第1話:青年の起こした大事件。
◇1◆
――時はさかのぼり、八時間前。
天を衝くようにそびえ立った橋が、重々しい音を立てて下がりはじめる。
東京湾の沖から突き出すようにある人工島、歪曲島。そこは一本の橋だけで繋がっている。
その島でひしめきあう巨大な廃墟群は遥か過去にあった九龍城か軍艦島を思わせ、一条の光さえもくすんで見えた。
「降りろ」
刑事に拳銃を突きつけられ、オレンジ色の囚人服の青年は護送車から出てくると、降りてきた橋を眺めている。潮騒が耳に心地良い――とでも言いたげに目を閉じていた。
眉あたりにかかる程度のウェーブした黒髪に、アーモンド形の目、高い鼻に薄く形の良い唇と、端正な顔をしている。
そんな青年の視線の手前には高さ五メートルほどの金網のバリケードがあり、厳重に有刺鉄線が張り巡らされている。
「跳開橋とか言うだっけ。こういうの。初めて見たなあ。すごい迫力だ」
「私語は慎め!」
「いてっ」
わき腹に拳を沈められるが、青年は涼しそうな表情で繋がった橋の先を見つめている。心なしか、その口許が緩んでいるようにも見えた。
「囚人ID“R1N12A”。これからお前はここに収監される。それに伴い、いくつかの注意事項を伝える」
「注意事項?」
「生き残りたいなら、聞いておけ。まあ、お前みたいなクズは死んでくれたほうがせいせいするがな」
ふうん、と手錠のついたままの手を持ち上げて鼻の頭を掻いた。刑事は苛立たしげに睨み付けてくるが、意に介さないように目を閉じた。粘り気のある潮風を感じるように。
「上陸した時点で手錠は解放される。だが、逃げようとは思わないことだな」
刑事は親指を立てて、肩ごしに後ろを見る。橋をまたぐようにして五階建てのビルが建っており、壁から突き出た無数の無骨な砲身がいくつも島に向けられている。
それも銃火器のような生易しいものではない。軍隊が使うような大砲である。
「ここにいる執行官には脱走者の処刑が許されている。逃げ出したら最後、橋ごと海の藻屑になる」
「橋ごとなら罪人を殺したとしても罪悪感が薄れる、ってわけか。しかもこれだけの数。誰が殺したかなんてわかりゃしない。上手く出来てるけど、アナログすぎない?」
青年は首をかしげる。刑事は忌々しげに眉をひそめた。
「なにか言いたげだ」
青年が肩をすくめると、膝の裏を蹴られ、髪を掴まれた。
「あんまり余裕をこかないことだ。ここから先に法律なんて言葉はない。『HINOMARU』もない。お前の言うアナログな世界に、今から行くんだ」
「いてて……乱暴だなあ」
青年が目を細めると刑事は舌打ちをして、髪を引っ張り無理やり立ち上がらせる。
「これは規則だから言っておく。お前のような大罪人のクズでも、一応は人権があるからな」
「……それは嬉しいね」
「カギを見つけて向こう側からこの橋を動かし、本土へと帰ってくること。そうすればお前は免罪される」
刑事は髪から手を放し、青年を睨み付けながら吐き捨てるように言った。
「島流しの刑期満了ってやつか。習ったことがある」
島流しから帰ってきたものは更生したと見なす。
最高刑である死刑であっても、絞首された際に死ななかった場合においては例外的に免罪となった過去がある。
それははるか昔の稀有なケースではあるものの、歴史上、事実としてある。
島流しもまた、遠い過去に本土へと帰ってきたものへの罪は問わないとされた。それを採用したのだ。
それでは島流しの本質である無期懲役とは言えないのではないかという意見が出たものの、この最高刑自体が重い量刑であるとし、政府はこれを強行採決するに至った。
しかし未だに凶悪事件が起こるたびにネット上では議論が巻き起こっているのだが。
「まあ、今まで帰ってきたやつはひとりもいないがな」
刑事はそう言うと嫌みったらしく笑う。青年も片眉を上げて、そうなんだ、と口角を少し上げた。
「とにかく、ここから先はお前の足で行け。なに、向こう側までほんの三〇キロ程度だ。ピクニックを楽しめよ」
「まいったな……足がすくんで歩けない」
「ウソをつくならその鬱陶しい笑みくらいは消すんだな」
青年は、ここまで来たんだから運んでくれても良いのに、と下唇を尖らせて両腕を突き出した。錠が外れて両手をぶらぶらとさせながら、重々しく開いたバリケードの先へと一歩踏み込む。
「じゃあな、クズ野郎。さっさと死んじまえ」
「ああ、送ってくれてどうもありがとう」
青年はオレンジ色の囚人服の袖をまくり、三〇キロ先の廃墟群へと向かう。
口笛を吹きながら。
◇◆
「錆川警部、良いんですか。あのまま行かせて」
錆川 拓真が護送車の助手席に乗ると、運転席にいた志島 秀徳が不安そうに見てくる。
「本来の手続きであれば、あの島まで送っていく必要が」
「いいんだよ」
言いかけたところに、錆川は腕を組んでルームミラーで、窓の格子の向こう側にある長椅子――あの男が座っていた場所を見る。
「あいつの罪状は知ってるだろう」
「ええ……。しかしその、あまり言いたくはないのですが、私情は禁物では」
「お前は真面目だな。いいから、出せ」
志島は刑事になって四年目だが青びょうたんで、階級は巡査である。
坊主頭にひょろりとした体躯で、眼鏡をかけていて気の弱そうな印象を受ける。実際、気が弱いのだが。
同僚や先輩からは『マッチ棒』なんてあだ名をつけられている。
錆川はツーブロックに肩幅の広い大柄な体格で、身長も一八〇はある。一七〇の志島と並べば、でこぼこコンビだな、なんてこともよく言われることだった。
あの男を乗せている間、顔は引きつり、震えていたのは手袋越しでも分かった。怖かったのだろう、と錆川は思う。同時にまだ甘いな、とも。
ボタンを押し込んでエンジンをかけると、護送車はUターンする。
「あの男はデータ省の大臣だけじゃない。事務次官から官僚まで殺しまくったんだ。ありゃテロと同じだ。当然の結果だろう」
あの青年が総合データ省の希甘寺 徳之助大臣と獏家 修二郎事務次官。
他にも官僚たち二〇〇人を殺したというニュースは大々的に報じられた。
その上、駆け付けてくる警備員や刑事から逃げおおせて全国指名手配までされたのだ。
それはこのIT社会において激震が走った一大事件となった。
そのリカバリに各省庁は内閣総理大臣の声明により緊急事態対策本部を立ち上げ、データ流出を危惧しすべてのシステムにロックをかけ、クラッキングやハッキング、各種データの保存への対応に追われた。
総合データ省はその名の通りこの国の記録すべてが集約される場所であり、そのトップである大臣が殺されるなど前代未聞で、この情報化社会においてそれは致命的でもある。
もしも日本国民全員のデータが流出してしまったら――それも、国内だけとは限らない――海外にまで波及すれば、この国のウィークポイントを突かれる可能性さえあった。
どの時代であっても情報とはどんな武器よりも強力になり得る。それが海外に流れたら、戦争を仕掛けられることだって視野に入れなければならない。
今や国と国の戦争に銃弾や爆弾は必要ない。他国の情報を自在に操作すること、それ自体が脅威となる。
それは例えるならば管制官室にハッキングをし、銃火器を用いることなく飛行機を簡単に落とすことも出来る。
ミクロの世界でも、犯罪者の手に渡ればどれほどの被害が出るか未知数である。
そしてなにより、個人デバイスである『HINOMARU』の不具合へとつながる危険性があった。
それはキャッシングやネット通信だけではなく、生活に根差しているからこそIoT機器の不調や、娯楽施設のサービスすべてが稼働できなくなる。
さらには信号機のエラーや銀行のバグ、飛行機や電車のダイヤの乱れ、ダムやリニューアブルエナジーの誤作動にまで波及し、それらはインフラの壊滅を意味する。
そうなれば民間人だけではなく。コンピューターで管理をされたこの国の基盤にある企業、救急車や消防車、病院や介護施設、果ては自衛隊から警察、議事堂や各省庁などにも影響が出てくる。
さらに磁気浮遊型のAI自動車の同時多発事故や企業の業務停止も懸念され、情報の習得が困難になりAIの暴走が起こり得る。
コンマ一秒でも対処が遅れれば、日本列島の至るところで正確さを失った情報で、混乱が津波のようにやってくる可能性だってあった。
その小数点以下の秒数で、この国は終焉を迎えてもおかしくはなかったのだ。
そこまでのことを、たったひとりの人間がやってのけたのだ。
たったひとりの人間が、一国を窮地に陥らせたのだ。
しかしそれぞれが緊急対策マニュアルと、緊急事態を想定した資料をアナログ化していたこと、クラウドへ情報バックアップをしていたこと。
なによりデータ管理局を分散させておいたこと。
それらがあったからこそ大臣代理として紀藤 龍平の陣頭指揮が上手く機能した。
そうして生き残った官僚やエンジニアたちのコンビネーションが上手く繋がり、奇跡的に最悪の事態は回避できたのだ。
そこから落ち着きを見せはじめたころ、彼は『史上最悪の殺人鬼』と呼ばれ、特別報奨金適用の容疑者に指定され、これだけの大事件であるから、すぐに捕まると踏んでいた。
しかし予想に反して、大勢の警察官から逃げおおせた青年に対し、警視庁の威信をかけてローラー作戦を敢行したが、捕まえるのに半年もかかってしまった。
彼は埼玉の高麗川にある、うらびれた廃工場に潜伏していた。監視社会の隙を突いた、誰もが見向きもしなかった場所である。
しかしその足跡を『HINOMARU』が検知、保存しており、さらに東京から埼玉にあるカメラがその姿を捉えていたのだ。
彼はまるで警官たちが来ることが分かっていたかのように、綽綽とした態度で朽ちかけたパイプ椅子に足を組んで座り、文庫本を読んでいたのだった。
その後、逮捕したのちの取り調べにて青年は黙秘を続けていた。なにを訊いても黙ったまま、頬杖をついていたのだ。
しかし総合データ庁の入り口のカメラに青年が映っていて、さらに壊れた『HINOMARU』のデータを復元、ダウンロードしたことで事件当日、彼が事件現場にいたことも割れた。
さらに家宅捜索を行った際、そのクローゼットから指紋付きのサブマシンガンやショットガンも見つかっていて、それは事件のときに使ったものと同系統だった。
さらにあの青年に銃を横流しした人物も見つかったが、すべてを話し終えたあと、拘留所で首をくくって亡くなった。
それらを伝えると、それで観念したのか、彼は『仕方ないなあ』と笑ったのだ。
そこから司法に委ねられ、国選弁護士はつけられたがその意向はすべて無視をし、『判決は島流し以外、認めない』とうそぶいていた。
結果として精神鑑定も刑事責任能力ありで、裁判所は彼に対し、前代未聞の愚行であり大衆への被害は計り知れず、また影響に懸念が大いにあり、情状酌量の余地はないとして最高刑である島流しを判決とした。
それを受けた青年は特に悲観するでもなく、飄々とその判決を受け入れ、控訴もしなかった。
「――あの男のせいで、国が傾きかけたんだ。そのせいであの時期は外交だって一触即発だった。一発ぶん殴るくらい許されても良いだろ」
「それは、そうかもしれないですけど……」
「まったく、あんな事件を起こしておいて島流し……。こんなに死刑制度が恋しいと思ったのは初めてだ。まあ、埃かぶった古い法律だがな」
錆川は舌打ちをする。九六〇年前なら確実に死刑だった、と。生まれて三十七年、死刑など見たこともなく、歴史として知っているくらいだが、それでも必要ではないかと、そう思う。
――今よりはるか昔、二〇四〇年ごろ、今ではオールド・ジャパンと呼ばれる時代。そのころには死刑制度があったのだという。
人間が人間を罰する際の最高刑であり、三人の執行官がボタンを押して絞首する、というものだ。
それに異を唱えるものは少なくなかった。だが、それでも司法において死刑制度は必要であると訴えかけた。
そんな賛否両論の中、時の法務大臣は死刑に代わる法案を提示した。
――それが島流しである。
それは司法ルネサンスと呼ばれた。
島へと流し、監獄を遠ざける、それはつまり、一般人の平穏のため、危険を遠ざけるということでもある。
さらに島流しには無期懲役を含むものとして認知され、凶悪犯を一ヶ所へ隔離し、永遠に出られない監獄を作ることで絶対安心の社会の構築を目指した。
さらに関東圏である神奈川、埼玉、群馬、千葉、茨城がベッドタウン促進に着手したことで、住む場所を確保することも可能になり、それまで地方で生活していたものも移住してきたのだ。
その結果、関東五県にあった店舗や施設はなくなったが、その代わりECサイトが活発になった。
そのあたりから反対意見は静まっていったようだった。
東京もまた都市開発を繰り返し、住む場所こそ無くなったがその分、各省庁や議事堂はそのままに、様々な娯楽施設や飲食店、企業、総合運動場、研究所や大学などが並び立つことになった。
一九七〇年あたりから始まった少子高齢化社会が二〇四〇年ごろに顕著になり、日本人口が減っていたこともそれを可能にしている。
そして地方の人間が関東に移動し、必要のなくなった地区に、監獄を作ったのだ。
なにかしらの罪を犯した犯罪者たちは『HINOMARU』を剥奪され、そこで懲役が明けるまで刑に服すこととなった。
暴力沙汰や強盗、殺人などでも懲役刑であれば地方監獄で過ごすことになるが、二人以上の殺害、内乱罪、外患誘致、援助罪、現住建造物等放火罪など旧法にて死刑に至る犯罪に関しては島流しとなる。
しかしひとつの懸念点もあった。死刑制度の撤廃により、島流しを再生させたとき――つまり最高刑に至るほどの罪を犯した人間をどこに追いやるかだった。
結果として、東京湾から道路を伸ばし、五〇キロほど沖に人工島を造り、その地下に幽閉することで安全を確保しようとする話が進み、決議案でそれらが通り、すぐさま着手されることになる。
東京湾沖に指定したのは、様々なリスクを鑑みたとき、想定外のシミュレーションを繰り返した際に、もっとも効率よく鎮圧が出来ると踏んだからだ。
そして本土から二〇キロ地点に監視塔とバリケードを建て、その幾重にも張り巡らされた厳重さをもって、脱獄など到底不可能であると国民に知らしめ、安心と抑止力を与えた。
また歪曲島の中にも出来上がった当初は住み込みの刑務官用の寮や、その家族用の家、レストランや映画館、美術館などの娯楽施設も建造された。
地下は厳重に封鎖されていたが、それでも同じ島であり、危険に近い分、他の警察官や刑務官よりも高い給金が支払われて福利厚生も優遇されていたのだ。
それぞれの寮や家、水や光熱費は全額免除対象であり、各施設は税金によって運営され、各刑務官及び家族には無料で開放されるといったサービスである。
それは危険と隣り合わせであるものの、出世の近道とも言われ、そこで従事したものは本土に戻ると昇進が約束される。
だが、いつしか人工島は歪曲島と呼ばれ、家々や施設はすべて封鎖され、すっかり廃墟群へと変わってしまった。
残ったものはアナログな監視塔と、厳重なゲート、そして跳開橋だけとなった。
それに対して、いつからそうなったのか、という明確な表記は歴史書にも無ければ、警察官であっても、そのデータにはアクセスできないのだ。
「でも、もしカギを見つけて出てきたら……」
青ざめた表情で志島が言う。それに対して、錆川はため息をつく。
「あのな、戻ってきたやつはひとりも」
「そ、それは建て前じゃないですか。罪人の心を折るための。僕は、警官ですよ」
ああ、そうだったな――と錆川はため息をつく。カギがあることは事実である。戻ってくれば免罪となる。しかし、ひとつだけ彼はウソをついた。
それで罪人に希望を断つのが常套手段だったが、警官であれば知っていることもある。志島も例に漏れず、その話は聞いているようだ。
歪曲島から本土へと戻ってきたものは、いるのだ。
しかしそれは。
「……そりゃあ、八〇〇年も前の昔話だろ」
「でも、事実として、その」
「あのなあ……」
八〇〇年前、二二〇〇年前後のあたり。五人組が戻ってきたという話がある。それはウワサであり、伝説であり、警官からすれば忌々しいものでもある。
そのリーダー格の男は自らを『ルトゥールマン』と名乗り、裁判所で免罪証明書が発行されたらしい。
結果として彼らが本土に戻り、再び『HINOMARU』と戸籍を手にして、日常生活へと戻ったと聞く。
しかし彼らが免罪され、本土復帰後にどうなったのかはデータがないのだ。
正確に言えば、そもそも一般人にアクセス権はなく、関係者がその情報を手にしようとしても黒塗りで情報が規制されている。
警察官は特にその話、『ルトゥールマン伝説』に興味を持ち、好奇心のままにアクセスを試みるものもいたが――錆川もそのうちのひとりである――アンノウンとされていた。
アクセスを許されたものは各省庁においても限られているのだという話が、もっぱら都市伝説として語り継がれている。
それほどまでに有名なウワサである。志島が知っていてもおかしくはなかった。
「そもそもカギの場所なんて俺たちだって知らねえ。あいつがどんなに足掻いたところで、見つけられるとは思えねえな。それにあの場所は――」
「無法地帯、ですか」
「生き残ることは出来ないかもな」
あの場所は廃墟群となり、今や誰の手も入っていない。法律さえ通じない場所であり、ウワサによればあの地下には独自の文化が根付いたとも聞く。
警官も刑務官もいない場所。そこで築かれた文明がどんなものかは、錆川にも想像できない部分だった。
しかし無法者たちが集まり、どれほどの文化が発展したとしても、そこにいるのは最高刑を受けた大罪人たちである。とても常識がまかり通るとは思えない。
「まあ、心配するな。帰ってくることはない。あの場所で野垂れ死ぬのがオチだ」
錆川は、ふ、と短く息をつき、志島は「だから護送したほうが良かったんじゃ」とぼそりとこぼす。
その言葉を聞き流し、遠のいていく海上の監獄を見ながら、嘲るように笑った。
「――どのみち、負け犬にはお似合いの結末だよ」