1-3 信念を貫くためには
静寂の中、そこには水の流れる音だけが木霊していた。
薄暗い道中とは打って変わって、規則正しく配置された燭台の灯が空間全体を眩しいほどに照らしている。地面には溝渠が掘られた石材が敷き詰められると、その溝を持て余して流れる細い水流が、かつてこの場所が水路として利用されていたことを想起させる。
「寒っ! 湿気で小っちゃな雲まで浮かんでるし。ていうか、下水路の奥ってこんなに明るかったんだ」
「正確には、まだ奥ではないんじゃがの」
「どゆこと?」
「あれを見てみぃ」
オビクに促されるままに、マキナはその指先が示す方向を見る。
すると、そこには周囲の壁とは明らかに材質の異なる壁が一面だけ存在していた。
「何か別の壁が嵌め込まれてるような……?」
「そうじゃ。あれは『退魔石』と言うての、高密度の構造体から成る鉱物じゃ。その硬度から、細かい加工は難しいとされている。しかし、強度は抜群であり、魔力への耐性も高い。それが路を塞いでおるゆえ、今はこの場所が下水路の最奥になってしまっておる」
「頑張ったら壊せたりしないの?」
「不可能ではないが、削岩の際の衝撃や音で確実に帝国兵に気取られるじゃろうな。ちまちまと削れるような代物でもないゆえ」
「だよね。それができるなら、今頃あたしたちは外の世界だろうし」
予想通りの答えが返ってくると、マキナは諦めて本題へと移る。
「それで? ここでする仕事って?」
「それはの……」
「…‥それは?」
オビクの言葉が意味深に区切られると、マキナは怪訝な面持ちになってしまう。
次いで、嫌な予感がした。
「ずばり、魔獣退治じゃ!」
「……なんて?」
聴き間違いではないかと、眉を顰めて訊き返す。
だが、
「魔獣退治」
一言一句違わぬ言葉が返ってくる。
その瞬間、即座に胸の前で腕を交差させると、象ったバツ印をオビクへと突き出した。
「却下」
「何を断る理由がある? お主が求めていた仕事じゃぞ」
「仕事は、ね。だけど、それが魔獣の退治なんて聞いてないから!」
「そんなに嫌か?」
「嫌に決まってるじゃん! だって魔獣退治だよ!? おっきな鳥だったり、強そうな狼だったり……それに気持ち悪い蠍だって見たことあるんだから!」
「どれもこれも図鑑で見ただけじゃろうに。それに心配せんでもよい。魔獣と言っても、お主に退治を依頼するのは原種じゃ。魔力量も少ないがゆえ、お主の想像するような魔獣とはほど遠い」
「口から火とか吐かない?」
「吐かない」
「岩を粉々にしたりは?」
「せん」
「鋭い爪で体を引き裂かれたりとかは?」
「それは……あるやもしれんな」
「ほらぁ!」
マキナは背筋がゾッとすると、一歩退いて喚き声を上げた。
一方、そんな彼女の様子に、オビクは深くため息を吐く。
「呆れた子じゃ。帝国兵に楯突くような娘が、今さら怖気づくような相手でもあるまいに」
「それとこれとは別なの!」
マキナは言い捨てると同時に踵を返そうとするが、間髪入れずに肩を掴まれて引き留められてしまう。
「まあ待つんじゃ」
「なに? もう騙されないよ」
「人聞きの悪いことを言う。わしは別に騙して連れてきたわけではない。それに、この仕事を紹介したのにもきちんとした理由がある」
「ホントにぃ~?」
オビクという人物とは長い付き合いであるからこそ、マキナは訝しんで警戒する。だが、こちらを見つめる眼差しが珍しく真剣なものであることに気づくと、不信感に波打っていた感情が一瞬で凪いだ。
「お主がお助け屋という仕事を始めた経緯は知っておる。店のため、ひいては店主であるタリベールのためだということは」
「……物知り好好爺なら、あたしなんかよりも知ってるでしょ? 今の楽園層での商売は『歓楽街』かそれ以外かって事。特に飲食店なんかは、歓楽街から遠ざかれば遠ざかるほど客足も遠退いていってる。うちのお店なんて歓楽街とは真反対の場所にあるから、その影響をもろに受けちゃってる。だから、あたしが別の方法でお金を稼いで、それをお店の資金に充てないといけないの」
「それはタリベールに頼まれてやっておる事なのか?」
オビクの問いに、マキナは首を横に振って否定する。
「あたしが勝手にやってるだけ」
「親孝行……いや、恩返しと言うべきか」
「どっちもでいいよ、そんなの」
いくら聞こえのいい言葉で飾っても、結果が伴わなければ意味がない。そんな心情が口を衝いてしまう。
「それで、 結局何が言いたいの?」
「マキナよ、お主は今朝の一件をどう受け止めておる?」
「今朝? ……ああ、帝国兵との事? どうって言われても……あの女性が助かって良かったなぁって」
「そうか。だが、お主は危うく殺されるところじゃった。その事をしっかりと理解しておるな?」
「それは……」
オビクの静かな迫力に気圧されると、マキナは言葉に詰まってしまう。
それでも、一滴、唾を飲み込んで。
「もし殺されてたとしても、あたしに後悔なんてなかった。あたしは自分の信念に従って助けに入ったんだから」
相手の目を見て、ハッキリと言い返す。
一度は女性を置いて逃げようとした。でも、引き返した。それは誰かに強制されたからではなく、罪悪感に苛まれたからでもない。自分の信念に準じた結果だと胸を張って言えた。
「また同じような状況になったとしても、あたしは助ける。絶対に」
「その結果、命を落とすことになってもか?」
「そうだよ。『英雄』なんてどこにもいない。だから、あたしが困ってる人を助けるの」
力強い即答。
しかし、オビクは深いため息を吐いた。
「子どもの強がりじゃな」
「なっ!? 強がりなんかじゃ──」
「では訊くが、お主、死を目前にして何も思わんかったのか?」
「それは……一瞬の事だったから憶えてない……」
「では、命が助かり、安堵することは?」
「……あったかも」
「ほれ見ぃ。その安堵こそ、お主が死への恐怖を抱いている何よりの証拠じゃ」
「そんなの当たり前じゃん! あたしだって死にたくないもん!」
「だが、お主は誰かを助けるためであれば、『最悪、自分は死んでもいい』と考えておるんじゃろう?」
「……うん」
「ならば、あらためてわしの口から問おう。今度似たような状況に陥ったとして、お主は自らの信念を貫くために、再び命を懸けることはできるか?」
「……意地悪」
オビクの捲し立てるような理詰めに追い詰められると、マキナはボソッと悪態を吐き捨てることしかできなかった。
困っている誰かを助けたいという想いは嘘ではない。言葉だけを掲げるのではなく、実際に行動に起こしてそれを証明して今日まで生きてきた。今朝の一件も、その確固たる想いから来る行動だった。だが、死を目前にして、オビクの問いに対して即答することは叶わない。
マキナが俯いて泣きそうになっていると、オビクは諭すような口調で話し出す。
「よいか、マキナよ。確かに己の命を懸けてでも成すべき事はあるやもしれん。しかし、それは命以外のすべてを懸け終えてからの話じゃ。今のお主は、すべてを懸ける以前に率先して自らの命を差し出しておる」
「あたしだって命なんか懸けたくない。だけど、あたしはそれ以外に何も持ってない!」
「そう、お主は何も持たぬ無力な子どもじゃ。だからこそ、お主に魔獣退治を宛がった理由へと繋がる」
年季の入った手がマキナの肩に置かれると、何も心配はいらないと伝えてくる。
その温もりに顔を上げると、そこにはしわくちゃの笑みを向けてくるオビクの顔があった。
マキナは初めて、その老人を心の底から信用して縋る。
「オビク……あたしは何をすればいいの?」
「お主は術を持たねばならん。多くの場合に際して、生きて、命を懸けんでもいいようにするための術を」
「術?」
マキナが問うと、オビクは深く頷いた。
そして、彼は続けて言った。
「剣でも槍でもない。武器などいらん、己が身一つで成せる術。それは……」
「それは?」
「『魔術』じゃ!」
「……は?」
目の端に零れそうになっていた涙が、急速に枯れていく。
オビクの言葉を頭の中で反芻すると、マキナは再び声を漏らした。
「は?」