第2話
「あの、あの、本当にすみません」
「いや、だから、そんなに謝らなくていいって」
「でも…」
あれからゲクトは彼女を、典子を、懇意にしている眼鏡ショップに連れて行った。そこで彼女に似合いそうなアルマーニのピンクフレーム眼鏡を買ってやった。何万もする眼鏡で、彼女はそんな高いものはもらえないと言っていたが、彼は百パーセント自分が悪いからと無理やりにその眼鏡を買ったのだった。その眼鏡はとても彼女に似合っていた。
「あの、私、わからなくて。あなたがあの有名なゲクトさんだったなんて。眼鏡ないとほとんど何も見えないんですよ。ただ、声が似てるなあとは思ってたんですけれど」
ゲクトは典子を自分の家に連れてきていた。お詫びに食事でもと思ったが、自分といる所を誰かに見られると彼女にも迷惑になるからと思ったからだ。しかし、彼女から思わぬことを聞かされることとなる。
家に連れてきてから、彼女はそわそわと落ち着かなかった。それは憧れの芸能人の自宅に来たからというだけではないようだった。
「えと、こんな事を言うと、頭のヘンなファンと思われるかもしれませんけれど…」
その言葉とともに語られることに、少なからずゲクトは驚きを隠せなかった。
彼女は暫くの間ここに置いてくれないかと言ってきたのだ。姿に似ずに大胆な事を言う女だと思った。どういうことだと問いかける彼に彼女はこう言った。
「私は田舎に住む主婦なんです。先日、主人と大喧嘩してしまい、家出してしまったんです」
小さなハンドバックを持っただけで家を飛び出し、東京まで来たのはよかったが、そのハンドバックを落としてしまい途方に暮れて歩いていた所をゲクトとぶつかったということだったらしい。彼女はこれも死んだ祖母のお導きに違いないと確信をしたということだ。
「霊感のあるゲクトさんなら信じてくれると思うんですけど、私、いつも死んだおばあちゃんには助けられてるんです。病気して入院して痛くて眠れない夜なんか、おばあちゃんに助けてと何度も祈ったら夢におばあちゃんが出てきてくれて、痛い場所を何度もさすってくれたんですね。そしたらピタっと痛みがなくなったりとか。今回みたいに何か困ったことがあったとしても、まるで守られてるみたいにいいことが起きたりすることもあって…」
それで、とりあえずダメもとでゲクトに頼んでみようと思ったということだった。
その話を聞いて、確かに自分には霊感があるし霊もけっこう見てきたから、彼女の話を信じないということはなかったが、それでも信じる信じないはこの際関係ないことだよなあと彼は思った。
「君の話を信じないわけじゃないけれどね、でもそれとこれとは別だよ。やっぱりちょっと問題があると思うよ。君が独身であればまだしも既婚者だしね。もっとも、独身であっても、僕の方はいいとしても、君の方は相当辛い思いをするかもしれないし」
今までにもちょっとした遊びで付き合った女がいないわけではなかった彼である。だが、そこは矢張り芸能人でもあるということで、他のファンの女たちに酷い誹謗中傷を浴びせられるような出来事がないわけではなかった。
だが、彼女は明るく答える。
「ゲクトさんのような方が、私のような田舎女を相手にするとは思っていません。貴方は紳士ですもの」
そう言って、彼女は尊敬の眼差しを彼に向ける。いや、そういう事を言いたいんじゃなくてと言おうとして、彼は彼女の目を何気なく見た。そして、思わず吹き出しかけた。しかし、ぐっと我慢をする。
彼女のその真剣な目が、まるで飼い主を信用して慕っている犬のように見えたからだ。何となく彼は彼女に好意を持った。それでも、矢張りここは彼女のご主人のためにもと思い、うちに帰るようにすすめる。
「いや、まあ、そう言ってもらえるのは嬉しいけれどね。やっぱり君はご主人の元に戻った方がいいよ。僕が帰りの旅費を出してあげるから」
「いいえ、帰りません。あんなワカランチンな彼のことなんかもう知りませんから!」
「ワ、ワカランチンって。いったい何が原因で喧嘩しちゃったの?」
「プラモデルなんです」
「プラモデル?」
「ええ、結婚前に買っていたプラモデルをね、自分の部屋ってものがなかった彼のために私の実家の物置に置いてあげてたんです。それ、ずっと忘れてたんですけれど、この間ふいに彼が思い出して、実家から持ってきてくれないかって言うんで、私、実家に帰って母に聞いたんですよ。彼のプラモデルはどこにあるかって。そしたら、随分前にいらないものだと思って燃やしてしまったと言うんですよ」
「あちゃ、それはひどい。そっか。それで彼が激怒して、それで君と喧嘩になっちゃったんだ」
「違います」
「え? 違うの?」
「全然怒らないんですよ。彼ってば。すごく大切にしてるものを燃やされたら私なんてヒステリー起こしちゃうと思うんです。ゲクトさんはそうなりません?」
「うん、そうだね。僕もすごく怒ると思うよ」
「ですよねえ。だから、もっと怒ってもいいのにってしつこく彼に言ったんですけれど、おしまいには私のしつこさに腹を立ててしまって。それで大喧嘩。で、飛びたしてきたっていうことなんです」
「…………」
正直言うと、ゲクトは何てバカバカしい話なんだろうと思ってしまった。だが、なぜかはわからないが、話していくうちに頬を膨らませて口を尖らせて不満げな口調で喋っている彼女をかわいいと思ってしまった。きっと、旦那さんに目いっぱい愛されているんだろうなあと、そんなふうにも思ってしまい、何となくその旦那に軽く嫉妬の気持ちまで持ってしまった。だから、彼は、彼女の気持ちが落ち着くまでしばらくここに置いてやるかという気持ちにまでなっていた。
「じゃあ、ちょっとの間だけだよ。気持ちが落ち着いたらちゃんとご主人の所に帰ること。いいね」
「はい、ありがとうございます。何も出来ない不束な女ですけれど、よろしくお願いします」