第19話:捜査一課、巡査。立花アリサ。
◇19◆
『本日天気は晴れのち曇り。傘は必要ありませんが、低気圧が関東全域にーー』
立花アリサはワンルームのベッドから起き上がり、テレビをつけた。AIキャスターがニュースを読み上げているのを聞きながら、洗面台へと立つ。
『――続いては宇宙天気予報です。本日の太陽フレアはBの2.6。極小期の中でも平均値を下回る予報となっており、太陽活動は緩やかな一日となりそうです』
洗面と歯磨きを終わらせると、シャワーを浴びて、タオルで頭を拭きながら携帯電話型デバイスを装着し『HINOMARU』を起動する。
「とりあえず、なにか食べてから出勤しなきゃ」
HINOMARUを使って昨日の総カロリーを算出させ、朝食に適したメニューを選ぶ。
冷蔵庫の在庫状況はこの端末に随時取り込んでいるから、材料が足りないということはない。
「ほうれん草のおひたしと、玉子焼き……あとは豆腐のお味噌汁ね」
言いながらブラをつけ、シャツを着て、キッチンに立つと、鍋をセットして温度を調整してボタンを押す。
オートクック機能を使えば、ワンタッチでわざわざ自炊することなく料理は完成するが、彼女はなるべくキッチンに立とうとする。自分で作ることに意味を見出しているのだ。
このデバイスには食事のルーティーンがアルゴリズムに組み込まれ、好みの食べ物もインプットされるよう設計されていて、しかし糖質や脂質に関する健康状態の維持にも役立っている。
今では当たり前のものとしてその恩恵にあずかっているが、歴史の授業ではそれ以前の時代を学んだことがある。
それは――二〇二〇年ごろ、オールド・ジャパンと呼ばれた時代までさかのぼり、そのころからIT産業が急速に進んで、ほとんどの仕事はAIへと取って代わり、完全監視社会が築かれ始めた。
黎明期にはその技術に関して混乱があったともされているが、時代が進むのと比例して洗練され、一〇〇年と経たない間に人々から受け入れられはじめたのだと。
今では産まれたときに脳内にナノマシンの埋め込み、顔認証と指紋認証、虹彩認証のテクノロジーを用いたデータ登録が義務付けられる。
そして小学校に入る年齢で腕時計型の個人管理デバイス『HINOMARU』が支給され、そこでそれまでの情報がデバイスに紐づけられるのだ。
ナノマシンでは学業による偏差値、成績、能力、社会経験などが数値化されてデバイスに取り込まれ、総合データ省へと送られて、適正指定校や適正職業、相性の良い結婚相手がリストアップされる。
人間は今や、このHINOMARUなしでは到底生きていけない。そもそも、それ以外の生き方など、想像が出来なかった。
まるで神のような代物だな、とアリサは思う。
データが全知全能となり、自我を持てばシンギュラリティが起こる。そのときはじめて、真なる神へと昇格するのだと。
過去の宗教観は大学で習ったことがあるが、それに近しいものをこのデバイスに感じている。
そしてそうなりつつあるのが、この時代である。
アリサもまた、例に漏れず、大学を卒業後にリストアップされた刑事という職種を選んだ。警察学校を出て、警視庁捜査一課、殺人犯捜査二係、難波班へ配属となった。
「これでよし、っと」
三分ほどで食事が出来上がり、白米を茶碗によそってテーブルに着くと、両手を合わせてから味噌汁に口をつけながら、HINOMARUのニュース記事に目を通す。
行儀が悪いことは理解しているが、父親のクセがそのまま移ってしまった。
『総合データ省を襲った未曽有の事件から三年。先日、犯人に対し島流しを執行』
一面に顔写真と内容が表示され、アリサは眉間にしわを寄せる。
「あれから三年も経つんだ……」
三年前に起きた前代未聞の事件、総合データ省襲撃の事案は、犯人逮捕と島流しにより世情は落ち着きを取り戻していた。しかし彼女は、どこか腑に落ちない感覚があった。
表向きでは犯人はひとりであると報道されていて、誰しもがそれを疑っていない。データがすべてであり、絶対であるからこそ、それこそが真実である。
三年前、データ省の大臣をはじめ、官僚たちが殺される事件が大々的に報じられた。そのころ、アリサはまだ大学生だったが、連日そのニュースで賑わっていた。
その犯人の顔が整っていたことで、女子学生たちは黄色い話題で盛り上がり、刑事を志していたアリサはひどく辟易したものだった。
しかし、同時に違和感も覚えていた。
誰もが犯人憎し、テロリストだ、最悪の殺人鬼だと言っている中で、どうしても飲みこめない事実がそこにはあった。
――たったひとりで、やれるものなの?
ニュースでも雑誌でもまるでなにも謎などないように、彼が犯人であると報道し、検察も疑うことなく問い詰め、司法もそこに瑕疵などないように審判を下した。
けれど、二〇〇人という人間を、たったひとりで殺せるものなのだろうか。
ニュースでは銃火器を使った、指紋付きのショットガンや拳銃も家宅捜索で見つかったという。その売人は拘留所で首を吊ったと報道されていた。
しかしそれらは、彼が犯人であるという仮説を主軸として作られたものなのではないか。
大学生のころからずっと、その疑問は晴れなかった。
だが警察に入り、捜査一課に配属された時点で、その疑問は口には出来ない。それは、警察という組織形態に、あるいは法治国家に対する背任行為なのだ。
「でもやっぱり――出来過ぎてる」
そうこぼしたとき、HINOMARUに着信が入った。
「はい、立花です」
『ああ、俺だ。難波だ。今は家か』
「はい。今ちょうど朝ご飯を……」
『悪いが、臨場だ。急いでくれ』
「事件ですか」
『ああ。柳沢でコロシだ』
「……柳沢……あのあたりは」
『廃棄地区だからカメラがない』
「厄介な場所ですね」
『まったくだ。とにかく、詳しい話は現場でする』
「了解しました。すぐに向かいます」
急激に発展を遂げた東京の中だからこそ、行政の手が届かない過疎地区や、何度も再開発を試みては廃案になり、不法建築によって様々なビルがタワーのようになっている廃棄地区がある。
もちろん、それらは俗称であり、国民が呼び出したものであるが、アリサたちも自然と口にしている。
柳沢はその中でも廃棄地区として呼ばれていた。
そこまでは監視カメラやドローンが行き届いていないのが現状なのだ。
さらにそういった場所には、不法移民やホームレス、ワケアリの人間が集まり、犯罪の温床と化している。
今や世界の中でも数少ない安全国家として、どうにか対処をすべきだという声が上がっているものの、そこを潰すことにかかる予算を捻出できずにいると聞く。
また、仮に予算が通ったとしても、潰してしまうことで他の街――二十三区や関東五県のベッドタウンに犯罪者が浸透していくことを危惧しているのだろう。
完全に見える国でも、それは表側だけで、やはり取りこぼした地域は存在するのだ。
「急がないと」
通話を切ってみそ汁をずず、とすすってから、手早く食事を終わらせると立ち上がり、スーツに袖を通す。
「じゃあ、行ってきます」
革靴を履いて、部屋を出る。一人暮らしで返事はないが、それでもこれが彼女のルーティーンでもあった。
◇◆
駅の改札にHINOMARUをかざして通過し、小走りで電車へと乗り込む。ここから吉祥寺までは十分程度であるが、その間にもデバイスでニュースを確認する。
ひと通り確認を終えると、昨日の運動量などを流し見ている。
「最近は動きっぱなしだなあ。なのにこのお肉は……」
脇腹をつまんでぶつぶつとつぶやく声も、周囲の声にかき消されている。
彼女自身はそう思っていないが、ショートカットの童顔で低身長、どちらかと言えば痩身の部類に入る。
スーツを着ても、刑事どころか社会人にさえ見えない――それほどまでのあどけなさが残っていた。
「昨日の歩行距離は……ううん、もっと歩かないとかなあ。運動も増やしてるつもりなのに」
このデバイスの中には高性能AIが組み込まれていて、歩行距離や運動量、就寝時間などのヘルスケア的なものから、各地にある監視カメラと繋がり、その日どこに行ったかまで把握される。
具合が悪くなったときや、突然倒れてしまった場合も脳内のナノマシンから送られた情報をデバイスが精査し、緊急を要すると判断すれば消防局へと繋がるようになっている。
生活からバイオリズム、身の安全や健康まで、すべてがデバイスに記録され、総合データ省によって厳重に管理されている。
そして購買記録や取引記録もインプットされる。
それに伴い、罪を犯してもすぐさま身元が割れることになった。
マリファナや違法ドラッグを使えばナノマシンが身体に変調があると感知し、銃などを買えば、デバイスの購入履歴に残る。
ドラッグの使用や銃などの購入などの不法行為が認められたときに、その人物の情報が警視庁サイバー課へと送られるのだ。
それらは二基の人工衛星『ひこぼし』と『おりひめ』――。
――そして地上にあるスーパーコンピューター『那由多 THE High End』による情報の通信交換により、デバイスがそれを受信することで可能になったのだ。
だが、ここまで完全に近い潔癖な社会を構築したとしても犯罪が減ることはない。
スワイプしていると、ピコン、と新しいニュースがデバイスに入ってきた。一昨日、八王子で銃器の売買を行っていた売人が今朝、摘発されたというものだった。
ただ、買主は逃げおおせたらしい。
「八王子で銃の取り引きかあ……あのあたりも廃棄地区だからカメラも少ないよね」
――隆盛極める途上に罪過あり。とは、昔の偉人の言葉である。
時代が大きく変わってゆくとき、新たなシステムが組まれるとき、その影に犯罪もまたついて回ってくるのだ。
そしてその犯罪に対する抑止力が開発され、システムはさらに洗練されていく。その繰り返しなのだと。そうして繁栄がもたらされるのだと。
その途上で出来上がったものは完璧なものとは限らない上、事実、銃の購買ひとつとっても、デバイスの操作によって抜け道は作られる。
その最たるもの――『HINOMARU』と同形態の『闇デバイス』もまたアンダーグラウンドで売買されている。
それも見た目だけではほとんど見分けがつかないほどに、精巧に作られている。
それらで監視カメラにハッキングをして薬物や銃器の取り引きの改ざんをしたり、ディープフェイクなどを作ることも可能である。
――だからこそ、それを見逃さないために私たちがいるんだ。
ほとんどがデジタルに移行し、すべてを託していると言っても過言ではないこの国は、だからこそ隙が生まれやすい。
AIが常用される現代においてなお、刑事という職業が失われなかったのは、そういった小さな隙を埋めるためであり、この国の秩序を守るためでもある。
『次は吉祥寺、吉祥寺。お出口は左側です。お忘れ物にご注意ください』
無人運行の列車からAIの声が聞こえてきて、アリサ両頬をぺしりと叩いた。
「……よし。行こう」




