伏せようと、持ち主だけはかならず守る。それが武器とそれを扱うものの絶対の約束なんだよ」
――その約束を果たせるように造るのが、職人ってもんだ。
カティアールは少し自慢げにそう言って、こめかみを掻く。リンダは刀を見てから、「大切にするね」とつぶやいた。
「じゃあ、俺はそろそろ行くよ。ちゃんとお金は払いに来るから待ってて」
「おっと、その前に。こいつはサービスだ」
ガサゴソとかごの中を漁り、ベルトを手に取るとリンダの腰に巻く。
「囚人服にベルト?」
「こいつはただのベルトじゃねえよ。左側に刀を差し込めるホルスターがついてる。そのままだと鞘から抜きづらいだろう。これなら角度も五段階で調節が出来る」
「凝ってるね」
言われて見てみると、腰の左あたりに小さな長方形が取り付けられているのが分かる。そこに刀を差して、「でも、本当にサービスで良いの?」と訊くと、にやりと笑う。
「ビースト・ラボとやり合おうってバカは俺がここに来てから見たことがない。せいぜい、踏ん張ってこい。助けたいやつを助けろ」
「えっへへ。そうするよ。どうもありがとう」
「ああ、そうだ。一応、聞かせてくれ」
「ん?」
「どこのどいつかは知らないが――どうして助けようと思ったんだ?」
礼を告げて店を後にしようとしたとき、カティアールからひとつ、疑問が飛んでくる。それに対し、目を細め、白い歯を見せて笑った。
「見も知らぬ他人のために自分の尊厳ってやつを蔑ろにしちゃうバカだからだよ」
◇◆
――初対面の人間に命まで懸けるなんて、本当に優しいね。やっぱり君のこと、気に入っちゃったよ。
そんな言葉を、こんな場所で聞くことになるなんて予想もしていなかった。あの青年は――見る限り自分と同じか、少し年下だろう――そう言ったとき、微笑んでいたのだ。
この殺伐とした牢獄で、あんな笑みを浮かべられるのは強者である証拠とも言えるが、それにしては違和感も同時に抱いた。
――あの目は、なんなんだ。
優しく細められた目。しかし、どこか妖しい光が浮かんでいた。なにかを必死に押し殺しているような、そんな光だった。
柔らかい物腰にマイペースさ、しかしどこか気品を感じさせる所作。どうにもアンバランスな人間だな、というのが第一印象として残っている。
そしてデータ省の皆殺しという物騒な言葉。あまりに彼には似つかわしくないように思えた。
「ま、もう会うこともないだろうがな」
真島は短く息をついて天井を見上げる。海底の監獄とは思えないほどに高く、白熱灯が白い室内に満ちている。
「失礼しまーす」
「って、しれっと普通に戻って来てんじゃねえよ! なにを聞いてたんだ! バカかお前はッ!?」
ノックが三回鳴ると、当たり前のような顔をして青年が戻ってきて、思わず目を剥いて怒鳴ると、にへらと笑う。
「名前を付けてもらったんだ。俺はリンダ。よろしくね」
「んなもん知らねえよ! さっさと逃げろ! 次はねえって言われたばかりだろうがッ!」
「そうだね。次はないよ」
青年――リンダの腰には鞘に収まった刀があった。まさか、ここでやりあうつもりなのかと、真島は苦々しい表情になる。
同時に警報が鳴り、どかどかと荒い足音が聞こえてきて、部屋の奥にあるドアが開かれると同時に四人が広がるようにして銃を構えた。
「やあ、戻って来てくれるなんてね。嬉しいよ」
その中央に、つかつかと歩いてくる宗太郎の言葉に、リンダは軽く肩をすくめる。
「今回は早かったね。俺が来るのを待っていたのかな」
「その刀で、我々とやろうというのか」
「俺が負けたらどうとでも好きにすれば良いさ。でも、俺が勝てば――こいつは連れて行く」
リンダは最初に見せたように穏やかに微笑む。やはり、その目には――。
「やめろ。無駄死になる。俺のことなんざ放っておけよ」
「また罰ってやつかい? 君はどうにも勘違いをしているようだね」
「……は?」
「まあいいよ。それは、あとで分かることだから」
そう言って刀の柄に手をやろうとした瞬間、銃声が鳴った。耳をつんざくその音に、真島は顔をしかめる。
だが――そんな中で、信じられないものを見た。
まるで弾丸の軌道を読んでいるかのように躱してリンダは駆け出し、抜刀することなく腰をひねった拳を顔面へと叩きつけた。
――なんつー速さだよ!
スピードを落とすことなく跳躍し、上段から構成員のひとりへと殴りつける。頭が下がり、リンダはその眉間へと膝を入れ、くるりと回転して着地すると、低い姿勢のまま駆け出す。
「……刀を持っていながら拳……? なんで抜かない?」
男は血を流して倒れたが、息はある。抜刀していたなら、脳天を斬り伏せられて生きていられることなどありえないだろう。
リンダは半円を描くようにして走り、スライディングの要領で男のひざへ蹴りを入れ、身体が傾いて、その鼻っ柱に拳を叩きつけた。
銃を持つ者に対して距離を詰める。戦い方を知っていて、さらに慣れているように見えた。そしてなにより、三方から放たれる銃弾が当たらない俊敏さには目を瞠った。
だが、見れば分かってくる。宗太郎が背後に来るように立ち回っていて、彼に銃は向けられないという心理面を上手くついているのだ。
「これで二人だね」
「……舐められたものだよ」
宗太郎は不敵に笑って、指を鳴らす。
「おい! 増援が来る! さっさと逃げろ!」
「そうもいかないんだよね」
目にも止まらない速度で背後を取り、男のこめかみに一撃を入れて、その首根っこを掴むと奥のドアへ向ける。
「おーっと。撃ったら仲間が死ぬよ」
――こいつ……。
真島は目が離せなくなっていた。たった拳ひとつで――銃に敵うわけがない。
しかし、あの男は攻撃に転じた瞬間から、その場を制している。地の利が悪いはずなのに、自身のペースに持ち込んでいた。
入ってきた男は銃を構えて、しかしそれを見てそのまま制止する。だが、宗太郎は「撃て! 代わりはいくらでもいる」という言葉で、トリガーが引かれた。
「ええええええッ!? ちょっと、本気かい?」
とっさに男を投げ飛ばして銃弾がリンダのわき腹、左肩をかすめて後ろへと転がる。
宗太郎もまた、このラボのボスだ。そのペースを取り戻すことくらいは造作もないことだろう。
「まったく……人としてどうかと思うよ」
「ここは監獄で我々は罪人だ。この場所を甘く考えているとすぐに死んでしまうぞ」
宗太郎はそう言って白衣の裏ポケットから拳銃を取り出す。すべての銃口がリンダに向き、ほぼ同時に発砲される。
瞬間だった。
地面すれすれを駆け出し、ひとりの右手をひねって銃を落とさせ、それを拾うと、天井へと放り投げた。
弾倉に着弾してそれは大きな音を立てて暴発し、破片が散らばり、宗太郎以外が腕で目を覆う。
「なにをやっている!」
そのうちに男の腹に膝を入れ、背中にひざを叩きつけ、さらに近くにいた男のこめかみを打った。
あっという間に三人がのされ、宗太郎の表情が曇る。
「……何者だ、君は」
「えっへへ。リンダって名付けてもらったんだよ。よろしくね」
またその目だ、と真島は怪訝そうに眉をひそめる。優しい瞳をしているのだけれど、その奥になにかしらの暗闇が見え隠れしている。そんな気がしたのだ。
「リンダ。どうしてそこまでして、ラット113号にこだわる。会ったばかりだろう。君が命を賭けるほどの価値が、この男にあるのか?」
七人が銃を構えて静止している中で、宗太郎は厳しい表情を浮かべて疑問を呈した。
その通りだと、真島は思う。初対面で、互いになにも知らない。そんなやつに命を懸けるなんてことは、バカを通り越して愚行でさえある。
「……託される意味を、その重さを、君は知らないのかい?」
だが、リンダはそう言ってベルトについているホルスターに刀を仕舞う。
「託される意味?」
「そうだよ。それも刑事の魂を、託されてるんだ。それは簡単に否定されるべきではないと、俺は思うんだよね」
「……だったらこの男はあのとき逃げるべきだった。無謀にも突っかかってきた挙げ句、この結果だろう。自業自得だと思うがね」
「誰だって、仲間を殺されれば目の前のことも見えなくなるものだよ。それが愚かとは思わない。むしろ、人間的であるとさえ思うよ、俺は」
「それを理性で抑えることこそが人間的だろう」
「理性はたしかに正しい。けれど、潔癖な正しさだけでは、生きてはいけないのが人間だ。なあ、そうだろう?」
リンダが、こちらを向く。あのとき、火前先輩が殺されたとき、真島は自身のストッパーが壊れたのを自覚した。理性ではなく、本能で行動していたのだ。
ただただ、憎しみと怒りだけが心を満たしていた。
「俺は……あのとき、あのときに」
「間違えたなんて口にするなよ。罰だなんて言うなよ。君が憧れた先輩は、そんな後ろ向きな君に託したんじゃない。前に一歩、踏み出せる強さを持った君にこそ、託したんだ」
「お前に、なにが分かる……!」
「分かるよ。託される重みも、それを貫く痛みもね。俺のような欠陥品にはあまりに過ぎたものだったけど、今はそれを誇りに思っている。そしてその誇りこそが」
――俺の尊厳なんだよ。
リンダは言いきった。清々しい表情で、こちらを見て、口角を柔らかく上げて。
「君の尊厳は、ここで一生を終えることで完成するのかい? その先輩の想いは、君がこのまま死ぬことで成就するのかい?」
どくん、と心臓が跳ねた。今まで、もうどうすることも出来ないのだと、あきらめて冷めていた心が、再び鼓動を始めたような熱さを感じる。
「俺は……」
「何度だって立ち上がれば良いんだよ。死なない限り、どんな姿になっても、生きている限り――その託された想いを遂げるチャンスはいくらでもある」
腕に力が入り、壁に固定されていた腕がベキベキと離れていく。
「まったく……お前は知ったふうな口ばかり聞きやがる……!」
「君の揺るぎない正義だけは、知っているつもりだよ」
「はっ。初対面のくせに――よく言うぜ」
鎖が外れて真島は立ち上がり、首をコキリと鳴らすと、深呼吸をする。縛られていた期間が長かったからか、じんじんと腕が痺れている。
しかしその目は、すでに爛々と光っていた。
「さあ、覚悟が決まったなら、死んだ目を蘇らせるときは、今だよ」
「……まずいな。もういい、完成品だったが、こうなれば不要だ。殺せ」
宗太郎のひと言で銃口がこちらを向く。真島は目を見開いて声にならない雄叫びを上げ、鎖を引きちぎって裏拳で弾丸を弾いた。
「ゴリラの体毛ってのは、案外堅いもんだなあ? 所長さんよお」
「刑事を検体にするにはまず、徹底的に、決定的に立ち上がれないほど、心を殺してからにすべきだったと、初めて後悔したよ」
リンダは駆け出し、銃を構えている男たちに飛び掛かっている。真島はその中心に立つ宗太郎と対峙した。
「この四年間、地獄だったよ。それはこんな腕にされたからじゃない。ここに縛りつけられていたからじゃない。託された意味を、はき違えていたからだ」
――火前先輩に対する負い目こそが、火前先輩の想いを否定することになってしまっていたのだと、今さら気付くなんてな。
リンダの言う通り、真島は勘違いをしていたのだ。根本的なところで、決定的に。
「……ふっ。もう勝ったつもりか? 君の先輩とやらはくだらん尊厳のために死んだ。君もその甘さを託されて、同じように死ぬだけだ」
言い終わる前に、真島は一歩踏み出し拳を突きつけた。それを後ろに跳ぶことで衝撃を殺し、宗太郎は忌々しげにこちらを睨み付ける。
「お前らには分からないだろうよ。先輩が、どれだけ逞しくて、優しかったか。それが――どれほどの人間を救っていたか。どれほどの強さを持っていたか」
「だが死んだら同じことだ。結局は尊厳に囚われて、無様に死んだんだよ」
「いいや――先輩は最期まで意志を全うした。だから、俺がそれを継ぐんだよ。あの人の意志は、まだ終わらずに続いてる」
「ちっ。口だけは達者だな、被検体ふぜいが!」
宗太郎は白衣の胸ポケットから拳銃を取り出し、真島は駆け出す。銃声とともに弾丸が射出され、それが頬をかすめて鮮血が散る。
「ゴリラの握力ってのは、五〇〇キロあるらしいな。お前らがつけてくれたこの拳で、礼を返してやるよ」
しかしそれを気にすることなく銃を握ってぐしゃりと潰すと、宗太郎は顔をしかめてその銃を捨てた。
それにも構わず引っ張ると宗太郎の鍛え抜かれた腹筋にひざ蹴りを入れ、カハッ! と目を見開いたところで頬へ一撃を叩きこむ。
「貴様……ッ! よくも……!!」
「ようやく余裕がなくなったな。マッドサイエンティスト」
宗太郎は白衣を脱ぐ。シャツ越しにも分かるほどの筋肉が浮き上がっている。
「もういい、さっさと殺してやる。ドブネズミらしく、惨めに死ね」
「上等だ。決着をつけようぜ、戌亥 宗太郎」
「――昔の英雄が歌ってたよ。ドブネズミは、美しいんだってね」
不意に凛としたリンダの声が聞こえて、真島はその言葉に笑みを浮かべて殴り掛かるも、宗太郎の腰を入れた拳が伸びて頬をかすり、皮膚が裂け、血が舞うのも構わずに拳を握る。
「――ぐあッ!?」
さらに腹に一発入り声を漏らしたが、それも一瞬、俊敏な動きで――まるで鞭のようなしなやかさで裏拳が頬に当たって壁まで吹き飛ばされる。
――なんつー重さだよ。
立ち上がると脳が揺れて、眩暈がした。だが、それでもかぶりを振ってから宗太郎へと駆け出していく。
重い拳が腹部を、ひたいを打ち、腕が伸びて胸ぐらを掴まれ、足払いをされて床に投げ飛ばされる。背中を強打し、肺いっぱいの空気を吐き出した。
さらに追い打ちとばかりにひざをその腹へと沈めてくる。
ひたいが割れて、つつ、と血が流れて白い床を赤く染めていく。それでも心は折れることなく、真島はゆらりと立ち上がり、相手を睥睨した。
「四年もここで座っていたんだ。なまっているだろう」
「……うるせえよ」
腹に向けて拳を突き出そうとするも顔面にジャブが入って鼻血が垂れ、軸がブレる。
宗太郎はその隙を見逃さず、胸部に拳を叩きこまれる。しかし真島はそれにも構わず、一歩強く踏み込んだ。
まっすぐに伸びてきた拳を左手でいなして、顔面に拳を突き出す。
「――うがぁッ!?」
「こいつはお釣りだ。とっとけよ、クソ野郎」
「このッ! クソネズミがッ!!」
「これで終わりだ、戌亥 宗太郎ッ!」
そのまま踏み込んで腹部を連打し、ステップを踏んで二歩下がったかと思うと、そのまま加速して跳び、回し蹴りを入れた。
それは宗太郎のこめかみを強く打って、弾けるようにして転がり、仰向けに宗太郎が倒れるのを見て、肩で息をしながらもその身体にのしかかる。
「……私を殺すか、それも良いだろう」
「バカ言うんじゃねえよ。俺は、刑事だ。まあ、元、だけどな。刑事の役目は殺すことじゃない。道を間違えた人間に他の道もあると諭すことだ」
「はっ! こんな罪人にも、そう言えるか? 君をそんな身体にしたというのに」
「これは俺の弱さだ。お前らを憎んで恨んだところで、元に戻ることもねえだろう。それに」
――上階で怪我した俺を治したのも、お前だろ。
銃弾が脇腹に命中したとき、意識が朦朧とした中でも、宗太郎が手術をしたことを覚えている。研究対象であるからだということは理解している。けれど。
「狂った研究よりも、怪我人を治してみたらどうだ。そのほうが、誰かのためになるぜ」
「……君は、本当に……バカだな。くそったれめ」
「言ってろよ」
ため息をついて周囲を見渡すと、嗚咽やうめき声が聞こえてきて、宗太郎の部下が床に伏している。
「……なんだこりゃあ……」
「案外、あっという間に終わったね。おかげで刀も使わずに済んだ」
「こいつら、お前ひとりでやったのか」
気付けば二五人の人間が倒れているのが見えた。増援が来たのだろう。
「ん? ああ、そうだよ。こう見えても剣術だけじゃなく、体術には自信があってね。幼いころからたっぷり絞られたからさ。身体が覚えているんだ」
「妙なやつだ。これくらいの腕があって、誰も殺していない。官僚殺しなんだろ、お前」
「んー、目当ての人間はいないなあ」
「聞けよ! 俺の話を!」
「えっへへ。まあ、昔話は良いじゃないか」
屈託のない笑顔に毒気を抜かれ、深くため息をついた。
「で、なにを探してるって?」
「青い鴉のタトゥーだよ。三本足の」
「三本足? また変わったタトゥーを入れてるんだな。物好きってやつか」
「かもしれないね。でも、俺にはどうしても探し出さなきゃいけないんだよ」
リンダはしゃがみ込み、倒れた男たちの手の甲を見ていた。屈強な男たちが、完全に沈黙している。
こちらに流れ弾が来なかったのは、彼がひとりでこの数を制圧したからだと気付いて、その強さに困惑するが顔には出さない。
「それで、どうだった? その腕は力の使い方を間違えれば、確実に人を殺すよ。元刑事には、酷な話だよね」
銃を握りつぶしたとき、この力は自身の想像よりも強いことに気付いた。だからこそ加減が難しいことも。
だからこそギリギリの力で殴り倒したのだが――宗太郎を見れば顔は腫れて、歯が何本か折れている。
「たしかにな。これから調整していかないと、このままだと殺しかねないな」
「うん。それが良いよ。君らしいと思うからさ」
「会ったばかりなのに知ったような口を利くよな」
「戦っている姿を見れば、多少は分かるよ」
「そうかい。まあ、良いぜ。遠回りしちまったけど――今日から先輩の意志だけは、繋いでいくつもりだ。だから、助けを求めるやつは、片っ端から絶対に守る」
真島がそう言うとリンダは微笑み、「あ、大事なことが残ってるんだった」と言い、奥のドアの向こうへと消えて行く。真島もそのあとをついて行く。
「これ以上、なにをするつもりだよ」
「お金がいるんだよね。この刀、タダじゃないし、服も買いたい。君はどうする? その服、ボロボロだろ」
「おいおい……ここまで派手にやって目的は金かよ」
「逆だよ。俺の目的は君だった。そのための刀だ。まあ、使わなかったけどね。で、刀は二〇万もするわけだよ」
「助けられたからって、そんなコソ泥みたいな真似を許せってか」
「元刑事のプライドが許さないかい。でも、このままじゃ二人して垂れ死ぬだけだよ。そうなれば――守るべき相手も守れない」
「……まったく、屁理屈だけは一人前だな」
「えっへへ。で、物は相談なんだけど、この金庫、俺じゃ開けられそうにない。暗証番号も分からないし――力任せに開けるにしても、なかなか頑丈だ」
リンダはニヘラと笑い、真島は渋い表情になる。守るべきものを守るため、と言われれば、それを否定することも出来なかった。
「……仕方ねえな」
真島はその手の握力で金庫を無理やりこじ開けると、リンダは中に入っている札束を数えて、ふむ、と唸る。
「この監獄は紙幣が流通してるんだね」
「HINOMARUが使えないからな。キャッシュレスは無理なんだろ」
「なるほどね……。紙幣なんて久しぶりに触るよ。とりあえず二〇万と、必要になりそうな分……服と食事代くらいか。そうだ、レストランみたいな場所はあるのかい?」
「分からねえが……これだけ賑やかなんだ、なにかしらあるだろう」
「よし。じゃあ、刀と服と……食事で、三五万くらいあれば足りるかな」
「……コソ泥のわりに遠慮するんだな」
金庫の中にはあきらかに札束で五〇〇万では利かないほどに大量の紙幣がまとめて入れられている。しかしリンダはそれらすべてを手に取ろうとはしなかった。
「大事なのは必要なときに必要な分を手に取ること。なんだって取り過ぎは良くないし、全部持って行くなんて、無粋な真似だ。それより、君も服代や食事代くらいは持って行きなよ」
「なんだか言いくるめられている気分だが――たしかにこの服じゃあな。一五万くらいは拝借しても問題ないだろう」
「返すつもりもないくせに」
「……お前だってそうだろ」
軽口を交えつつも、いつまでもこのボロボロになったワイシャツでいるのも憚られたから、札束から数えてポケットに差し込んだ。
「さて……。そうだ、君の名前は?」
ポケットに金を入れたリンダが立ち上がり、元来た道を引き返すとき、真島を見てそう言った。
「本名は真島……だが、この際だ、新しく名乗るのも悪くないかもな」
「俺と同じ通称で行くつもりかい?」
「ああ――そうだな。ラットで良い。ここにいて、先輩の遺志をないがしろにしたことは変わらない。先輩から託されたことも、俺が未熟過ぎたそれも、全部背負っていく。忘れねえように、名前に刻んでいくさ」
「ラット、か。皮肉が効いてて良いね。それで、これからのことなんだけど。俺と手を組まない?」
「手を組むって、なにをやらかすつもりだよ」
真島――もといラットが肩をすくめると、彼は目を細めて口角を上げ、わしわしとウェーブした髪を掻いた。
「言ったでしょ。青い鴉のタトゥー、そいつを入れたやつらを探してるんだよ。そのために、ここに来たんだ」
「……青い鴉のタトゥーのやつら、か。いいさ、今のところ行く当てもねえからな。付き合うぜ」
ラットはそう言って、笑った。四年ぶりか、それ以上か、ひどく懐かしい感情が胸の中に沁みていく。
そうしていつも見ているだけだったドアから一歩踏み出す。研究員が口から血を流して痙攣している。その血を踏みつけてドアの外に出る。
そのあとには赤い足跡がそこに残された――。