ふりむか……ええ!?
それから一週間が経った。そろそろ周囲もこの状態の私にも慣れてきたようで噂は収まってきた。
幾度か狩屋君に声をかけられそうになったが、その度席を立ったり、ゆるりとかわし続けている。
私なんか気にしなければ良いのに。そう思うのと同時に、気にしてくれるのが嬉しくてこの状態が続いて欲しくて、未だに狩屋君の言葉は聴けていない。聞いたらきっと、終わってしまうだろうから。
ぼんやりと彷徨うように廊下を歩いていると、不意に教室の方から大きな音がした。
ここは確か、使われていない空き教室だ。
中から聞こえた怒声に聞き覚えがあって、私は少し開いたドアの隙間に手をかけた。
「……てめぇ、何してた」
「神谷先輩!?やめ、」
「何も、してませんが」
聞こえた声に、開こうとした腕が止まる。
冷えた声は、今まで聞いたことのない種類の声だ。
こんな声も出せるのかとぼんやりと思う。
聞くべきじゃない。この修羅場に、自分は欠片も関係がない。
そう思うのに動けなかった。
「ふざけんな。お前千陽に何してんだよ。こんな人気のないとこで」
「ち、違うの、先輩!」
「……仮に何かしてたとして……先輩に関係あります?」
珍しい程苛つきを露わにした声が響く。
そうか、狩屋君は好きな人のことなら、ここまで取り乱すんだ。
穏やかな顔しか知らない私は、最初から勝ち目なんて無かった。
「狩屋くん!?」
千陽ちゃんの驚いた声、神谷先輩は軽く息を吸い、狩屋君の胸ぐらを掴んだ。
どろりと溶けたその瞳は、いつか見たものだ。
狩屋君はこちらに背を向けているため、どんな表情をしているのか伺えない。
「関係、だと?」
「そうですよ。部活のつながりも委員会の繋がりもない、単なる先輩ですよね?ここまで彼女の行動を制限できるような関係、ないでしょう」
「……ふざけるな」
ぎりぎりと噛み締めた歯の隙間から、唸るような声がする。
狩屋君が危ない。そう思うのに、やっぱり私には動くことが出来ない。割って入ることも先生を呼びに行くことも出来ない。
ただ、この劇的な光景を観客のように見ていることしか。
「……ふざけるなは、こっちの台詞だ」
低い低い声が、一瞬、誰が発したものか分からなかった。
この場面だけで、どれだけ狩屋君の別の面を見ることが出来るのか。ここにいるのは私の知らない狩屋君ばかりだ。
「……先輩、そっくりなんですよ。余裕ぶって、自分の思うように、欲しいものを手に入れられるように促して、そのくせ、自分は大して行動しない。……僕に、そっくりだ。駆け引きだとか関係なく、素直に言えばいいのに、言えば良かったのに。その場で足踏みして相手にだけ求めて、何よりも、大切な子を泣かせて。馬鹿らしい。先輩も、僕も、馬鹿だ」
神谷先輩の眉間のしわが深くなる。びりびりと殺気のような緊張感がその場を支配しているのに、狩屋君はまるで気にせず言い募る。
「くだらない理想やこだわりを捨ててでも、欲しいと思ったくせに。自分を曝け出さず、相手にだけ曝け出すように求めるなんて、傲慢もいい所だ」
「……何が言いたい」
「先輩が、目障りだって言いたいですね」
が、と鈍く重たい音が響く。
狩屋君は頰をおさえ少しよろめいて、それでも真っ直ぐ立った。
「お前も殴れ。俺が先に殴ったんだから正当防衛だ」
神谷先輩の言葉に、狩屋君は間髪入れずその腹に一撃を入れた。
ぐふ、と呻き声があがる。
「ぐ、おまえっ、性格悪いな」
「そうですか?」
その一発でお互い気が済んだのか、びりびりとした殺気のようなものは消えた。
「……お前が本気なら、俺も本気で奪うまでだ」
「最初からそうすれば良いものを」
「……なんかお前、誰かに似てるな」
「初めて言われました。誰でしょう」
「……ていうか、こんな敵に塩を送る真似して大丈夫なのか?俺に本気を出されたら困るんじゃないのか」
「……?いえ、むしろ本気でいて貰いたいですね」
「ん?自分で言うのもなんだが、俺の方が好感度は高いと思うが」
「え?まぁ沙月さんはそうでしょうね」
「ん?」
二人と私の頭上にはてなマークが浮かんだ所で、二人のやりとりを呆然と見ていた千陽ちゃんが震えだした。
「……だからっ、狩屋くんはアキちゃんのことが好きなんですってばー!!」
そうして噴火した千陽ちゃんに、その場の誰もが固まる。
「……は?アキ?誰……って川津か!?」
「ちょ……っ、さ、沙月さん!」
神谷先輩は暫く首をひねってやっと私の名前に気づいた。
慌てて振り返った狩屋君といえば、それこそ初めて見るほど赤くなって慌てていた。え、可愛い。え。
「だ……っ、だからっ、狩屋くんが私に何かするとかっ、ありえないんです!狩屋くんはアキちゃんにめろめろどっきゅんなんです!」
「いや、あの、沙月さん!?」
「めろめろどっきゅん……」
「アキちゃんが本当はどう思ってるのか、素直な言葉が知りたくて信頼して貰いたいけどどうすればいいかわからなくて袋小路に陥ってるんですよ!」
「ごめんやめてもう良いよ沙月さん!?」
「アキちゃんは小悪魔むぐっ」
「終了、終了でお願いします……」
え?
何、え?
今何、え?狩屋くんが?
狩屋くんが、私に、
「めろめろどっきゅん…………」
頭のキャパがオーバーしてそのまま言葉として零れ落ちた。
一斉に三人がこちらを見て、その目を見開く。
あはは、みんなおんなじかおしてる。あはは。
「あはは、こりゃ、失礼しました……」
女子力のかけらもない挨拶を残し、私は脇目も振らず駆け出した。
意味がわからない。
意味がわからない。
私は確かに千陽ちゃんを巡る男同士の奪い合いを出歯亀していたはずだ。
何がどうして狩屋君が私にめろめろどっきゅん。
てかそんなら狩屋君殴られた意味ないじゃん。ふざけんな神谷。あとで倍にして返したる。
頭の中がぐちゃぐちゃどろどろだ。
後頭部がもやもやして痺れる。
心臓苦しい。
そろそろ私、死ぬんじゃないか。
「ま、待って、川津さん……アキ!」
びりり、と耳に飛び込んで鼓膜を揺らす音が、私の足を止めた。
いま、かりやくんが、わたしのなまえをよんだ。
あ、死ぬ。
「え!?」
私は興奮のあまり目を回して倒れたらしい。そう言えば寝不足だった。寝不足の状態でいきなり走るなと狩屋君にまたひんやりと叱られてしまったのは余談だ。