第0-1話:最悪の楽園へようこそ!
◇0-1◆
大きな、大きな橋の上を、青年は歩いていた。
潮騒を聞き、大空に光る星の下、はるか遠くの街のぼんやりとした光を背に、七時間ほど歩いてすっかり夜も更けてきたころに、その廃墟群へとたどり着いた。
いつか埃をかぶった歴史書で見た九龍城のような、あるいは軍艦島のような景色の下に、パンクして傾いた護送車や塩害で錆びた乗用車が倒れている。
建物はところどころ白熱灯が点滅していて、青年は息を切らしてひたいの汗を拭いた。
オレンジ色のつなぎのような囚人服の袖を腰あたりで結んで、黒いシャツにはスマートだがしっかりと絞られた筋肉が浮いて出ている。
「おん?」
パシュッという音が耳朶をかすり、地面に穴が穿たれて――それを契機に、銃声が四方八方から響く。
「はっはー! ようこそクズ野郎! それじゃあくたばれ!」
拡声器を通した声に同調するように周囲からオオオ、と罵声が湧いた。
青年はとっさに右奥のすでに錆びている護送車の影に隠れると、「あわわわわ」と身をすくめる。
「なんだなんだ、びっくりしたなあ」
銃声を背中に聞きながら、周りを見ると腐り始めている囚人服を着た死体や、スーツ姿の死体がうっすらとした灯りに照らされて確認できる。
ここを通り抜けることが出来なかったものたちなのかもしれない、とひとり納得する。銃声からも飛距離からも拳銃のような生易しいものではないだろう。
青年はここに移送される前にすべて取り上げられていて、武器と呼べるものなど当然持ち合わせていない。しかし――。
「お、これ使える」
ふと見ると護送車のドアが目に入る。幸いにも廃墟群から見れば反対側で、銃撃を受けていない。
おまけに護送車のドアであるから、防弾仕様だ。
「よい、しょっと。おわっ!?」
足で踏みつけ、腕に力を込めてからべきべきとドアを取り外す。思っていたよりも風化していたようで反動でそのまま後ろに倒れてしまった。その間も怒声と銃声が響いている。
だが、彼は特に緊迫した様子もなく、腰を落として舌なめずりする。足に力を入れ、ドアで頭を隠すようにして、しなやかな肢体をバネのようにして踏み込み、コンクリートを蹴った。
「死ね死ね死ね死ね!」
「あだだだだだだッ!」
だみ声の叫び声とともに銃弾がドアに当たりその衝撃が腕を伝ってくる。廃墟の入り口までの百メートルを走り切り、飛び込むようにして中へと入りこむ。
そこは四方をビル群で囲まれた中庭のような場所だった。
そこにたむろしていた男たちが銃を構えるのを目の端に捉え、ドアを放り投げて、そのままドアごと跳び蹴りを入れ、地面に着地と同時に手を付けたまま両脚を開いて回転させ、その手首を狙った。
「くそ、こいつ!」
「おわっ! この野郎!」
「……ふッ!」
くるくると舞い、男たちの握る銃を落とすとそのまま飛び掛かる。その直前に放たれた銃弾が二の腕を裂いて、鮮血が散るも気に留めることなく男のこめかみに回し蹴りを入れる。
そのまま畳みかけるように男たちの腹に拳を入れると、後ろに気配を感じて裏拳であごを打ち、脳を揺らした。
「あれ? ここは手薄なのか」
あっという間に五人の男を地面へと沈めたが、足音が響いてくる。どうやら入り口付近ではなく、上階へ人間を集めているようだった。
「上からのほうが狙いやすいってことかな。いや、なんか違う気がする」
独りごちながら、中庭から廃墟の奥へと駆け出す。飛び出してきた男たちを蹴散らしながら、一心不乱に地下への入り口を探る。
「ちょっと痛いだろうけど、ごめんね」
「うあッ!?」
まるで迷路だと思いつつ、落ちていた銃を二丁握り、撃ってくる男たちの手首を狙うと弾けて地面に落とし、それを蹴って滑らせる。すでに暗闇には目が慣れていた。
瞬間、キラリと光り、身をよじって躱す。しかしギリギリのところで飛んできたナイフがシャツごと胸筋の皮膚を切り裂いた。
「あららららら」
よたりながらも足は止めず、ナイフを構えている男の手を撃ち、取りこぼして下がった頭に膝を叩きつける。
「どんどん出てくるな。どこから降りればいいんだ」
刑事から地下牢であるということは出発前に聞いていたこともあるが、島流しの刑罰は地下で一生を終えることだと一般常識として浸透していた。
「お、階段あった!」
急ブレーキをかけ弾が切れた二丁の銃を捨てると、目前で銃を構える男の腕を絡めて固め、顔面に拳を打ち込むと、地下への階段へと高く跳ぶ。
「待て! この野郎――」
「止めろ! 銃を下ろせ! ここまでだ!」
後ろから怒鳴り声がして、青年は首をかしげながら二段飛ばしに階段を下りていく。
「なんだったんだ、あれは」
汗と泥まみれで、銃弾やナイフがかすった部分から血が滲んでいる。しかし銃声はぴたりと止んでいて、追ってくるような音もしない。
青年はこの状況に違和感を覚えていた。どれだけの人数かは分からないが、決して少なくはなかった。廃墟の中庭に入った時点で上から狙えば、殺すことも出来ただろう。
しかし中に入ってからはそこに隠れていた男たちのみで、上階にいたはずの人間からの攻撃はなかった。本気で殺すつもりならやりようはいくらでもあったはずだ。
「変な場所だなあ」
青年は汗ばんだ首元を腕で拭きながら階段を下りていくと、大きな扉があった。格子は破壊され、施錠は解かれている。
「……失礼しまーす」
三回ノックしてから重い扉を開くと、わっと人の喧騒とまばゆい光があふれ出てきて、目を丸くした。
「なんだこりゃ」
二十メートルはある幅の広い廊下があり、白熱灯の下、色とりどりの衣類を見につけた人々が行き交っている。
それだけではなく、牢屋があったであろう場所には、カラフルな手書きの看板が天井につられ、『OPEN』や『WELCOME』といったネオンサインが壁に掛けられていて、様々な店舗に様変わりしていた。
とても牢獄とは言えない、異国の町に迷い込んだような気分だった。
壁に赤いスプレーで書かれた『NORTH B1 一番通り』という少し薄れている文字を読んで、ここが地下であることを確認する。
「よう兄弟、新入りか。ん? どっかで見た顔だな」
褐色肌で大柄な男が瓶ビールを片手に青年の肩を抱いてきて、ぽかんとした表情でなにも返すことが出来なかった。
青髪のベリーショートで、堀の深い顔、濃い眉に二重の瞳、分厚い唇。外国人かな、と、そんなことを思う。それにしては日本語が流暢なのも気になった。
「えーと……」
急なことに青年は言葉に詰まってとりあえずにっこりと笑ってみせる。
男の両肩から指先までが鉄製の義手で、力をこめるとぷしゅ、と排気される。ひと昔前の機械義手だった。
「はっは。驚いて声も出ねえか。それともサイボーグは珍しいか? まあいい。ここはこういう場所だ。楽しめよ、兄弟」
ひらひらと瓶ビールを揺らしながら褐色肌の男は過ぎ去っていく。想定していた状況とかけ離れた状態に、青年は虚を突かれている。
「あら、お兄さん。新人さん? って、あなた、見たことあるわ」
今度はグラマラスな身体を赤いドレスに包んだ女性が微笑みかけてくる。年齢は二十代後半から三十代くらいだろうか。美麗で、目鼻立ちのはっきりした女性だった。
そして青年の顔を見るなり、先ほどの男と同じことを言って、ポーチからくしゃくしゃになった紙を取り出した。
「データ省の大臣と職員を皆殺しにした子よね」
それは新聞のようだった。青年は、えっへへ、と笑ってから「新聞があるんだ、ここって」とその新聞に目を通す。
顔写真付きでニュースでやっているものと内容はほぼ変わらなかった。
「まあ、新聞が来るのは一週間に一回だけどね。それにあなたはここでは有名人よ。なんたってここまで大きな事件を起こした人間なんて多くはないから……それにしてもひどい恰好ね」
女性は青年の服装をまじまじと見てから、首をかしげる。
「血に埃に泥に……ボロボロね。そうねえ、良い服屋を知ってるけど、来たばかりだったらお金は持ってないわよね」
「お金が流通してるんだ」
「ええ。ここには仕事もあるし、お金もあるわ。生きていくには必要でしょ?」
「そりゃそうなんだけど、ここは監獄なんじゃ」
青年の言葉に女性は口元に手を当て、あはは、と笑う。
「打ち捨てられて何百年経ってると思ってるの。刑務官もいなくなって、満足な食事だってない。囚人たちはそんな中で生きていかなきゃいけない。だから昔の人は交渉をしたの」
「交渉?」
「私たちはたしかに罪人で囚人。でも死刑囚じゃない。だから月に一回、補給物資が送られてくる。昔はあちらさんもごねたらしいけれど、大きなデモが起こってね。こちら側もそうだけど、本土の人権派まで出てきちゃったらしいの」
「大事件じゃないか」
「あなたが起こした事件に比べれば小さなものよ。でも、そうね。だからそこで国家は看守塔を破壊しないことを条件にそれを飲んだってわけ」
看守塔――あの海をまたいだビルのことだろう。あの場所は、デモを起こすにも丁度良い。
命を賭けたデモであるなら、あそこを占拠することには大きな意味がある。上手くやれば執行人たちを人質にも出来る上、その場所は軍事用の砲台が付いた大きな砦となる。
向こうからどれだけの戦力がやってこようと――特別機動警備隊に出動要請を出したとしても、戦力はたかが知れている。しかしそこで国家と囚人たちがぶつかれば、それは内乱に近い状態へと突入するだろう。
それが起こってしまえば、株価や外交にも大きな影響が出る。
そうなれば安心安全国家の名は地に落ちる。それを全世界にさらすことにも繋がり、人権派のプロパガンダで国内世論によって国家自体が紛糾されることになりかねない。
さらに看守塔が陥落すれば脱獄さえ容易になり、そのあとの本土の状況は想像するに余りあるもので、この国はそれを危惧したのだと、女性の言葉から察した。
補給物資を送ることでそれらのリスクを回避できるのなら、安いものなのだろう、と。
「そうやってどんどん文化が築かれたの。まあ、何百年前とかのうんと遠い昔の話。先人たちの功績ね。なんて、私も人から聞いた話だけれど」
「へえ……。じゃあ住む場所はどうしてるの」
「もちろんあるわよ。独房だった場所ならそこかしこに。好きな場所で寝れば良いの。ただ、寝床の場所は間違えないことね。ギャングのテリトリーに入っちゃえばすぐさまハチの巣になる」
「それは気をつけないとだね」
青年は、あごをさすりながら片眉を上げて目を細め、口角を上げる。
「……ちなみに、ギャングはどれだけいるのかな」
「んー、私も詳しくは分からないけど、各階にひとつのチームがナワバリにしてると考えたら、最低でも二〇はいると思ったほうが良いわ。下部組織も含めたらそれ以上かも。少なく見積もるほうが危険よね」
「ふうん。なるほど、地下二〇階だから二〇のチームか。でも、ちょっとあいまいだね」
「この場所で無事に生きていたいのなら、ギャングを深掘りするのはアンタッチャブルなのよ。目をつけられたら、殺されちゃうわ」
「それは困るね。絶対に死にたくないし、数も予想以上に多いみたいだし……」
青年はううんと唸りながら、目を閉じる。女性は続ける。
「まあ、はじめは自警団だったみたいだけれど、それぞれに主義主張があるから分裂したのね。だから数が増えちゃったみたい。まあ、これも私の聞いた昔話でしかないんだけど」
「親切にしてもらってるところ悪いけど、話を聞くだけでもう嫌になってきた」
「ふふ。慣れちゃえば良いのよ。住めば都ってね。ああ、私はクリスティーナって服屋をやってるの。お金が出来たら買いに来て。お店はこの奥の道を左に曲がった北三番通りにあるわ。新人さんだから少し安くしてあげる」
「だから優しくしてくれたんだ?」
良い店を紹介してあげると言っていたが、自分の店だったのか、と青年は苦笑する。色々と聞いたが要は、親切心とセールスが上手く混じっていたのだと気付いた。
「それだけじゃないわ。新人さんは、なにも知らないまますぐに死んじゃう子もいるから。そういうのは、そうね……。慣れないのよ。私が嫌なの。囚人なのに、変な話よね」
じゃあね、と微笑んで立ち去ろうとする女性に対し、とっさに声を出した。
「あ、ちょっと待って」
「他になにか知りたいことでも?」
「えーと、お姉さんの名前は?」
他にも聞くべきことは多くあったが、どれも上手く言語化できず、結局は出てきた言葉をそのまま吐いた。
女性はくすりと笑ってから、胸に手を当てて首を傾げた。
「――私の名前は店の名前と同じ。クリスティーナ。私たちは囚人IDしか持ってないし、この国を捨てた罪人に本名なんて洒落臭いでしょ」
クリスティーナは首にかけた囚人IDが刻まれたタグをつまんでそう言うと、片目を閉じてから、手を振って人混みに消えて行った。
青年はしゃがみ込み、わしわしと髪を掻いてから深く息をついて、ぽつりとこぼした。
「んん、こればっかりは予想外だなあ……」
話に聞いていたものは、ギャングがナワバリを築いているというものだけで、こんな街がひとつ出来上がっているなんて想定外だった。
しかし彼には彼の目的がある。このまま運に任せて免罪のカギが見つかるとも思えない上、嫌になったからと言って今さら帰りたいと泣きじゃくるつもりもない。
「――この中から見つけるのは、骨が折れそうだ」
どのみち一度は来てしまったのだから行動あるのみと心に決めて、立ち上がるとうんと伸びをした。
「まあいいや。なんとかなるでしょ」