第3話
そして、奇妙な同棲生活が始まった。
彼女と同棲していることを知られてはマズイということで、彼女には一歩も外には出ないように忠告し、電話なども鳴っても決して出ないように言い渡しておく。
食事なども材料とかはマネージャーがいつも届けて整えてくれているので、さすがにマネージャーには典子の存在を正直に話しておいた。まあ、今までにも似たようなことがなかったわけじゃなかったので、またかという反応ではあったのだが。
(でも、今度は手は出せないよなあ。ちょっとつらいかも)
それから、家にある電話は決して触らないということで、彼女用の携帯電話を急遽用意し、彼女に渡した。
「僕が仕事中に何かあった場合は登録している番号に電話しておいで。それ以外の場所にも好きに電話していいから。僕の方もなるべくケータイ鳴らすから、すぐ出るんだよ」
「………」
典子は物珍しそうにケータイをいじくっていた。それを不審に思った矢先に彼女はゲクトに困った表情を見せた。
「えっと、これ、どうやって出るんですか?」
「ケータイ使ったことないの?」
「外で仕事してたわけじゃないんで必要ないから持ったことなかったんです」
思わず「天然記念物だな」と思ったゲクトであった。もちろん、そんなことは一言も言わなかったが。
それにしても、更に突っ込んだ話を聞いてみたら、彼女は何とゲクトよりも十歳は上だったのだ。とてもそうは見えなくて、びっくりしたものだったが、恐らく彼女の天然系な性格のせいなのかもしれない。
とにかく、ドジでノロマのカメが服を着て歩いているような彼女なのだ。これは相当旦那も目が離せない存在だったのではないかとゲクトは思った。
しかし、ゲクトは、こういったいろいろな意味での未開発で未発達な女を自分好みの女に変えていくのが好きな男だったので、彼女に恋してしまうのにそれほど時間はかからなかった。
とにかくよくこける典子だった。何もないところでこけては転び、何か物を取ろうとしてはおでこをぶつけ、挙句にサラダか何かを用意しようとして野菜を切っていたところを、右手で包丁を持っていたのにも関わらず右の指を切ってしまうという不思議なことまでしてしまう始末。何時だったかは、レンジでゆで卵を温めようとして爆発させてしまうし、とにかくハラハラし通しで目が離せない。しょうがないなあと思いつつも、それをそんなに嫌だとは思わなかった。むしろ、次に何をやらかしてくれるのだろうと楽しみにしている自分に気付いて思わず苦笑してしまったものだった。そして、更に決定的な出来事が、彼女の存在を強く彼の心に刻み付けることとなる。
ある日の朝のこと、キッチンで何やらゴソゴソと典子がやっている。どうやらホットケーキを焼こうとしていたらしい。
「なんで? なんでよおぉぉぉぉー」
寝ぼけた顔で寝室から出てきたゲクトは、まるで牛のようにもーもーと吠えている典子を見て「どうしたの?」と声をかけた。
すると、彼女は涙目になって振り返る。
「だってー固まらないんだもん」
「………」
ぼーっとした表情で彼はプーッと怒っている彼女の顔を見つめた。これが自分よりも十歳も上なのか。とてもそうは見えないよなあと思いつつ、彼は彼女の手元に目をやった。
フライパンに白い液状なものが見える。どうやら牛乳らしい。見ると材料に簡単にできるホットケーキの素と牛乳のパックが置かれていた。
「ホットケーキ好きなのよね。で、食べたいなあと思って、食料棚をごそごそしてたらホットケーキの素があったの。冷蔵庫には牛乳もあるし、で、箱に書いてある通りに作ってみようとしたの。でもね、なんでか固まらないのよー。なんでかなあ?」
彼女はそう言いつつ、ぐるぐるとフライパンの液体をかき混ぜている。
ゲクトは素の箱を手に取り、作り方のところを見てから、彼女がかき混ぜているフライパンの液体を見やり、まさかなという思いはあったものの、何気なくこう言った。
「カップ七分目って書いてあるけど、まさか七杯入れたわけじゃないよね?」
突然、彼女の動きがピタッと止まる。
「え、まさか、ホントに?」
「ど、どどど、どぉぉぉぉーしよおおおおおおお!」
典子はすごい勢いでゲクトを振り返る。その情けない表情に、もうゲクトは完全にノックアウトだった。
ダメだ。もうダメだ。楽しすぎだよ。こんな子が傍にいたら生きていくのが楽しくてしょーがなくなるだろうな───彼はすっかり彼女の魅力に取り付かれてしまっていた。
実際に典子はあまりにも突拍子もないことばかりをしたり言ったりする人で、とてもゲクトより年上には思えなかった。よくまあこれまでちゃんと生きてきたものだというくらいに何もできないし、何も知らないし、ドジばっかりしているようだ。この短い間にでも、何度となく彼女はありえないことをしでかしていたからだ。この間なんて渡した携帯に何度もかけるのにいつも切られてしまうことがあった。
「どうして切ってしまうんだよ」
「出ようと思うんですけれど間違えてボタン押してしまって…」
「じゃあ、今からケータイ鳴らすから、出てみて。ここのボタンを押すんだよ」
ゲクトは典子の手にあるケータイの電話のマークのついたボタンを指差す。典子が頷くのを見てから彼女のケータイを鳴らす。すると、一瞬ビクっとなった彼女は慌てて電源ボタンを押してかかってきた電話を切ってしまった。頭を抱えるゲクト。典子は情けなさそうな表情で彼を見る。そんな彼女に彼は「そのうち覚えられるよ」と言った。
確かに、こういうタイプの人間は、敬遠される場合もあるだろう。広い心の持ち主じゃないと受け入れられないところもあるはず。だが、もちろん、全く何もできないというわけじゃなく、ごく普通のことはちゃんとできるのだ。ただ、ちょっと複雑なことになるとこんがらがってしまうようで、誰かがちゃんとついてて采配してやればうまく行動ができるようなのだ。(とはいえ、ケータイのボタン操作くらいは簡単ではあるのだが)悪い言い方をすれば、コントロール次第ではいい女になるといったところか。しかし、矢張りそこは一個の人間ということで、何でもかんでも相手の言いなりになるわけではない。多少の反発はするわけで。だからこそ、彼女は旦那と喧嘩して家出をしてしまったのだから。
(うーん。まいったなあ。手を出したくてしかたないぞ)
彼女と暮らし始めて三日も経たないうちに、ゲクトは典子に完全に惚れてしまっていた。そうなると、手を出したくてしかたなくなる。だが、手を出すわけにはいかない。何といっても預かっているだけなのであるから。それに、彼女の方は全くゲクトに対して性的な欲求というものは起こらないらしい。時々手が触れたり、彼女がこけて倒れそうになって抱きとめたときにも、全くそんな素振りを見せなかったので、珍しくゲクトとしては自分の男としての魅力に自信喪失をしかけていたのだ。