【短編】好きっていって、いってみたい
桜咲く新学期。
それは教室で二人、昼食を終えた後の事だった。
「優ちゃんはさ……」
「んー?」
「好き。って、誰かに伝えた事ある?」
「ぶふーっ!!」
咥えていたストローを噛み潰し、紙パックの中に残っていたいちごミルクが制服の上に雫を作る。
幼馴染の思わぬ一言に私はこれでもかと取り乱し、教室の中をざわざわと騒がせてしまった。
「優ちゃん大丈夫!?」
「だ、大丈夫……ちょっと洗ってくる。とりあえず櫻子、あんたもついて来て」
「え? あ、うん。……え??」
動揺する幼馴染、櫻子の手を引いて私は教室を後にする。
指先が触れた時、彼女の顔が真っ赤に染まっているのが目に入った。
人前で恥をかいた私より何を赤面する事があるのか。と私は不思議に思っていたが、彼女が真っ赤な理由を知るのは、そう遠くない未来の事であった。
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窓から差し込む陽の光が、空を舞う桜の花びらによって多彩な模様を描き出す。
春の訪れを目と鼻で感じながら、私は手洗い場で制服に染みついた甘い香りと格闘していた。
「……で櫻子、さっきのは何なの。いきなり過ぎて今日のいちごミルク、ほとんど零しちゃったじゃない」
「ごめん……後で買って来るね。じゃなくて。その、優ちゃんは……だから……」
もじもじと恥ずかしそうに視線を逸らす櫻子を見て、じれったいと思いながら教室での出来事を思い出す。彼女が言っていたのは確か……。
「誰にも好きなんて、伝えた事ないよ」
「え。……ほんとに?」
「ないったらない。だからいつものように私を頼ろうとしたって、今度はそうはいかないよ」
なんとなく察しがついた。この子、恋してる。
あの真っ赤な顔も、視線の定まらない瞳も、たどたどしく震える唇も。
ずっと誰かの事を考えて、必死に何かを伝えようとしているんだ。
そんな彼女を見ていると、いつも以上にいじらしくて、愛おしくて。
「ねぇ櫻子」
だから私は、またつい手を差し伸べてしまう。
「私に好きって言ってみて。私が、練習相手になってあげるから」
私だって家族や友達に愛情を伝えた事はある。
でも今の櫻子みたいな感情は、まだ誰にも抱いた事なんてない。
だからその感情を知ってみたくなった。
大切な親友である櫻子がどんな思いを募らせ、そしてこの私に相談して来たのか。
突拍子のない提案を投げかけられた櫻子は、口をぱくぱくとさせて驚きを隠せないでいた。
しかし数秒後こくりと頷くと、小さな声で分かったと答えていた。
「優ちゃん」
ごくりと、妙な臨場感に息を飲む。
「好き……です」
桜のように頬を染めながら、櫻子は精一杯の笑顔で愛を伝える。
ほんのりと湿った瞳が、日差しに輝きながらじっと私を見つめて来る。
恥ずかしくて今にも泣き出しそうなくせに、それでもちゃんと気持ちを伝えようとして、私の瞳を逸らさずに見つめ続ける。
そんな彼女の笑顔に、目が離せなくなる。
「い、良いんじゃないか? うん、悪くない悪くない……」
先に根負けしたのは私の方だった。
適当な反応をして、櫻子から顔を逸らす。
これ以上見続けると、私の方が赤面しそうだった。
いや、既にもう真っ赤になってしまっているのだろう。
でなければ、わざわざ表情が見えないように顔を逸らしなんてしていない。
この子、いつからこんなに乙女に育っていた?
困った事があればすぐ優ちゃん優ちゃんと頼って来ていたはずなのに、私が知らないうちに、ずっと先に大人へなろうとしている気がして、複雑な感情を抱いてしまった。
「優ちゃん、い、良いの? ダメなの? どっちなの?」
私が曖昧な返答をしたせいで、櫻子も今の告白が良かったのか悪かったのか掴めないでいるようだ。
かといってこっちが赤面したなんて言えるはずもなく、もちろん悪い訳なんて微塵もなく。
本気の告白を見せられた私は、自分が告白したように慌てふためいていた。
「だから悪くないって、そう言った」
「分からないよ……じゃあもう一回言うから、もう一回答えて?」
「えぇ……っ!? い、いや、今日はもうおしまいだ! これは練習、そう、練習なんだから、次はまた明日。一日一回、最大限のやつを、だ……!!」
あわあわと両手を振り回しながら、私は何とか人差し指を上げ一度だけのジェスチャーを取った。
こんな告白を、一日にそう何回も受けてたまるか。
親友の本気の思いを何度も受け取っては、昼休みが終わる頃には頭の先までのぼせ上がってしまう。
だがいつもの調子で手伝うと言った手前、彼女の決心がつくまでは彼女の力にはなってあげたい。
だからその落としどころとして、私は一日一回だけと提案した。
櫻子も了承したのか、言いかけた口をつぐみじっと私を見つめていた。
またしてもお互いに照れてしまい、無言の時間がしばらく続く。
「そうだ優ちゃん。飲み物、買い直しに行こっか」
今度は櫻子の方が耐えられなくなったのか、沈黙を破るように私の手を握り、そのまま自販機へと連れ去った。
触れた櫻子の手が、いつも以上に熱くて柔らかく伝わる。
先を歩く櫻子とは目が合わない。
だけど触れた彼女の指先から、私が彼女に抱いた感情を見つけていた。
(ああ、そうか……)
悪くないと感じたのは、櫻子の告白ではなく、私の心境なのかも知れない。
彼女の好きという言葉が、彼女から向けられた愛情が、私はたまらなく心地良いと思ってしまった。
教室に戻ってから予鈴が響くまでの間、私と櫻子は一言も話せなかった。
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いちごミルクは今日も甘ったるい。だけどその中にあるほんのりとした甘酸っぱさがアクセントになっていて、ついついクセになる味で好きだったのに、今日のいちごミルクはただただ甘ったるい味しか感じない。
けれども昨日の今日で味が変わる事なんてそうそうないだろう。
変わってしまったのは、どう考えても私のほうだった。
「好き。って、誰かに伝えた事ある?」
彼女の言葉が、今日になってもずっと頭の中で反響している。
ない。ないよ。私にはそんな経験、一度だってない。
「好き……です」
だからその言葉をどう咀嚼すべきかなんて、今の私には分からない。櫻子が見せた初めての顔になんて反応したらいいのか、今日になっても分からない。
私よりほんのちょっぴり背が高くて、私よりずっと引っ込み思案で。小さい頃からずっと一緒だった幼馴染なのに、今だって同じ机を挟んで昼食を終えたばかりなのに、昨日から一度も目が合わない。
いつだって鮮明に思い出せるはずの彼女が、今どんな表情をしているのかぼやけて見えないなんて。そんな恥ずかしい事があってたまるか。
「……櫻子!」
「う、うんっ!」
「今日もやるぞ!!」
せっかくこんな事でまで私を頼ってくれているのに、彼女の思いへこたえられなくてどうする。
うろたえて恥ずかしいからなんて、だから今回は頼られても困るなんて、それこそ逆に櫻子の知っている私じゃないだろう。
だから私は、彼女の思いにこたえる。今日だって次だって、その次だって。今までそうして来たように、今回だってそうしてやる。
何度だって彼女の好きを受けて、悶えて、受け止めて。練習だと分かっていても、櫻子から向けられる愛情は、いつだって心地良くて仕方がなかった。
あぁ、こんな幸せで甘ったるい日々がずっと続いてほしい。そんな独りよがりな考えが心の奥底から溢れようとしてしまう。
だけどそれだっていいじゃないか。練習に付き合っている見返りと思えば、その間くらいは噛み締めたって。
でもそれが私にとって苦しい時間になっていると気づくのは、そう遠くない未来の事であった。
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練習相手になると言ってから、一ヶ月近くが経とうとしていた。
告白を受けるのは毎日昼食後、人目のない場所で、一度だけ。
「優ちゃん、好きだよ」
「うん……」
「優ちゃん大好き」
「おう……」
「優ちゃん。優ちゃん。優ちゃん」
土日を除いて、櫻子は私と毎日告白の練習をやっていた。
日を重ねるたび、櫻子はどんどん可愛くなっていく。
私は後どれだけドキドキしてしまえばいいのだろう。
両手で数えられないほど好きと言われて、両手で覆えないほど顔は真っ赤に染まってしまう。
「優ちゃんってば」
「え。ああ、そうだ。今日はこれからだったな……」
最初は私からやるぞと手を引いていたのに、今ではすっかり彼女から声を掛ける立場となっていた。
私は未だになれないのに、彼女はもう、伝える事に躊躇いがなくなっているようだ。
教室を出て、廊下を歩いて、いつもの空き教室の裏に行く。
廊下から見えた桜の木はもう、すっかり来年へ向けて準備を始めているみたいだ。
私達はいつまで今みたいな関係を続けるのだろう。
櫻子の好きな相手は知らないし、無理に聞き出すつもりもない。
でも、いつまでも練習中って訳にはいかない。
「櫻子」
「ん、なぁに?」
「練習、今日で最後にしよう」
振り返った櫻子の顔が、一瞬にして曇る。
「迷惑……だった?」
「そんな訳ない。でも、もう一ヶ月近くも練習したんだよ。だったらさ、そろそろ言ってあげなよ。その人もきっと、待ってるんじゃないかな」
私へ向けられる愛情は、本来別の誰かの為のものであるはずなんだ。
これ以上私へ向けられても、私はもう我慢出来ない。
告白のない土日が、どれだけ心足りなかったか。
季節が移ろうとするたび、櫻子のいない時間がどれだけ苦しくなったか。
四月が終われば、これから土日なんかよりずっと長い連休に入ってしまう。
その間私は、どれだけ自分の気持ちを抑え込まなきゃいけないんだ。
四六時中彼女の事ばかり考えているのに、他の事なんて手が付くはずもない。
櫻子の笑顔が、愛情が、ずっと側で感じられるのは、学校にいる間だけなんだから。
ああ、そうか。
私、櫻子の事が大好きなんだ。
自分の気持ちに気付いた時、決心がついた。
私達は幼馴染で親友で、一生に一人出会えるか分からない大切な存在。
だから。だから彼女の力になる事こそが、私の出来る精一杯の愛情なんだって、私は私に言い聞かせる。
「櫻子、最後の練習をしよう。とびっきりの好きを、言ってあげる練習を」
そして、終わりにする。
家族や友達に抱く愛情とは別の気持ちを、胸の奥へしまうために。
「優ちゃん……」
櫻子はしゅんとした様子で、それでも私の気持ちを理解してくれたのか、目は逸らさないでいてくれた。
だから私も、彼女の精一杯を受け止める。
「優ちゃん、大好きだよ」
櫻子の笑顔が、瞳の奥へ焼きついた。
桜のような頬も、先の先まで真っ赤な耳も、今にも泣き出しそうなうるうるとした瞳も。
彼女の持つ魅力の全てが、今私の前で咲いている。でもこれから彼女は、誰かのものになってしまう。
昔っからずっと一緒に居て、困った時はいつも優ちゃん優ちゃんって頼って来て、いつでも私にべったりだった櫻子が、私の手から離れてしまう。
嫌だ。行くなって言いたい。誰のものにもなるなって手を引きたい。でも、それは私の身勝手だ。そんな事は分かっている。分かっていても、我慢なんて出来ないよ。
「櫻子」
私もあなたと同じ感情を、知ってしまったから。
「私も大好き」
言った。言ってしまった。
戸惑う櫻子の姿が目に入った。そりゃそうだ。告白の練習なのに、私が返事をしてどうする。
でも、それでも言いたかった。私も好きって言ってみたかった。
これで私の、最初の好きは終わりなんだから。
心からの愛情を伝えると、不思議と気持ちが楽になった。
こんな気持ちを櫻子はずっと抱えていたなんて、思いもしなかった。
この一ヶ月、彼女はどんな思いで過ごして来たのだろう。
本心からの気持ちを伝えられなかった彼女は、私を相手にしてどう思っていたのだろう。
練習相手になるなんて、軽々しく言うもんじゃ無かったのかもしれない。
きっとそれは、彼女に頼られたいっていう私のわがまま。依存していたのは櫻子じゃなくて、私の方だったんだ。
最後の練習を終えた櫻子は、今にも泣き出しそうだった。
私のわがままに付き合わせて、彼女の好きって気持ちは大きくなるばかりで。
「ごめん、何でもない」
つい漏れてしまった本音を、私は笑いながら誤魔化した。
私からの気持ちなんて、これからの彼女には邪魔になってしまうだろうから。
だからこれからは親友として、彼女の側に居てあげたい。
彼女の恋が叶うのかは分からない。けど、これだけ真っ直ぐで純真で、素敵な愛情を伝えられる櫻子なら、いつかきっと大切な相手と結ばれるだろう。
だから私は応援する。櫻子という、一人の女の子を。
「ねぇ櫻子。練習、役に立った?」
「うん、もちろんだよ。やっと私の気持ち、伝えられるから」
櫻子は、とびっきりの笑顔を咲かせていた。