前編
さらっと読める前編後編構成です! ハッピーエンド系ですね!
「姉さん?」
その日は、とてつもなく特別な日であり、姉と永遠の別れになる日でもあった。
それをよくよく知っていて、それゆえにその日もいつも通りを意識して、姉の部屋のドアを開けた妹は、誰もいない部屋と、目立つ位置に置かれている書置きに目が向き、まさか、と小さな声で言った。
「姉さん……逃げたの?」
それがあり得ないと言い切れないのは、姉がとてつもなく行動的な人で、嫌な事からは逃げ出す人だと妹もよく知っていたからだ。
妹は慌てて書置きに駆け寄り、それを手に取り、封もされずに二つ折りにされているそれを広げて、そのとたんにはじけた光に、意識を失った。
「ジャン、ジャン!」
誰かが自分を呼ぶ声がして、彼女は目を覚ました。いったい何が起きたのか、と体を持ち上げて周囲を見回すと、青ざめた顔で両親が彼女を見ていた。
「とう様、かあ様、私は一体……姉さんは!? 部屋に姉さんがいないんです! 今日は大事な儀式の日で、正午にはお迎えが来る事になっているのに!」
彼女の言葉に、両親は青ざめた顔のまま顔を見合せて、慎重に言葉を紡いだ。
「ジャン、大変なんだ……エレーネは」
逃げ出してしまった、と父が言ったので、ジャン……ジャンヌヴェーラは、あり得ない、と叫んだ。
「あり得ない!! だって姉さんは自分から手をあげて、あの役割になったのに、逃げたなんて!」
「私達も信じられない気持ちで一杯なんだ。置手紙を見てくれ」
父がそう言ってジャンに、彼女が気を失う理由になった置手紙を渡す。
それをひったくるように受け取り、ジャンはその中身を読んだ。
読んでその中身が全く理解できず、目を見開き、しばし凍り付いた後に、父と母を見て、言った。
「やっぱり儀式をやりたくないから、愛する人と出て行くって……儀式の期間は一年だけでしょう!? その後は王宮から謝礼金もたっぷりもらえるし、姉さんはそれに加えて、優秀な成績を収めていたから、王宮からお手当ももらっていたじゃありませんか! なのにこの当日に儀式が嫌だって、そんなの、そんなのって……」
「私達も、まさかこんな事になるとは思ってもみなかった……たった一年の間だけだから、とエレーネリアもしっかり理解して、それで手をあげたと思っていたのに……」
「百歩ゆずって愛する人がいるのは仕方がありませんよ? でも儀式から逃げ出すなんてありえない……一年の間だけって、ちゃんと説明を受けていましたよね? その一年の後は、何不自由ない生活を送れるって、ちゃんと姉さん理解してましたよね!?」
「していると思っていたんだが……このぎりぎりになって、エレーネリアの気まぐれが発動してしまったとしか言いようがない……」
「あの子は頭もいいし、賢くて立ち回りも上手な子だから、利点の方が大きいって分かっていたはずなのに……そんなに、貧相な暮らしが嫌だったなんて」
家族三人で顔を見合せて、真っ青な状態で凍り付いていた物の、儀式の時間は刻一刻と近付き、そして王宮から、儀式のための迎えも来てしまう。
「終わりだ……この家も終わりだ……こんな事になって……」
父が絶望的な顔で言う。この儀式を嫌がって当人が逃げだしたなんて、面目だのなんだのは祭るぶれであり、王宮からの信頼も失墜する。まして王宮の関係者たちが目をかけていた、秀才エレーネリアの逃走である。
「とう様、なんとか王宮の方々にお許しをもらえな……」
ジャンがそう言って、寝台の隣にあった小さな卓に、置手紙を置いた時だ。
彼女の目に、自分の手の甲が移り、そして目を見開く事になったのだ。
「うそ。とう様、これを見てください!!」
とっさの事だったため、ジャンは手の甲を両親に見せた。
そこに浮かび上がる印を見て、両親は目を見開く。その反応は娘と同じであり、彼等も信じられないと思っているのがよくわかる。
「これは、これは儀式を行う少女に、王宮が付ける印ではないか!? ま、まさか!!」
父はそう叫び、卓の上の置手紙をひっつかみ、すぐさまその手紙に何らかの痕跡がないか調べ始めた。
王宮魔術研究師という役職についていた時代の長い父は、こう言った物の痕跡を調べるのが得意なのだ。
その父が調べた後、しんじられん、という声をあげて、手紙を卓に戻し、ジャンに言う。
「エレーネリアは……誰か知り合いの竜族に、儀式の印を別の人間に押し付ける反転術を使ってもらったらしい……竜族と出会う事は珍しい、一体どこで出会ったんだ……」
「学園には、竜の谷から来た竜族の方たちが留学に来ていました……彼等では」
「つまり、エレーネリアの印を、ジャンにあの子は押しつけたの?」
母があり得ない非常識だという声で言う。父が認めたくなさそうに頷いた。
「そうなる……」
「……そんな……あの子は妹にこの大役であり重要な役を、了承なく押しつける無責任な子だったなんて……」
母が真っ青な顔で、あり得ないという調子で言う。彼等がどうする、と頭を悩ませている間にも、再びいうが、時間は過ぎている。
ジャンは自分の手の甲に浮かび上がった、儀式を取りおこなう、選ばれた少女の印をじっと見つめ、顔をあげた。
「仕方がありません、とう様、かあ様、私、儀式に姉さんの代わりに参加します」
「そんな! エレーネリアはこの儀式のために、特別な授業も訓練も受けてきた。何もそう言った事をしていないお前が、この儀式に参加するなんて危なすぎる」
「でも、姉さんはいません! そして印は私の手の甲に浮かんでいます! ここで姉さんが逃げたと王宮に伝えても、結局うちの信頼が失墜して、二度とこの家は立ち直れなくなります! だったら私が、一年儀式に参加し、なんとかしのげば……!!」
家の信頼が失墜すれば、領地没収などは軽い罰で、それなりの地位で、質素ながらもそれほど不自由のない生活を送る事はできなくなる。王宮からの信頼が消えるというのは、死ぬよりも恐ろしい事であり、親戚郎党にもその余波が来るのは、間違いなかった。
「信頼が失墜するのが、うちだけではないでしょう、おじ様もおば様も、良い縁談が決まりそうな従姉たちも、皆皆、だめになります! 私は、家族や親戚がそんな目にあうなんて考えたくもありません! それに、一年、一年の間だけ、私が我慢すれば」
「ジャン……」
母が泣きそうな声を出す。父は難しい顔をした後に、静かに問いかけてきた。
「その覚悟は本物かい、ジャン」
「本物です」
「……分かった。本来誰かに譲渡できるはずのない、選ばれた乙女の印をジャンが持っている以上、人が違うという事を王宮は追及できない。つまりその印がある事で、お前が最初から選ばれた乙女であると誤魔化せる……ジャン、本当にすまないが……やってくれるか」
「はい」
「では急ぎ支度をしなければ。選ばれた乙女の花嫁装束などを着なければ。……エレーネリアの物だ、かあさん、急いで調整を頼めるかい」
「……ジャン、本当にありがとう。無事に一年過ごしてきてね」
「はい」
両親は目に浮かぶ涙をそっとぬぐい、支度のために立ち上がった。
急がなければ、王宮からの迎えが来てしまうのだから。
「このたびは、死霊王の花嫁になっていただき、誠にありがとうございます」
迎えに来た王宮聖騎士たちは、そう言ってジャンを見下ろす。そして違和感を覚えた様子だ。
「失礼ながら……記憶にある方よりも、背丈が高いように思われますが……」
聖騎士が戸惑った顔になった後、問いかけて来る。
「失礼ながら、印を見せていただけませんか」
「……」
これも予測済みだったジャンは、すっと手の甲を見せる。そこには古代に、王宮の最高峰の術者が作り出し、役割が終わるまで消える事のない印が浮かんでいる。
偽造でも何でもないのだ。これは姉が押しつけてきた物で、つまり……本物なのだから。
そしてそれを見て、聖騎士たちは納得した顔になる。
「申し訳ありません。百年に一度の儀式とあって、我々も緊張しているようです」
「……」
ジャンは出来るだけ声を出さずに頷いた。エレーネは高く澄み切った、歌のうまい小鳥のような声をしているが、ジャンはもっと低い、歌の下手な烏の声をしている。
それで、入れ替わりに気付かれるわけにはいかないのだから、黙っていられる間は、黙っていようと両親と決めていた。
「娘よ……気を付けて」
「自分を大事にしてね」
両親も、涙を浮かべて、ぼろが出ないように呼び掛けて、装飾の過多な輿に乗るジャンを見送る。
ジャンは黙ってうなずき、その輿に乗って、聖騎士たちとともに家を後にした。
遥か昔。この国にはとてもすごい王様と、その王にお仕えしている騎士がいたという。
王様は誰からも慕われる偉大な王様で、騎士はその王様を支え続けていたとか。
だが、王様はある時毒を盛られ疑心暗鬼に陥り、ついには騎士が毒を盛ったのだという妄想にとりつかれた。
「無実を証明するのならば、この盃を飲み干せ!」
毒の入った盃を騎士に突きつけ、王はそう言ったのだという。騎士はそれに対して
「我が君の心がそれで安らかになるのであれば」
と、盃の中身を飲み干し、その場を後にしたという。
そして薄暗い墓地のあたりで、毒が全身を周り、息絶えた。それを知り、王は自分の愚かさを嘆いたものの、死者は蘇る事などない。
そう、普通死者は蘇らない。だがその騎士が死んだ後から、墓地では死霊の影が頻繁に目撃されるようになり、神官達が決死の覚悟で調べた結果、騎士がどこにも行くあてがなく、その墓地をさまよっている事が分かった。
死んでもなお行くあてがなく、墓地をさまよう騎士は、神官達にこう言った。
「私の死ねない無力さと、いる事で集めてしまう邪悪な力を、どうにか国のために反転できないものか」
忠誠を誓った主を思い、なんとか自分がもたらす邪悪な力を、国のために使えないかと聞いた騎士に、神官の中でも、特に勇気のある女神官が進み出てこう言った。
「あなたの力を、生贄の力で反転させ、繁栄の礎を築きましょう」
生贄が行う事は、あなたと過ごす事です。あなたが引き寄せる邪悪な力は。選ばれた印持つ乙女がいれば、反転し、この国にとって善きものになるでしょう。
この言葉を聞き、騎士はぜひそうしてくれと言った。そしてすぐさま王様にこの事が報告され、これを言い出した女神官が、最初の花嫁となった。
女神官は心の強いひとで、墓地の近くに家を建て、騎士と共に過ごした。
だが邪悪の力は強力そのもので、一年で女神官は寝込むようになってしまった。
その頃には、騎士も己が引き寄せてしまう邪悪な力の扱い方をある程度心得、女神官にこう言った。
「百年に一度、この邪悪なる力を反転させる乙女を連れてきてほしい。一年の間に、その乙女と共に過ごす事で、邪悪の力を反転させよう」
そうして、騎士は百年に一度、百年分の邪悪の力を、選ばれた乙女と共に過ごす事で反転させ、この国に悪しき出来事が出来るだけ起きないようにする事に、成功したのである。
そして、それだけ邪悪の力を操れるようになった騎士を、いつの間にか人々は、死霊王と呼ぶようになったのである。
一年と限定されているのは、邪悪な力とそれ以上近い場所にいると、乙女が衰弱してしまうからだ。
それから、この国の歴史の中で、百年に一度、死霊王の花嫁が捧げられる事になり、今日まで来たわけである。
死霊王の花嫁になれば、金銭的には一生安泰と言われているし、花嫁が出た家はしばらくの間優遇される。
そう言った事情もあり、貴族たちは皆積極的には手をあげないものの、百年に一度の花嫁が、途絶えた事はなかったのだ。
……姉が逃げだすまでは。
ジャンは死霊王がいるという墓場の近くの建物に到着し、輿から下りた。
「それでは……」
聖騎士達はそう言って去っていく。死霊王の機嫌を損ねないように、連れてきた聖騎士達ははやばやと去っていく事になっていたのだ。
ジャンは花嫁衣装の裾の長さを、歩きにくいと思いながらさばき、建物の中に入った。
入った途端に感じる、死霊がいる事が明らかな空気の冷たさに身震いしつつ、ジャンは死霊王の姿を探して……一番奥の部屋にたどり着いた。
そこまで誰もいないので、他に探しようがなかったのである。
ジャンは扉を叩き、何の応答もないため、慎重に扉を開けた。
「あなたは誰?」
「見てわからないのだろうか」
「ええっと、包帯だらけの男の人にしか見えないんだけど」
扉を開けた先にいるのは、全身を包帯で覆った男の人である。死霊王は甲冑姿だと聞いていたので、死霊王だとは思えない。
そして、包帯だらけの男の人と呼ばれた男は、包帯の間から丸くした目を向けて、言う。
「おれは騎士だ」
「……もしかしてあなたが、死霊王なの?」
「人々はおれをいつの間にかそう呼ぶようになった」
静かに彼がいって、立ち上がる。
「ようこそ、同居人どの。不自由がある場合は王宮に伝えれば問題はない、はずだ。……一年の間だけ、同じ建物の中で暮らす事を行ってほしい」
彼は静かに深い声で言うものだから、ジャンは恐ろしいとは思えなくなった。知的で冷静な騎士なのだろうと思ったわけである。
「わかりました。……私が使っていい場所はどこに?」
ジャンが恐れたり怯えたりしない事に、彼は安心したらしく、こちらだ、と案内を始めてくれたのだった。
思っていた生活ではなさそうだ、とこの時点でジャンは何となく察し始めていた。