6.僕に住む住人
そして今日も僕は公園のベンチでタバコをふかし、仕事をサボっている。
それが今ある現実の世界で、僕は僕へと戻る。どれほどの時間が過ぎたのか分からないが、体にはずっと同じ体制をしていたときような体の張りを感じている。
火をつけたばかりのはずだったタバコは、いつの間にかフィルター以外は灰になって靴の上に乗っている。タバコを挟んでいた指の隙間に感じているはしるような痛みは火傷によるものだろうか。
このタバコの灰みたいに、僕は今も独りで時間を浪費するように生きている。
よくよく思えば彼女と別れてからずっとそうしているようにも思える。実際そう言い切れないのは認めてしまうのが怖いからなのかもしれない。歳をとったと人が感じるのは、昔を振り返ることが多くなったことに気付くときだと誰かが言っていた。僕は歳をとったのかもしれない。でもこの平行世界のように振り返る過去は少しも過去になってはいない。
それでもやはり、この目に映る現実は今も確実に時を刻む。
公園の入り口から子供づれの女性が遊具のほうへ歩いていく。子供は遊具を目にするとそのおそらく母親である女性の手を振り解き、一目散にブランコに飛び乗った。垂れ下がる鎖を掴んだ両手でバランスをとり、両足の振りで上手に勢いをつけてブランコを漕いでいる。その揺れに身を任せながら風を感じているその顔は何より嬉しそうだ。僕は子供が好きじゃないけれど、子供のような大人を見ているのよりはずっと気が楽だ。ただ子供が飽きるまでじっとそこに付いていなくてはならない親は大変だなと思った。
しばらくどこを見るということもなくブランコに乗る子供のほうを向いていると、母親らしい女性の視線を感じた。僕がそちらを向くと女性は険しい表情でこちらを睨んでいる。僕は一瞬、会ったことがある人だろうかと考えたのだけれど、自分がすぐに女性が睨む理由を思いつけなかったことに思わず苦笑してしまった。
そうか、そうなのだ。
あの女性に僕が何かをしたわけでなく、何もしないでただ女性の連れていた子供を見ていたことが問題なのだ。この大概の人たちが働いている昼過ぎの時間帯に公園のベンチからじっと子供を見ている男、それは子を持つ人たちにとって怪しい人間以外の何者でもないのだ。この世界ではのんびりと公園で暇を潰すことも許されないような時代になってきているのだ。何もかもが随分と変ってしまったなと思う。まだあの頃はそうではなかった気がする。そんな気がするのは、僕がまだ社会とは隔離された学生という身分だったからに違いないのだろう。
○
彼女との生活が終わってからのことを話す。
大学は不平不満をぶつぶつ言いながら卒業し、一社会人として社会と出るため就職活動をし、会社へと入った。
大学生活で得たものというのは、頭の中の抽斗をどこをどう探しても見つけられそうに無い。失ったものは彼女との生活と浪費することのできる時間だった。それがこれからの人生にどう関わってくるのかということをその頃は考えられもしなかった。でも彼女の部屋で過ごしたような気持ちで生きていける場所はもう二度とないことだけははっきりと分かっていた。
現実的世界の定義として、人は人と触れ合うことでしか生活を維持できない。それが社会というもので、社会性とは人が複数集まってこそ生まれるものらしい。
ただ、彼女の部屋、もしくは彼女しかいなかった世界から離れ、僕が生きていかなければならないこの世界にはどうも触れ合わなければいけない人が多すぎる。それはあの生活を繰り返してきた僕には随分と違和感を感じさせられる。だからといって忘れられたような静かな場所では人は長くは生きていられない。だから僕はまた別の場所を求めた(彼女が求めたように)。そこへ行くのに必要な事は今まで経験したことを最大限利用しなければならず、そして足りないものは僅かばかりの間でも必死になって身に付け自分を取り巻く環境から下される評価に耐えなければならない。社会に出るということはどうやらそういうことらしい。
○
僕が普通の大学生のように生活をもどしてからは、彼女の部屋で暇つぶしにしていた読書が残りの大学生活の中でどんどんと幅を利かせるようになり、最終的に僕は就職先の希望を(僕自身やりたいことなど何も見つけられてはいなかったが)絞るうえでその中心となった。もちろん単純に読書好きなだけで仕事場が決まるなんてことも無く、採用を得るまでにはそれなりに苦労した。
そして僕は東京のあまり大きくはない製本会社に入った。
その会社では本屋からの注文を聞いて扱っている書籍を店舗ごとに卸していく。僕はその得意先の本屋に本を卸す仕事に就いた。とくに何の能力も必要としてはいない。会社で注文を受け、本が揃うとそれを車に積み込み得意先へ順に回っていく。店の中へ運び入れ、店長と在り来たりな世間話と本の売れ行きや新刊の卸の商談をする。実際それが良いものであるかないかに関わらず、売れるものは売れ売れないものは売れないそして毎日次々と新しい本が本屋へと並んでいく。この業界が不況というのは本当のことだろうかと思ってしまう。そんな疑問でさえ平坦な毎日には全く影響をあたえることはない。
ここでの僕は特に何の問題も起こしてはいない、今までだってそうだった。能力も態度も存在も、とくに目立つわけでなく、人一倍の仕事ができるわけでもない。かといって仕事をしないわけでなく、波風をたてる堅物でもない。職場においておけば、それなりに機能するが、他の誰かでも特に変ることも無い。それが今の僕だ。ある時期にひどくそれを望んでいたような人間像だった。今思えばこれば実際の僕なのかもしれない。今まで深く考えすぎていたのかもしれない。
この町でも僕は同じように他人と付き合いその中でできる限り都合の良い自分の立場と居場所を決める。そしてそれを壊さないようにうまく立ち回っていく。
平日は会社へ行き、週末は(当たり障り無く作り上げた)仲間たちと飲みに行くこともあり、休日は布団の中で二日酔いが醒めるのを待った。それを年月の分だけ繰り返しその中で恋人をつくりセックスをし、そして別れた。
何も考えず生きることがいかに簡単なことか。
それができている自分に腹を立てることもない。
振り返ることと、その過去と今の自分を比べることで自分というものを少しずつ知りながら、同じ何かを失いながら日々をただ死んだように生きている。
ただ、酷く疲れたとき、電車に乗ると決まって彼女との出会いの日を思い出した。
いつのまにか眠気が僕を襲う。そんな折には降りる駅を降り過ごすことに期待さえ覚えた。
このまま寝てしまいたい、そして僕をまたあの場所に連れて行ってくれないか。
浮かび上がるのは、彼女のおぼろげな姿、しぐさ、細い体。そして僕を非難する声、涙、眼鏡と裸。そしてあの夏の蒸し暑さの中にあって背筋をつたう汗が冷やりした感じを覚えたあの白昼夢の中、穴を掘る音。
でも、ふと思い出すのは彼女の泣いている姿でしかなかった。
「…あなたは何も求めなさすぎる。とても深くて怖いの。どこまでいっても誰もいないんだもの」
今まで一度として見ることの無かった感情が剥き出しになった彼女の態度が僕には随分と現実味を欠いたものに写った。
「あなたは無言のまま何かを要求しようとする。何も求めないでただ受け止めようとする。あなたといると私は私自身の中にある何かを差し出さなければならなくなる。どんな辛かったことでも嫌だったことでも、そのせいで私がどんなに歪んでしまったのかもどんなに傷ついているのかも全てさらけ出されてしまう。そしてあなたはそんな私をそれが当然のように受け入れてしまう。それが怖かった」
両手で力の限り膝を抱えて何かに必死で耐えようとするように小さくなった彼女は僕を見た。彼女の感情を揺さぶった原因となった僕に関しての怒りを込めた視線ではなく、自分の中に存在した苦しい気持ちを吐き出したことを後悔しているような視線を僕に向けた。
「私は結婚する。何も考えない普通の人と。決まりきった生活で、幸せなフリをして、決まりきったセックスをして、子供を作って育ててだんだんとセックスしなくなって夫より子供にだけ目が行くようになって、女の部分をすこしずつ忘れていくの。私という存在なんてほかの誰でもよくて、幸せなんて他人と見比べてしか感じられなくなるの。でも、それは誰もがそうなってゆくことなの。自分だけじゃなくて他の誰かもそうなの、それは退屈であるけれど、不安ではないの。誰かのように生きればいつでも、安心なのそこに逃げ込めるのよ。あなたのどこにも逃げ込める場所なんてなかった。あなたの前にいる限り私は私でなくてはならない。醜さも嫌らしさも少しの偽りも無くその前に差し出さなくてはならない。ある意味では自由だけれど、それはある意味では辱め以外の何物でもない。私にはもうあなたの前に出せるものが無い。これですべて、もう何もないの。何もないのよ」
彼女がそう言った時、僕はうなだれる彼女の向かい側の壁にもたれてじっと彼女を見ていることしか出来なかった。あの時、僕が彼女の傍によって抱きしめていれば状況は変わっていたのかもしれない。彼女に対してしてきた仕打ちに対して謝ることができれば、また違った結末が待っていたのかもしれない。でもこの時の僕には彼女の言っていることの意味さえ理解できてはいなかったように思う。ただ自分いた世界が終わってしまうことを受け止めようとしているだけで、彼女の気持ちなんかは何一つ考えてあげられなかった。
その胸を掻き毟るような思いは平行世界を繰り返すたび何度も何度も繰り返された。
それなのに彼女との生活全てを手に入れたと思った頃のことはいつもあやふやなままだった。あの梅雨の日の神社での出来事をはっきりと思い出すことはできなかった。神社もあそこから見える景色も思い出せるのに、彼女と一緒だった感覚がまったく無かった。思い出す神社にいるのは、いつも僕一人だった。やるせない気持ちの波に押し潰されそうになる。
帰れる場所はどこにもない。過去は過去のままに日々薄れて行く。それなのに僕が出会った幾人かの人たちとの思い出は今もただ消えることなく僕の中で続いている。
そこにはいつも彼女がいた。何もかも鮮明で色あせることもないのにただそれに触れることが出来ない。そう、触れることができないのだ。
感触の無い現実、それが僕の中の平行世界。
触れている現実はこともなく崩れてしまうけれど。
○
この世界はごく単純な日常の中で存在している。意識することを失うような日常がコピーされた用紙のようにずんずんとそこへ溜まり続けた。それが彼女との世界が終わりを告げてからの僕の人生だった。
ただ、その終わりは突然でありながら、滑り込むように自然に訪れた。
○
結果的に僕にとっては一番暑い日になった日のこと。
僕は前日の夜に約一年ほど付き合っていた女性と別れることになった。どこにでもいる普通の女性で、普通に出会い普通に一年ほど付き合っていた。
いつものように待ち合わせ、夕食を終えた後に彼女の家へと向かった。
その女性が結婚の話をしたとき、その先の将来の夢を話し出した。ただ慎ましやかな生活の中で二人の子供と犬を一匹飼いたいなどと話し出した。僕はそのとき初めてその女性の前で白昼夢を見ることになった。その間もその女性の話は続き、その後で僕は何かをしゃべっていた。僕の視界がはっきりとして女性を見たときその女性は顔を引きつらせて目に大粒の涙をためていた。すごく当たり前のことだけれど、僕は白昼夢を見ている間にその女性を決定的に傷つけるようなことを言ったのだろう、それだけは分かった。
それでいて僕は目の前で泣くその女性に何の感情も抱けずにいる自分に気付いてもいた。悪いのはどう考えても自分であるはずなのに、取り戻そうとすればなんとかなるかもしれないのに。
女性の家から自分の家まで歩いて帰る間僕はその女性の泣いている顔一つ思い出すことはなかった。
その夜、僕の心を支配していたのは今になって他人の前でこんな白昼夢を見るようになることの理由だけだった。
大学生活で白昼夢を見ることになった時の不安に押しつぶされてしまいそうな嫌なイメージを思い出した。どこか期待感を持っていた日常の変化が白昼夢という形で起こったことに僕は予想以上に動揺していた。それはこの平坦で退屈な日常であっても自分は心の底ではそれが続くことをどこかで望んでいたのだということに気づかされたからだ。失いそうになると気づくようなことが今の僕にもあるということがなんだか可笑しかった。
何もかもが零れ落ちていく気がする。
僕は何かを築くことなんて出来ないのかもしれないと思う。
時はどんどんと流れていく。
それでも彼女との思い出の糸はずっと結びついたままで僕という一枚の生地は日々薄くほどかれていく。 何が悪いのか、何が間違ったのか?
なぜ僕だけがこんな目に遭う、なぜ僕だけがこんな白昼夢を見る?
そして僕は創造をする。この平行世界を己の頭から切り離すには現実の彼女の存在を消すしかないのではないか、と。
そうすればこのどうしようもない現実を死んだように生きるだけでよくなる。
日々自分の生活まで犯し始めた彼女の影を見て今の僕は本気でそう思っていた。
できればうまくこの世界のすべてから逃げてしまえばいいのかもしれない。でも僕はその選択肢を選ぶ強さを持つことができない。自分が消えてしまうことを想像するたび、今度は別の部屋が僕を待っている。とてもとても深い過去の部屋だ。
どうしようもない過去が残した僕への戒め、それは幼少期に染み付いた死への恐怖。体が弱かったことでいつも自分の隣にあった自分が消えてしまうイメージ。血を吐いたときの動揺。逃げ切れないのかと思う失望。そこから逃げてきた自分には死というものが到底受け入れられるものではなくなっていた。全てはもう過去のことなのかもしれない。でも彼女との世界のように僕の頭の中に深く刻み込まれている。
今がどうであれ僕にとって消えることは楽になることでない。
消えることは救いではない。
死の救済よりも生ける屍を選ばざるを得ない。
そう、僕は何よりも死ぬのが怖いのだ。
○
その夜は熱帯夜だった。
寝苦しい夜が連れてきた夢は現実と白昼夢が入り混じったものだった。
彼女との別れ。
おばさんを殴った白昼夢。
そしてさみしい丘の上にたった家の夢。
彼女の腕が土の中から出てきた夢
全てが繰り返し、全てが僕の感情を揺さぶり、全てが終わりを告げた。
暗闇の中で不快な汗の中、見上げる天井はどうにも違和感がある眺めだった。彼女といたあの部屋の天井と違うという理由だけでそう思う自分が今も存在している。
僕はじっとりと掻いた汗をシャワーで執拗に洗い流し、着替えを終えた後、タバコを買いに外へ出た。夏という季節が近づくたびに彼女と過ごした世界が頻繁に夢に出てくる。とてもいい思い出とは言いがたいそれは僕の神経をすり減らすには十分な夢で、起きた後は逆に疲れているような気持ちにもなる。夜風は温くシャワーで熱くなった体には不快でしかない。吸いさしのタバコを吐き捨てて、買ってきた缶ビールを道端で飲む。喉ではじける発泡と冷たさが僅かばかりの心地よさをもたらしてくれた。その心地よさに抵抗することなくため息を漏らす。
そこでふと僕は道端に立ち止まる猫を見つける。
猫はじっとコチラを見ている。
僕が白昼夢を見た公園のベンチで見かけた猫と似ている気がした。
「あの時は最後まで話を聞いてくれてありがとう」
僕がそう言っても、猫はまったく動かないまま僕の方を見続けた。
現実もあの平行世界もどちらもどうにもならないようなものになってしまった。
こんな世界がいつまで続くのかと思う。
ビールを飲み干し、空き缶を自販機の横のゴミ箱に入れ、帰ろうとした。
「…そんな世界ももう終わるよ。君がそう望めばね」
振り返った道端には猫の姿はもう無かった。
僕は今にも大きな声で笑い出しそうな自分を抑えようと口を掌で塞いだ。
崩れそうな体を自販機にもう一方の手をついて支える。
何もかもが壊れていく。
○
次の日は珍しく朝早く目が覚めた。ベットから起きてカーテンを開き、窓を開ける。朝もやの中ごちゃごちゃした町並みが見える。烏の鳴き声が聞こえ、上を見上げると電線に止まっているのが見える。ビルやマンションが隣接したこの街では仰ぎ見なければ空は見えないのだな、といまさらながら思う。それでも車も人通りもないこの早朝は何故だかは分からないけれど酷く懐かしく感じる。思い出したように体を伸ばし、心地よい感覚を覚える。最近にはなかったハッキリとした意識で日常が始まろうとしている。今ならば自分がしようと意識したことがそのままダイレクトに行動に現せそうな気持ちだった。ただそれは何かの目標を見つけた時の人が持つようなモチベーションとは違っていた。自分の内側から溢れるあらゆる感情や思いの発散先ががただ一つの出口に向いてしまっただけのことだ。そのことに自分でも分からないような可笑しみを覚える。
窓を開けたままで僕はキッチンへ向かいコーヒー一杯分強の湯を沸かす。冷蔵庫から前もって荒めに挽いていたコーヒー豆を取り出し、一人分を専用のスプーンで掬う。紙製のネルを湯で湿らせ濾し機に取り付け
カップに湯を垂らし暖めでおき、サーバーをコンロに置き火がつくぎりぎりのガス量に保つ。沸騰した湯を中心に垂らしそこから八の字を描くように軽く湯をかける。そして一度ふたをして暫く蒸らす。また蓋を開け、八の字を描くように湯をかけ始める。沸き立つ湯気に煽られる様に香ばしいコーヒーの臭いがあたりを満たしてゆく。抽出は最後までせず目的の量までコーヒーができるとフィルターをさっと外す。お湯を入れて温めておいたコップからお湯をしっかりと切り、サーバーからコーヒーを注ぐ。ミルクは入れず、コーヒーの苦味による口当たりの硬さをとるためにほんの少しだけ砂糖を入れる。スプーンで2,3回かき混ぜたところで、最初の一口目をすする。僕は薄く入れるのが好きなのでこのときに失敗かどうかが分かる。薄く入れすぎれば、水の味と砂糖の甘味が目立つ。うまくいけばコーヒーの苦味が残りすぎず僅かな甘味が醸し出される。今日はまずまずだった。自分でも気付けば異常なほどコーヒーの入れ方や味にこだわっているなと思う。今と比べると彼女の入れてくれたインスタントは随分とまずかったなと思う。ただどんなにこだわってコーヒーをいれようとしても、彼女が見せた淀みの無い流れるような動きは出せないように思う。今日という日に限って僕がコーヒーにこだわっているのは、まずいコーヒーを飲むことで彼女を思い出すことを避けていたのかもしれないと気付いてしまう。笑ってしまうようなことであるのに、僕の中からは少しも笑う感情は湧き出してこなかった。
シャワーを浴び、髭を剃り、歯を磨く。風呂場から出た後で鏡台の前に立つと目の前には目の辺りが幾分落ち窪んだ、どこか体の内部が病んだように青白い顔の男が立っている。この頃の白昼夢と寝不足のせいで体調にも以上を期しているようだ。これじゃあ会社の同僚に病院で見てもらえといわれるだけの事はあるなと思う。
ジーンズにタイトな水色のTシャツを着た。押入れの中を探り、ノースフェースのリュックを取り出し着替えと読みかけの小説と冷蔵庫にあったミネラルウォーターを放り込んだ。いつもより多めの歯磨き粉をつけた歯ブラシでしっかりと歯を磨き、鏡に映る自分の顔をもう一度まじまじと見た。あの頃より幾分肌の質がかさかさになった気がする。歳をとるとはそういうことだ。
すべての準備が整った後、僕は会社に電話を入れた。二日程休みが欲しいといった。ダメだと言われたら辞めてもいい気分だったけれど、今まで一度も休んでなかったせいか、会社からはすんなりとOKが出た。肩透かしを食らった感じだったけれど、とにかく休みが取れたので僕は今住む町を飛び出し、あの場所へと向かうことにした。行くまでに地球の裏側ほと遠くに感じられた。そこに僕の欲しいものがあるかとか、昔を懐かしむ気持ちとかはまるで湧き上がってこなかった。ただ何もなくなっていることを自分が体で認識したときの行動を思うと少し嫌な気になった。
ただもう電車は出てしまっていて、僕はそれに乗っていた。
○
新幹線は次第にスピードを緩め始め車内アナウンスが京都駅への到着を告げる。
数えるほどしか出て行かなかった街中には差ほど思い入れはないはずなのに京都タワーが見えるとなんだか妙に懐かしい気持ちになった。
ホームに出るとすぐ熱気が僕を迎える。盆地である京都の夏はひどく蒸し暑いことを思い出した。そして少しだけ自分の頬が緩んだことに気づいた。ホームから降りて改札を抜けるとすぐ正面に近鉄線の改札がある。この近鉄線の改札だけは何故か未だに切符を窓口で駅員が売っている。予想はしていたけれど、観光客らしい人たちで改札の前はごったがえしていた。それでも改札を抜けてすぐうまく急行に乗ることが出来た。じわじわと掻き始めていた汗はひんやりとした車内にいるうちにおさまってきた。
平行世界の中と同じ場所には近づいているが、この自分の視界に写る景色一つ一つが現実であるせいか白昼夢に陥る気配は無かった。
そして今まで持っていたその不安もどこかへ消えている。仮に寝過ごしたとしてもアノ場所へは辿り着くような気がしていた。
急行を降りて、各駅に乗り換える。全てが始まったような乗り過ごしてきたあの駅は数年の間に新しい駅に作り変えられていた。その新しい駅に沿うようにゆっくりと町の作りも新しく変えようとしているようで、古びた町並みにぽつぽつと新しい建物が目立っていた。そのことが随分と現実的で僕は胸の痛みのようなものを覚えた。
現実も変わっていくのと同じように記憶が少しずつ失われ変わっていくのだとしたら、想い出は作り物なのかもしれない。好い想い出も嫌な想い出も時間の流れの中で造り変わってゆくのなら、僕の彼女との生活の想い出はいったい僕の中の何が何のために造り変えていくのだろう。
線路に沿って歩いていく。陽は高く、じりじりと僕の肌を焦がす。ジワリとした汗が滲んでくる。
線路沿いを曲がり坂を登る。
坂道の先を見上げると住宅がずらりと並び、その家々の防壁が坂道を浮き立たせている。こんなに長かったかなと思う。しばらく坂を上っていくと視界の端に突然緑が飛び込んでくる。神社の前にあるあの高く切り立った木々が作る林だった。その林のほうを見ながら住宅街を歩いているとずらりと並んでいた家々の間に急に隙間ができている。そこがあの部屋があるアパートの入り口だった。
それはそこにあった。何一つ変らぬ有り様で。
すでに忘れられたような存在感のアパートだったそれは、僕にはあの時から全く変化がみられないような感じがして変な違和感を覚えた。老朽化の時間感覚が狂っているような気がした。
二階へと上がる階段の手すりも錆びているが、あの時から全く進行していないように思える。
僕は階段を上がりあの部屋を目指す。部屋の玄関までのかび臭さもあの頃となんら違いが無かった。
部屋のドアを開ける。カーテンの無い部屋の中は夏の日差しを受けて全てが鮮明に僕の視界に写った。それでも白昼夢は訪れることも無かった。部屋には当然ながら何一つ物というものが存在していなかった。
靴を脱いでたたみの上を歩く。ざらついた感覚が懐かしかった。そして窓から神社のある林のほうを見る。いつも見ていたようにここから神社は全く見えなかった。
そして僕は湧き上がる可笑しみを抑えながら、自然と呟いていた。
ここは違う。
ここは現実の世界だ。彼女はいない。そしてあの平行世界もここにはない。
当たり前のことを当たり前だと感じるためだけに僕はここまでやってきて(もしくは戻ってきて)、そのことを認識することのためだけに今ここに立っている。そのことに今気付いてしまったことに笑い出しそうになる。同時に体に力が入らなくなって僕は窓枠にもたれ掛かった。そしてふと下を見下ろすとそこにはあのおばさんがいた。あの頃と同じような姿で草むしりをしているようだった。暫くおばさんをじっと見ているとおばさんはゆっくりと立ち上がった。そして振り向き僕の方を見た。僕とおばさんは暫く互いに互いを見続けていた。
そして僕は部屋を出て下へ降り、アパートの入り口とは逆のおばさんがいる林側へ向かった。
おばさんはそこに立っていた。
「久しぶりだね」
「そうですね」
「ここはあの頃と何一つ変わってないだろう」
「ええ、本当に何一つ。おばさんもまったく変わったところがないですね」
「そう、見えるかい?かもしれないね。でもね、あたしの目は変わったよ。もう周りの景色が分かることはなくなったよ。分かるのは明るい、暗いそれだけだよ」
おばさんは自分の瞳が僕に見えるように色眼鏡をずらした。そこには青白く濁った二つの盲目が僕を見ていた。僕は死んでいる魚の目を思い出した。
「気にすることはない、いつかは誰も何も見えなくなるんだから、ただ、この場所はあんたの言うとおり何も変わってない、何も変わらないんだ。あたしがいる限りはね」
「僕は随分歳をとりましたよ」
「当然さ、人間はみな年をとる。ただね、人にはいくつになっても変わらない、変えられない場所があるんだよ。あんたが今いるこの場所がそうさ。それが現実の自分と離れていくのは誰でも辛いものさ。そうだからこそあんたはここへ来たんだろ」
僕は返事をしなかった。おばさんの言っていることはそのようにも思えたけれど、僕はここに来た理由の本質をまだ自分の中に見出せてたいなかった。
「彼女とはあれから一度も会ってません」
おばさんは大きな指の隙間に小さなタバコを器用に挟み、深く頷きじっと僕の話の続きを待った。
「それなのに僕は彼女のことばかり思い出してしまうんです。何も言わず別れたことに後悔しているわけじゃないんです。ただあの時、彼女にかけるべき言葉があったような気がするんですけど、それが何であるか未だに答えが出せないです。だから忘れることも出来ないまま日常を無意味に生きてしまっている」
「答えが出せれば、忘れられるのかい?」
「いえ、忘れるとかいうことではなくて。むしろ忘れる気はありません。ただ失ったものを元に戻したいんです」
「失ったもの?」
「それ自体よく分からないものなんですけど、あの頃の生活が何が現実離れしすぎていてそれが終わってもいまだに現実にうまく自分が馴染めていない気がして。ずっと同じことを繰り返してるんです。誰かと出会って、傷つけて、別れて後悔だけがのこって」
「それがあんたの人生じゃないのかい」
「人を傷つけるだけの人生になんの期待も持てないんです。それに今の僕の現状にも」
「自分が磨り減ってるようで怖いのかい?随分と情けない意見だね」
「はい、正直自分がどんどん削られていって現実から消えてしまうんじゃないかという気がしてるんです。削っているものが自分自身であることも分かっているんですが」
僕はあの頃には考えられないほど素直に自分の気持ちを話していた、というよりいつも出来るだけ避けていたので、きちんとした会話自体今が初めてだった。
おばさんはしばらく黙っていた。沈黙はどうしようもないくらい深く、意識は出口のない迷路に入ったように同じところを彷徨っている。曲がった腰をゆっくりと伸ばし、急に踵を返しておばさんは言った。
「暑いだろ、部屋へ上がりな」
そう言うと玄関の戸を大きく開いたまま中へ入っていった。僕は何も言わず静かにその言葉にしたがった。
おばさんの部屋は間取りは当然ながら彼女の部屋となんら変わりなかった。
おばさんは色眼鏡をはずした。やはり眼球は濁り、黒い部分は死んだ魚ように真っ青だ。
「あの頃あんたはあたしを憎み、殺意にも似た感情をもっていたね」
「そうですね」
僕は正直に答えた。
殺意までは持っていなかったと言いたかったけれど、おばさんの前ではどれも無駄であるきがして反論はしなかった。
「あの世界を壊す存在だと考えていたんだろうね」
僕は同意も反対もせずおばさんの話の続きを待った。
「あんたはここで禁忌を犯した。現実の彼女をあんた自身の内側の世界へ住まわせようとした。それは無理なことだ。自分が閉じ込めた自分の半身を満たすためだけの生贄にする行為だよそれは」
濁った二つの目がコチラをじっと見据えている。僕はその目をじっと見ていた。
「あんた、わたしが誰だかわかるかい。わたしがあんたにとってなんであるかが分かるかい。何故彼女がここにいないでわたしがここにいるのか。考えてごらんよ。あんたはすでに理解しているはずさ。何故ここがこのままなのか、ここがどこなのか」
おばさんはそれ以上話を続けようとしなかった。ここにこれ以上いてもあんたに何一つ良いことなんてないよ、早く戻ったほうがいい、そう言って立ち上がった。僕はおばさんに続いて立ち上がって、何も言わず部屋を出た。
日差しがじりじりと肌を焼く。僕は掌で目に刺さるような日差しを遮りながらアパートを見回した。
本当にここは変わっていない。辺りを見れば完全に不釣合いなこの場所が何年経っても残っていることはやはりどうも不自然だった。あの、おばさんもだ。目は何か白く濁っていたけど、それ以外は全く何一つ変わってない気がした。記憶が曖昧だけれど着ていた服も、サンダルも同じだったような気がする。
いまさらながら僕は何をしにここへ来たのだろうと思う。ここが変わってないことは意外だったが、うれしさはこみ上げてはこなかった。何かが変えられるなんて思ったのではなかった。何かを取り戻せるなんて考えてはいなっかった。ただ自分の中の何かがここへ向かわせていた。
それが何であったとしても実際、彼女とはもう出会うことなんてあるはずがないのだ。
僕らは名前さえ知らないのだから。
それでも、僕は彼女との生活、あの世界を今でも愛おしく思っている。
あの頃の僕らは誰かであって誰でもなかった。
世界にたった二人で存在し、ただ、対でしかない。
自分とそれ以外。
その認識だけ。
それだけで十分僕らはやって行けた。
あの小さな世界では。
○
この暑さの中に長くいすぎたせいか、急に視界が歪みぐらりと地面が揺れるような感覚に襲われる。
崩れそうな体を両膝を手で押さえることで何とか支えている。歪んだ様な目の前の世界に何かが動いていることに気付く。それは犬だった。
野良犬は僕の方に寄ってきた。
当時おばさんが世話していたときの犬とは違っていた。
ただ、僕が子供の頃に飼ってた犬と似ていた。似ているというより、そのもののような気がした。
また過去が現実の中に流れ込もうとしている。確かこの場所で彼女に僕は自分が飼っていた犬が死んだ話しをしたことを思い出す。そして彼女に話していなかった部分を僕は思い出す。
犬が死んだ日の夜、大きくなった犬が僕を噛み殺す夢を見たことを思い出した。
自分がしたこと、してあげられなかったことへの罪悪感や後悔で寝つけが悪くようやく眠れたころ僕は夢の中で自分が犬に噛み砕かれぐちゃぐちゃされている夢をみることになった。そのせいで暫く不眠症のような症状になってしまったことがあった。
無理やり引き出されたような思い出がリアルに感情を刺激し、僕は恐怖した。体は硬直してうまく動けない。
この世の理は等価交換であって、つけはいつか払わねばならない。
それがいまであるならば、僕は静かにそれを受け入れなくてはいけない。僕は咽笛を噛み千切られ死を受け入れる気になった。
それでも、その野良犬は僕に擦り寄ってきた。僕は無意識に手を出していた。犬は僕の手を舐めた。
現実と過去の入り混じったようなあきらめの感情の中、あらゆる後悔や自分のしてきた罪の意識から本当は許されたい自分に気付いてしまった、そして今許された気になった愚かな自分がいることにも。
僕は泣いていた。
僕は謝りたかった。失った全てのものたちに、そして何より彼女に。
「…それですむと思っているのかい?」
「犯るだけ犯って、彼女を捨てたようなもんだろ。最初から長く付き合う気なんてなかったんだろ。だから名前も言わないで本当だか分かんない彼女の別れ話をすんなり受け入れたんだ。それがいまさら惜しくなったのかい?」
犬の顔はいつのまにかおばさんの顔になっていった。そして鼻の辺りからおそらく僕が平行世界で見た夢の中で手に握った何かで殴りつけた箇所から顔が捩れ、中へと沈み込んでゆく。そしてあの時と同じように真っ黒な穴になった。
ただ、あの時とは違って穴の中を僕は見ることができた。
そこから覗くのはひとつの崩れた頭蓋骨。その頭蓋骨が誰のものであるのかを僕は知っている。右側頭部が崩れてぽっかりと空いてしまっている。その空いた場所には靄に包まれた街並みに浮かぶひとつの孤立した小高い丘、そしてそこに建つ小さな家が見える。
そうだ、夢で見た僕が住んでいた浮島だ。
崩れた頭蓋骨の口がかたかたと開き喋りだす。
お前は都合の悪いことを忘れているんじゃないのかい?
僕は両手で犬のようなものの首を力いっぱい絞めた。犬のようなものの足が地面から離れるぐらい締め上げた。犬のようなものは足をばたばたともがいていた。ただ、頭蓋骨は何度も同じような言葉を喋り続けている。その言葉は僕の頭の中に直接響いてくるように感じる。
僕はさらに力を強めようとする。頭蓋骨の口から漏れ出る言葉は犬のようなものの首を絞める力の強さに比例してかすれ小さくなってゆく。
「あ、あ、あの子はぁああぅ、お、おまっ、がぁははははっ!」
言葉はハッキリと聞き取れなくなっていくが音のボリュームは次第に僕の中で大きくなっていく。
両手に力をいれていくごとにその力に反発するような弾力が帰ってくる。それが怖くなって僕はまた力を入れ始める。それを繰り返しているうちに反発は次第に弱くなり、僕の両手を受け入れるように萎んでくる。生き物の生への執念と諦めが両手の中にあった。
やがて犬のようなものの足が力なくだらりと垂れた。
僕は両手を離した。どさりと犬のようなものは地面に落ちた。
体にひどい疲労と大量の汗をかいた不快感があった。
蝉の声が聞こえた。辺りを見渡す。
大きく伸びた木々の合間に神社が見えた。僕はまだ温かい犬のようなものの足を掴んで引きづりながら神社のほうに向かっていた。木陰は思いのほか寒気がするほど涼しく、思わず首を引っ込めた。誰もいない神社脇の大きな木。僕はその木の辺りに何か見覚えがある。犬のようなものを掴んでいた手を離し、その大木の横に僕は穴を掘り出した。地面は夏場でもひんやりとして冷たく黒い粘土質であるため手で掘るには骨が折れた。一度引いた汗もまたじわじわとたれ始めた。爪の間に石が入ってきたような痛みを感じる。それでも体は動きを止めず湿った土をどんどんと掘り返していた。僕は手に何かが当たるのを感じる。白く長い塊、そしてくすんだ水色をした生地のようなもの。僕はそれが何かを知っているような気がした。それでも僕はそれに対して何の意識も抱かず引きずってきた犬だったものを掘った穴に落とし上から土をかけた。立ち上がると腰に重い張りを感じ、ゆっくりと背伸びをした。目の前がちかちかして立ちくらみがしたのを木にもたれかかってじっと耐えた。土のついた膝と手を払ってからゆっくりとアパートの方へと戻った。おばさんが気になったのでそこを離れる前に一度玄関を見てみることにした。
出るとき閉めたはずのアパートのおばさんの部屋のドアが開いていた。僕はその部屋を覗いた。おばさんはそこにいた。おそらく二度と起き上がらない姿で。大の字に倒れ眼鏡は顔から外れ、濁った両目は見開かれていた。ただ顔は真っ黒ではなかった。口から垂れた舌も長くはなかった。ただおばさんの首には鬱血して紫になった跡が見えた。僕は静かにドアを閉めてその部屋を出た。
両手には泥にまみれ、錆びついた鉄のようなにおいがした。
僕はアパートをあとにして、重い足取りを無理やり倒れこむように前のめりに送り出しずるずると坂を下っていた。日差しが恨んでいるかのように僕を刺した。不快な汗が体中から噴き出してくる。
アパートの敷地から出て線路沿いの道まで続く坂道を下る。自分が酷く疲労していることに気付く。足取りがことのほか重い。この道が不快なのは何度目のことだろう。駅に近くなったところで彼女と初めて会ったラーメン屋を探した。あの頃あったラーメン屋はすでになくなっていた。今となっては本当にあったかどうかも怪しいものだ。自分の現実に何一つ自信をもてなくなっている。出会った日の夜と同じように向かいの上りの駅のほうに向かう。
踏み切りに差し掛かると、遮断機が降りて僕は立ち止まる。目の前がくらくらして飛びそうな意識の中で、それまでははっきりと聞き取れていたカンカンカンという踏み切り音が誰かがボリュームを弄った様に次第に小さくなってゆく。この雰囲気を僕は覚えている。あの白昼夢だ。でもそれはあの頃僕が彼女の部屋で見た夢の続きだった。
粘り気のある大気と灼熱のような日差しを僕は感じなくなっている。そして体に吹き付ける強い風には夏の臭いなぞどこにもない体を刺すような痛みを感じさせる冷たさがある。そしてかびた様な草の臭い。そうだ何年も前に何度か嗅いだことのあるにおいだ。
現実に夢も白昼夢も入り込んでくる。
僕は辺りが真っ黒なことに気付くがそれと同時ににやけてくる。自分が目を閉じていることを気付かされるのは以前にもあったからだ。僕は目を開ける。やはりここか。あの頭蓋骨の中に見たあの場所、それがここだ。そしてその場所は間違いなく僕の中に存在している。いや、正確に言うならばずっと存在していた。
見覚えのある陰鬱な空、大気のくすんだような灰色に負けている草の緑。そして狭い大地。振り返ればまた見覚えのある小さな家がぽつんと立っている。玄関のドアは開かれている。
僕は少しだけ彼女の手が地面から出てきたあの夢を思い出し、背筋に悪寒を覚えた。今さらそんな感情を思い出すのも変なことなのだけれど。彼女が出てきた場所を向く。確か穴を掘っていたところと同じはずだ。結局ここへ彼女の一部、というか思い出のようなものなのだろうけれど、連れてくることは叶わなかったようだ。ただその穴はまた掘り起こされているようだ。また穴が開いていてその横には掘ったときに出た土が盛られている。
僕はそこへ近づいていった。穴を覗いてみる。そこに以前見たような腐り崩れた彼女の姿はなかった。そして彼女が埋まっていた穴には人一人が入るぐらいの木の箱がある。その前に僕はたった。僕の立っている目線から箱の底はせいぜい2メートルぐらいなのだけれど、なにか高層ビルの屋上から地上を覗き見るような感じがあった。じっと見ていると穴の中に引き込まれそうな感覚を覚える。そのとき誰かが僕の背中を押したような感触があった。無防備な状態で木箱に肩から落ちたので、痛みにしばらくは動くことができなかった。夢の中でこんな痛みを感じることに違和感を覚えながら狭い木箱の中でうつ伏せになっていた自分の体を何とか仰向けにしようとする。木箱は肩幅ぎりぎりぐらいなので、体を入れ替えるのがひどく難しい。やっとのことで仰ぎ見た僕の目に映ったのは上から見下ろす僕自身の姿だった。その僕はにやけた顔のまま手にスコップを持っていた。
そのスコップで僕に土をかけだした。ざくっという音の後でひんやりとした土が僕の体にかけられている。それは次第に重くなり自分の体が埋められていく感覚がどんどんと強くなる。肺がうまく空気を取り込めず息苦しくなってきている。
体には土のかけられていくひんやりとして重苦しい感覚を感じているのに、現実の僕には踏切が開いたのが分かった。そして自分が歩き出していることも。意識が夢の中と現実とに同時に存在しているようだ。その混在した世界の中、頭の中ではまだシャベルがザクザクと土をかける定期的な音が続いている。体を圧迫する土の量に呼応するように踏み切りを横切る僕の足取りも重くなり、一歩を踏み出すのも苦しくなってくる。ただ僕は歩みを止めない。それが自分の意思なのかどうなのかも分からなくなっている。
駅のホームに上がる階段の手すりに僕は身を任せながら自分を削るように壁にはいつくばって階段を上がる。誰かが僕を見て何かを言っている気がする。それが何であるかも今の僕にはハッキリとは分からない。ただ駅のホームに立ち目の前に電車が止まることだけを待つ。
電車が運んできた熱気を含んだ風がやむと乗車口が開いた。僕は白昼夢の中で土に埋められていくたび、重くなる体を引きずるように乗車口へ歩いた。
そして僕はようやく電車に乗った。車内はひんやりとしており、居心地の悪さを感じた汗が服と皮膚の間に隠れ不快な密着感を出している。僕の耳の中ではまだシャベルで僕が僕に土をかける音が聞こえている。体にかけられていく土の重さを実感するたび体がどんどんと重くなってくる。そしてその重さが僕の体から意識を引き剥がしていくような気がしている。僕は座席に座る。
電車の硬い質感の座席が次第に軟らかくなっていくような感覚を覚える。そして、座席深く潜っていくようなイメージが僕を襲い、目を開けていても自分の周りが真っ暗になってきている。そして僕の体も次第にそれに同化してきている。見上げたそこには僕自身がいる。そして笑っている。
そうか、そういうことか。
ボクはこれを待っていたのか。
いいさ、僕はもう疲れたようだ、選手交代だ。
しばらくすると眠気が襲ってきた。また乗り過ごすかもしれない。それならそれで構わなかった。帰るところなんて僕にはないのだ。僕は抵抗することなく瞳を閉じた。警告音がなり電車の扉が閉まる。のっそりと動き出した電車が僕の体を揺する。僕は目を閉じ眠りの中へ、誰もいない失うことのない深海のように深く孤独な世界へとたどり着くことだけを僕は望んだ。
僕は風を感じる。電車の冷房ではない風の冷たさが体の芯を冷やしていく。
この風を僕は知っている。そしていつも感じていた。
僕は目を開ける。
僕のたどり着いた場所はあの反り立つ崖の上に建った家。
仰ぎ見る空は薄暗くどんよりとした雲に一面を覆われている。
雲の隙間はどこにも見つかりそうも無い。
そしてその家の前に独り座り、自分以外の人達が住む町並みを見下ろしている。
ともかく、彼女と出会ったのはひどく夢と現実が見分けにくい頃のことだ。
完読感謝。なんとか最終話まで書き終えることが出来まシタ。初の長編で大変デシタガ、挫折しなくてよかったデス。誤字や表現のおかしなところはおいおい直して行きたいと思いマス。感想、批評いただければこれ幸いデス。暫くは短編を書いていく予定デス。暗い作品ばかりなので、明るいモノを書ければと思う今日この頃デス。ありがとうございまシタ。