第1話
「ちょ、すげーし、ゲクトだし」
「マジィ?」
暑い日差しの下、黒いサングラスをかけた背の高い男は「ちっ」と舌打ちをした。
都会の街中を歩いていたゲクトだった。
「あの歌を歌ってもらいたいよねー」
「あの歌ってぇ?」
「やーねーあんた知らないの? あの話」
「何のことだよ」
「愛した女がゆーれーだったって話」
「えーまじぃぃぃ?」
いらつく──とゲクトは殺意にも似た思いを抱いた。
女子高生らしき女が二人、歩くゲクトの後ろについてヒソヒソどころか大声で叫んでいる。
今頃の女は恥じらいってもんがないのか。この女子高生たちと死んだ彼女はそれほどの年齢差はなかった。それなのにこの差はいったい何なんだ。こういう女がいることを否定するつもりはない。こんな女たちでも必要とする誰かがいないとも限らないのだから。だが、自分にはまったく必要のない女だ。自分に必要だと思うのは、思わず守ってやりたいと思うそんな女。こいつらのように眉間に縦皺なんて寄せずにいつもにこにこ笑っている笑顔の似合う、そんな女。死んだ彼女はいつも笑ってた。でもその笑顔はとても淋しそうだった。けれど、彼女の家に訪ねに行ったときに見せてもらった生前の彼女のアルバムでは、本当に天真爛漫に笑っている彼女ばかり映っていたんだ。
(それなのになんだよ、こいつらは。笑うにしてもこんなバカ笑いなんてするなよ)
ゲクトはうんざりして、後ろを振り返り「君達…」と声をかけて注意をしようとした。すると、振り返った瞬間、背中に柔らかい何かがドンとぶつかってきた。「きゃ!」という声が聞こえ、「パリン」という音と感触で彼は自分が何かを踏んづけたことを知る。
「うわっ、ごめん!」
ゲクトは慌てて振り返った。足元を見るとどうやら眼鏡を踏んだらしい。見事なまでにバラバラになってしまっている。
途方に暮れたゲクトは無意識のうちに再び振り返った。だが、そこにいるはずの女子高生たちは忽然と消えてしまっている。別に彼女らのせいにするつもりはなかったが、あの子たちに説教などしようとしなければこんなことにはならなかったのにという思いはどうしても拭えない。
それから彼は、自分とぶつかってその場に座り込んでしまっている人物に視線を向けた。
ピンクのワンピースを着た若い女性だった。眼鏡がないからか、目をパチパチさせてあたりをキョロキョロしている。
柔らかそうなカールのかかった髪が肩のところで揺れている。なかなか可愛い顔立ちの女性だ。ゲクトと同じくらいだろうか、三十代くらいか、それよりもうちょっと下か。
「えっと、君、大丈夫?」
「あ、はい…」
とりあえず眼鏡の残骸から足をどける。どうしようもない程にぐしゃぐしゃになってしまっていた。
「あの、私の眼鏡は…」
「ああ、えっと、ごめんね。僕が踏みつけてしまった」
「どうしよう、私、眼鏡がないと何も見えない…」
「ごめん、これ、たぶん直らないと思うよ。踏んで壊したのは僕だから弁償するよ」
「すみません」
「いやいや、謝るのは僕の方だから」
彼はそう言うと、彼女の手を取って立たせた。
「えっと、とりあえず名前聞かせてくれるかな」
「あ、はい。木山って言います、木山典子」
「え?」
(のり、こ?)
一瞬時が止まったかと思った。いや、時間が逆行したように彼は思った。