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最終話

 不思議だった。

 まるで、死んだ典子が生きている典子の口を借りて喋っているようなそんな気持ちになってしまった。しばらく呆然とした表情で彼女を見つめる。そんな彼にちょっと不安になったのか、典子は恐る恐る言った。

「すみません。なんか生意気なこと言っちゃって。でも、ほら、ゲクトさん、ファンのみんなによく言ってるでしょ。笑顔が一番だよって。僕は皆の笑顔を守るために歌ってるよって。そんなゲクトさんが辛そうな顔してたらダメじゃないですか。笑顔が一番って言うのなら、まず自分が一番いい笑顔を皆に見せなくちゃ、ね?」

 そうして、典子はにっこり笑った。それはそれは極上の笑顔だとゲクトは思った。

 そう思った瞬間、もう我慢できなかった。ゲクトはソファの隣に座っていた典子の身体を自分に引き寄せて抱きしめた。

「あ」

「頼む、しばらくこのままでいてくれないか」

 典子の温かい身体を感じていた。

 自分の癒えない傷を今の言葉で一瞬に癒してしまったこの人を誰にも渡したくないと思ってしまった。この人を自分の物にしたい、と。

 だが、わかっている。この身体は自分の物じゃない。この人の心も。たった今自分に向けてくれた笑顔でさえも。他の男の物。自分の物にすることは出来ない。だが、もし、彼女が望んでくれたら?

 その時は、たとえ人の物であろうが自分は奪ってしまうだろう。彼女さえ望んでくれれば。

「君を愛してしまった」

「ゲクト、さ…」

「愛してる」

「だって、私は人妻で…それに、きっと貴方はPVの典子さんと同じ名前の私だからそんな錯覚になって…」

「違う!」

 確かに最初は同じ名前である彼女に興味を持った。けれど、それはただのきっかけに過ぎない。人を愛するようになるのにはいろいろな要素がある。その人の言動とか、考えとか、生き方とか、しぐさとか、声とか、様々なことが。

 そして、彼女は一番欲しかった言葉をくれた。誰もくれなかった言葉を。愛さないはずがないじゃないか。

「君はたった今、僕が欲しいって思ってた言葉をくれた。死んだ典子に言ってもらいたかった言葉を。けれど、それだけじゃない。君の全てが好ましい」

「そんな…嘘…」

「嘘じゃない!」

 ゲクトの強い言葉に押し黙ってしまう典子。そんな彼女を強く抱きしめる。

「それに僕は君のような人が好きなんだ。僕がついてなくちゃダメっていうそんな人が」

「迷惑ばっかりかけるのにね」

「好きな人にかけられる迷惑までも愛しいと思うものなんだよ」

「そんなものかなあ。信じられない」

「そんな男もいるってことだよ。たぶん、君の旦那も…」

 言いかけて、ふいに黙ると、ゲクトは抱きしめていた彼女の身体を解放した。そして、真剣な眼差しで言った。

「ねえ。典子は僕を愛せない?」

「好きよ。ゲクトさんのことは大好き。でも愛とかそういうのは…」

「旦那と僕とではやっぱり僕が負けてるってことか」

 意気消沈する彼に、典子は言った。

「勝つとか負けるとか、そういうのとは違うんだけど。そりゃ、ゲクトさんに愛の告白されるなんて夢みたいだと思うけれど、私は既に旦那と結婚してるわけだし。同じくらい好きだとしたら、そりゃ既に結婚してる旦那を選ぶしかないと思うもの。少しでもゲクトさんの方に気持ちが傾いてれば、離婚っていうことも考えるけれど、どう考えても私の中では同じにしか見れない。そういう気持ちってわかるかなあ?」

「………」

 正直言うと全くわからないと思ったゲクトだった。結局は、自分は彼女にとって特別の存在にはなれないということだ。矢張り好きな女には特別に思ってもらいたいと思うものだとゲクトは思ったから。

(俺のこの想いは届かない)

 そして、あくる日、典子は言った。「うちに帰ります」と。

 このまま引き止めたい。引き止めなければとなぜか思ってしまった。いつか自分は「引き止めない」ことで激しく後悔してしまうかもしれない。けれど、そんなみっともないことはできないと、精一杯の強がりで答えた。「元気で」と。だが、心の中では叫んでいた。「行かないで」と。「俺の傍にいて」と。

「えっと、今まで本当にありがとうでした」

「何かあったら電話しろよ」

「うん、ありがとう。でも、迷惑かけたくないし」

「だからー迷惑かけられたいんだよっ」

 そう怒鳴るゲクトに、彼女は困ったような笑顔を見せた。

「この眼鏡、大事にするね。私の宝物だよ」

 そう言って目いっぱい幸せそうな笑顔を見せてから、彼女は故郷に戻っていった。


 あれから何年か時が過ぎた。時々、彼女とは互いの誕生日にメール交換をするくらいで直接に逢うことはなかった。

 ゲクトは彼女を忘れたことはなかったが、それでも何人かの女性と愛を語り合うこともあったし、その中では辛い別れをした人もいた。

「私たち別れましょう」

「そうか…」

 とある夏の夜。車の中で一つの恋愛が終わった。女は車から降りると空に月がかかる夜の中に消えていった。

 ゲクトは煙草に火をつけると煙をふーっと吐く。

 辛くはなかった。またいつものことだと自嘲気味に笑っただけだった。それから目を閉じる。すると、いつの間にやら彼は眠ってしまったらしい。夢に典子が出てきた。

 こける彼女を抱きとめたり、料理で失敗する彼女を笑って見てたり、まるでつい昨日のことのように思えるそんな楽しい夢。すると、夢の中の典子がこちらを見つめて言った。一番彼女に言って欲しかったその言葉を。にっこり笑って。

「ゲクトさん、愛してる」

 ゲクトは寝ながら微笑んでいた。その微笑んだ彼の閉じられた目からは一筋の涙が流れた。それを見つめているのは夜空にかかる月だけだった。

 その後、ゲクトはその時の気持ちを歌にした。タイトルは「声ガ枯レルマデ君ノ名ヲ叫ビ続ケタ…」


君の名前を心で繰り返し繰り返し叫び続け

君の名前を声が枯れるまで叫び続けた


いつか放さなければならないとわかっていても

それでも愛さずにはいられなかった


君の特別になりたくて

君の愛を独占したくて

君の微笑を自分の物にしたくて


愛し続けた


君を抱きしめた温もりが忘れられない

僕のこの想いは届かないとしても

それでも君を愛している


君の名前を心で繰り返し繰り返し叫び続け

君の名前を声が枯れるまで叫び続けた


いつか僕のこの想いは届くだろうか

いつか君の愛を僕の物に出来るだろうか


この空の下の何処かにいる君まで

僕の愛が届くように


君の名前を叫び続ける

僕の想いよ君へ届けと

今夜もまた君へ届けと

月だけが僕の声を聞いている

僕の想いを

僕の声を

君の名を叫んでいる僕の


君の名前を心で繰り返し繰り返し叫び続け

君の名前を声が枯れるまで叫び続けた


声ガ枯レルマデ君ノ名ヲ叫ビ続ケタ…

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