1-1 終わりの楽園層(2)
「ところでさ──」
帝国兵の追跡から逃げながら、マキナは女性の右腕にある腕章を一瞥する。
腕章には紺青色の下地に白い線で七つの星印が描かれていた。
「その腕章って『スターダストカンパニー』の社員のだよね? この時間って仕事してるんじゃないの?」
「抜け出してきたのよ」
「どうして?」
「攫われそうになったから」
「攫われる? 帝国兵にってことだよね?」
「……そうね。今は帝国兵に攫われそうになってる」
「?」
どこか含みのある言い方に、マキナは方眉を吊り上げる。
しかし、その事を詳しく追求する時間はないようで、二人の背後から男の大声が路地を突き抜けた。
「いたぞ!」
一○○メートル後方、そこには帝国兵の姿があった。
「まっずい!」
「下水路までの距離は?」
「この路地を抜けて、それから……──!?」
脳内で下水路までの道順を描いていると、路地の先から別の帝国兵が姿を現す。
その姿を見た瞬間、マキナは咄嗟に踵でブレーキを踏むと、即座に進行方向を転換して左に曲がった。
「やばいやばいやばい!」
「ね、ねえ! 本当に下水路までの道順は分かってるの?」
「今ので分からなくなっちゃった!」
「えっ!?」
予定していた道順を外れると、マキナの脳内地図はぐちゃぐちゃな線を描いて機能しなくなってしまう。走っても走っても似たような建物の外観が続くと、もはや自分たちがどこを走っているのかも定かではなくなっていた。
何か目印になるものを探して空を見上げるも、背の高い建物が滅多にない楽園層で目印になり得るものは、現在地点からでは大通りの真上にある巨大な天光石だけだった。
その結果、導き出した答えは──、
「多分こっち!」
天光石の位置から方位を逆算する術など身に付けておらず、マキナは根拠のない指針のままに舵を切る。
それを幾度と繰り返すと、やがて二人は一際暗い路地の入口へと辿り着いた。
「もしかして、適当に進んでた?」
「うっ!? ……きっとこっちだから! 下水路近くの路地もこれくらい暗いし」
「自信は?」
「……ないかも」
マキナは消え入りそうな声で正直に白状する。
いずれにせよ、二人に引き返すという選択肢は残されていない。途中から一本道を行っていたため、帝国兵がこちらを見失う道理がなかった。
「とにかく、もう逃げ道はこの先にしかないから!」
「この道が下水路に続いていると信じるしかないってことね……」
意を決したことで、二人は暗い路地へと侵入する。
その時、路地を吹き抜ける冷たい風に運ばれて、背後から嫌な響きが小さく聞こえてきた。
「【忽──」
刹那、マキナは女性の体を抱き寄せると、突っ伏すように地面へと飛び伏せる。
そして、
「──焔】」
轟ッ!! と。炎の塊が二人の頭上を通過する。
その炎は煉瓦造りの建物の外壁にぶつかると、その一部を粉々に打ち砕いて破裂するのだった。
「今のって……『魔法』だよね?」
「立って! 早く逃げないと!」
「ま、魔法! 魔法使ってきた!!」
「 相手は軍人なんだから、魔法なんて使えて当然でしょ! ほら、自分の足でちゃんと立って!!」
「う、うん」
マキナは女性の一喝する声にピシャリと頬を打たれると、ようやく自らの足で地面に立ち上がる。
それから、二人は数十秒の間走り続けた。しかし、一本道の路地を何度曲がっても下水路への入口は現れなかった。
見覚えのない風景だけが続くと、マキナはこのまま下水路に辿り着けないのではないかと不安に陥ってしまう。そして、その先にある最悪の結末を考えると、次第に冷や汗が止まらなくなっていた。
そんな彼女の異変に気づいたのか、女性が徐に口を開く。
「私が時間を稼ぐから、あなたは一人で逃げて」
「え? ダメだよ! そんな見捨てるような真似──」
「元々は私だけが追われていた、そこに戻るだけよ。それに、あなたは私を見捨てなかった。大通りで助けを求めた時、あなただけが手を差し伸べてくれた。それだけで十分よ」
「そんな……でも……」
マキナは言葉に詰まってしまう。
自分から関わった以上、中途半端に放棄したくはなかった。ましてや、生死に関わる状況で。だが、女性の言葉に心が楽になったこともまた真実だった。
マキナが決めあぐねていると、その背中を強く押される。
「行って! 早く!!」
「──っ!!」
マキナは泣きそうな表情になると、唇をキュッと結んで涙を堪える。そして、背を押されるがままに走り出した。
(ごめん! ……ごめんなさい!!)
突き当たりを曲がり、暗い路地を走り続ける。
(あたし……ずっと弱いままだ……)
もはや背後に他者の気配を感じることはなく、自然と走る速度も遅くなっていった。
やがて、その足は止まる。
静寂の中、マキナの荒々しい呼吸音だけが路地を満たしていた。
「……ホントにこれでよかったの?」
助けるはずが逆に助けられてしまった。それだけではなく、女性を残して自分だけが助かろうとしている。これでは王都襲撃と何も変わらない。
過去を顧みてなお、昔と変わらない自分が現在を生きていた。
「違う! こんなんじゃダメだ!!」
困っている誰かを助けたいという強い念いも、お助け屋として他人のために働くことも。そのすべてが王都が蹂躙されたあの日から始まっていた。唯一無二の『英雄』ではなく、誰かの希望に──英雄になるためにマキナは今を生きると決めていた。
「あたしは誰かの英雄になるって決めたんだから!」
己の信念に突き動かされて、もと来た道を引き返す。
暗い路地が徐々に明るくなると、何度も曲がり角を曲がって女性と別れた場所へと舞い戻った。
「──っ!?」
そこでマキナが見たのは、地面に倒れたまま動かない女性の姿だった。
彼女を取り囲むようにして佇む三人の帝国兵たちは、マキナが姿を現すと一斉にその視線を新たな敵へと向けた。
「あれも逃亡者か?」
「いや、逃亡者は一人だけだ。この女が大通りで小娘と合流しているところを目撃した」
「それがあの娘か。事情を知っているようには見えないが……」
「ああ。大通りでの様子から察するに、完全に初対面だろう。ただのお節介な小娘だ」
帝国兵たちは淡々と会話を繰り広げる。まるで、マキナの存在など些細な事に過ぎないかのように。
そのような彼らを前にして、マキナには恐怖よりも先に怒りが湧き上がってくる。だが、それは自分の存在を蔑ろにされたと感じたからではない。
「……やり過ぎなんじゃないの」
地面に伏す女性の体。素肌が垣間見える箇所には漏れなく暴行の痕が刻まれていた。そんな彼女を無視して、帝国兵たちは日常会話でもするかのような振る舞いを止めようとしない。その態度がより一層、マキナの怒りに拍車を掛ける。
「何か言ったか?」
「その女性が何をしたのかは知らない。だけど、そこまでする必要があるのかって言ったの!」
マキナは帝国兵たちを睨みつけて言う。
すると、彼らは互いに顔を見合わせた後、一人がマキナに向き直って口を開いた。
「何も知らないのなら、これ以上は関わらないことだな。楽園層で俺たち帝国兵に逆らうとどうなるか、まだ子どものお前でもその意味を知っているはずだ」
フルフェイスのヘルムの隙間、その奥に見える眉根に皺が寄る。
それでも、マキナは怯むことなく言い返す。
「同じイギリカ人の仲間として、その女性のことを放ってなんかおけない」
「仲間、か」
スッ──と。マキナの眼前に、槍の矛先が持ち上がった。
「一度は見捨てただろうに。子どもの蛮勇を大目に見るほど、俺は優しくはないぞ」
「よせ、まだ子どもだ。それにもう標的は確保した。これ以上の長居は無用だ」
別の帝国兵が止めに入る。
しかし、その制止を無視して、矛先はマキナの鼻先に触れるか否かの距離にまで近づいた。
「確かに子どもだ。だが、イギリカ人だ。一人くらい殺しても問題はない」
「冗談はやめてくれ。相手は子どもだぞ!?」
「いや──」
静観していた三人目の帝国兵が口を開く。
「その娘はここで消しておこう。見逃して大人たちに触れ回られる方が面倒だ」
「おいおい、お前も何言って──」
「心配するな。誰にもバレなければ問題ない」
そう言うと、槍を構える帝国兵の手元がわずかに動く。
その振動が矛先にまで伝わると同時に、マキナは槍が完全に動き出すその前に柄を掴んで制止させた。
「そうやって帝国は簡単にイギリカ人を殺す! 八年前もそうだった……王都にいたイギリカ人を何人も殺した!! あたしの目の前で何人も……何人も!!」
石畳の道を無限に染める真っ赤な鮮血。悲哀を表情に湛えたまま閉じることのない双眸。魔空戦艇の砲撃によって、砂城のごとく崩れ去っていったいくつもの人影たち。それらすべての光景が、八年経った今でもマキナの記憶にこびり付いて消えないでいた。
「ハァ~……これだからイギリカ人は」
大きなため息の後、槍を構えたままの帝国兵が呆れたように首を左右に振る。
「敗戦から八年経ってもなお、英雄信仰に毒されたままのようだな。お前たちの崇拝する英雄など、どこにも存在しないというのに」
「崇拝する『英雄』? 生憎だけど、あたしは英雄信仰なんてどうでもいいと思ってる。それに『英雄』がいないことなんて、とっくの昔にもう知ってる。だから、あたしが英雄になるんだ。困っている誰かの英雄に!」
マキナが言い終えると、場には沈黙が訪れた。
その中で帝国兵たちは互いに顔を見遣ると、数瞬後にはヘルムを突き抜けて嘲笑する声が路地に響いた。
「そうかそうか。小娘、お前が英雄になるか」
「ふふっ……ふっ、ふはは!」
「やはり、教育は大事だな……ククっ」
「馬鹿にしないで!」
マキナは槍を払い除けると、嘲笑の声に怒声を以って対抗する。
その瞬間、いつまでも続くかのように思われた嘲る声がピタリと止まった。
「おい、これは有形力の行使による反抗ということで構わないな?」
「……仕方ないか。子どもだし、自首もしてきたから甘く見ようとは思ってたんだけどな」
「決まりだ」
「え? 急にどうし──」
突然、態度を一変させる帝国兵たちに面食らうマキナだったが、すでに行動は起こされた後だった。
彼女の目の前には払い除けたはずの槍の矛先が、鋭い風切り音を伴って迫っていた。
(あれ? あたし、ここで死ぬの……?)
迫りくる矛先を点で捉えながら、マキナは無限にも思える時間の中で反射的に瞼を閉じてしまう。人生で二度目の走馬灯が訪れることを予期して。
だが──、
「……っ?」
いつまで経っても、その時は訪れなかった。
マキナは恐る恐る目を開く。
「まだ生きてる……」
顔中をペタペタと触り尽くした後、安堵して全身の力が抜け落ちると地面へとへたり込んでしまう。そして、槍の行方を知ろうと顔だけを上げた時、ようやく自分と帝国兵との間に割って入る何者かの存在に気づく。
「英……雄……」
思わず言葉が口を衝いてしまう。
その男は槍の柄を片手で掴むと、それだけで帝国兵の動きを制止させていた。
金色の長髪をわずかに翻して、男は苦笑気味に言う。
「俺が『英雄』だって? 残念だけど、俺は脇役だよ」