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4.白昼夢は終わりの始まり

時間の無い中、何とか2008年中に間に合いマシタ。

この章から若干残酷な描写が出てきますので、お嫌いな方はお控え下サイ。では。




 同じ場所から見える風景の変化を眺めるのが僕は好きだ。


 真っ暗な夜空が次第に白んで朝焼けに染まるその時に見える青とオレンジの間にあるエメラルドグリーンの空の境、夕闇が迫る重く深い深海のような空の色。そのどれもが気付かぬうちに、しかし着実に変化しながら僕の視界に現れてくる。同じ場所にいるという退屈さが僕に次のステップを踏ませる。それは、日々変わるものの中で動き続けている時には何にも気付けないということに等しい。ただ周りを見渡せばいつも僕はそこに取り残されている。



                  ○



 同じところに留まることは普通の人にしてみればそれこそ退屈なことで、誰もが他人とは違う自分にしかないものを見つけたがっている。それは一億何千万人といるこの国の中で見つけ出すにはあまりに困難なもので、そして客観的判断と主観的判断の狭間に存在するアイデンティティなどという言葉をこの社会が受け入れたときからこの社会の誰も彼もが同じようにアイデンティティを求めだした。それ自体がアイデンティティの喪失といっていい。それでも誰もそれに気付かず、むしろ気にしないようにして社会は一貫して個性を求め、そのための教育をし、育てようと躍起になった。決して自分自身に個性を見極める力があるかどうかは触れないままで。個性とは見分けるもので作り出すものではない。なぜならば、同じ人間というものは一人も存在しないし、人はいつも独りで生まれ、独りで死んでいく個の生き物であるからだ。誰かも分からない若い世代という名をつけた集団に対して、お前たちには個性が無い、なんてことを言う誰かがいるとしたら、そのぽっかり明いた二つの節穴を隠すサングラスでも買ったら、と言ってやればいい。



                  ○



 僕は自分が他の誰かと違ってなどいたくは無かった。それでもそう思えばそう思うほど僕は自分の内側ばかりを見つめ、そして自分が他の誰にもなれはしないことを認識する。そして必ず人一人には誰とも共有できない場所があるのだと思う。

 ただ、僕はあの時ほんの僅かな期間であるけれど、その共有できない場所を彼女と共有していると思っていた。疑いようもなく一部のすきも無くそう信じていた。


 そして、今ここで僕が独りで存在していることがそれが間違いであったことの証明だ。


                  

                  ○



 この世には現実的経験よりも確かな先人の残してきた教訓というものが山のように存在する。それをしっかりと心に留め、その教えを守るのであれば我々は未だ経験したことのない危機も乗り越えることが出来る。ただ、実際のところ僕達はその教訓を知りながら人生の重要な場面で見事に転んでみせる。つまるところ、人間というものはことわりでなく、感情に生きる未完成な動物であるからなのであろうか。

 どちらにしろ、僕が彼女との関係をどうすれば良かったのかという問題はいつも付きまとう。それが酷く煩わしく感じられる時と、感じることも出来ないほどその問題の中にどっぷりとはまり込んでいる時とを僕はずっと繰り返している。


 その波は僕をどこに連れて行くのだろうか。



                ○



 君はまだそこに居てくれるのかい。

 食べさしだけれど、このサンドイッチをあげるよ。

 君の好きな魚も入っているよ、サーモンだけど。


 さて、どこまで話したっけ?



                ○



 夏という季節が僕たちの住む辺りを覆いだしても、現状の生活にたいした変化は起こらなかった。京都の夏は蒸し暑い。もちろん自分が住んできた町から相対的に考えてみてだけれど、それでも今どきこの暑さの中で冷房もなしで生活をするなんて思ってもみなかった。ただ彼女を見ているとこの暑さに対するリアクションが態度にも表情にも一切出てこないのでなんだかそこまで暑くないような気もしてきた。それでも特に暑い昼間には、水でぬらしたタオルで、体を拭き蒸発で体温が下がるのを待った。この頃になると、昼夜関係なく窓は開けられたままで部屋の外の誰をも気にすることはなくなっていた。

 彼女は(僕もだけれど)布団の上にいる間は何も着ることなく裸のままでいた。しかしながら、コーヒーを入れたり本を読んだりとほかの事をするときにはきちんと布団を畳み、必ず服を着た。それが僅か一時間の間でもだ。一度そのことを彼女に聞いたら彼女は「脱がす楽しみもあるでしょ」、と言った。

 

 その通りだと思った。



                ○



 彼女の服はすべてがよく使い込まれていたが、もとが良い品質のものであったのか生地がしっかりとしていて古着のような味わいがあった。この部屋へと持ち込んだ服はさほど多くないらしいが、彼女は毎日組み合わせを変えて何種類にも着こなして見せた。僕のような野暮ったい人間には持ちえない色や形の組み合わせに関して秀でた才能が見受けられた。結局僕はいつもそれを乱暴に脱がすのだけれど。

 彼女の裸体は女性的というよりは、少し中性的に見える。体のラインには女性的な丸みはあまりなく痩せ気味で骨ばっている。でも太股から踵までのラインはあくまで柔らかい曲線で膝の持つ継ぎ目のような節目を作らないような繋がりを見せ、足の先までつるりと淀みのない流れを作っている。デニム地のミニスカートから覗くその両足はこの部屋にある景色で一番のものだと僕は思っている。そのことを彼女にいうと、以外に恥ずかしがった様子をみせた。しばらくの間怒ったような態度(彼女は普段、表情をあまり変えないので大体の雰囲気から察した)をしていたので、ジーンズやパンツばかりはかないように最近は黙って布団の上から見ることにした。



                 ○



 この年の梅雨は長く、雨の日が何日も続いた。僕は原付が故障していたので、彼女の家に住み着いていた。前にも言ったけれど、この部屋には本当に何も無い。独りの時には少しぐらい散歩に出てもよかったけれど、おばさんに出会う可能性を考えると嫌な気持ちになるのでやめた。結局彼女がバイトの間は暇なので部屋の隅に沢山つまれている小説を読んでみることにした。漫画を読むことと違って文字だけを追うことは僕にはとても苦痛な作業だった。一度彼女に字ばかり見ていて退屈じゃないか、と聞いてみたことがある。彼女は文章を読むのでなく、書いてある情報から情景を自分で立ち上げるの、と言った。


「情景ねぇ」

 僕は首を振りながら、ふぅと息を吐いた。僕には持ち合わせていない表現だった。


「そうよ。漫画でもドラマでも映画でもなんだっていいけど、そんなのは全て向こうから与えられたものなの。それを観て感じることは人それぞれだけれど、伝えようとしているものは作った人のものよ。私たちには選べないの」


「小説は違うの?」


「小説は文字しかないもの。全てを自分の想像によって人物や雰囲気を作らなきゃならないの。それはその時々の人の心の状況によっても変化するの。だから読むたびにその物語は内容を少しずつ変えるの。私はそれが好きなの。時期によっても読みたいものが変わるもの。それに昔はおもしろくないとおもっていたものが月日を経て読み直すと今まで読んできたものの中で一番の存在になることもあるわ、自分の理解する力の成長で今までは読むことで掴むことができなかったいろんなものを吸収できるの」


「ふむ、そういうものか」

 僕はそれが理解できるとも出来ないともとれる曖昧な返事を返した。彼女はそのことに別段気にしている様子もなかった。


 彼女が珍しく張り切ってしゃべっていたことを思い出した。

 彼女は本当に読書好きのようだった。彼女の近視も読みすぎからくるものだろう。バイトから帰って食事が終わった後、布団に入るまでの間に彼女はいつも壁にもたれ、立てた膝の上に小説を載せサルのように小さく丸まって読みふけっている。小説の内容から創造した世界へ入り込んでいるのだろうか、ピクリとも動かない。彼女の横で僕も読んでみるのだけれど、自分の創造っていっても海外の小説に出てくるような生活を想像しようも無いし、僕には絵のない文章はいつまでたっても字の羅列でしかなかった。僕の前には誰も登場しないし言葉は情景には変らなかった。

 それでも僕は小説を読んだ。幸か不幸か時間はたっぷりある。挑戦と退屈の間を何度も行ったり来たりしていた。彼女がバイトに行き、帰ってきて僕の隙をつくまでそれは続いた。

  


               ○



 原付が壊れてから僕は現実世界に戻ろうとしていない自分がいることを日々感じている。

 別に戻れないわけじゃないが、もう僕は幾日自分の下宿に戻っていないのだろうか。この部屋にいると正確な時間の流れがうまく掴めない。彼女を抱いているときが夜だし、眼が覚めたときもしくは彼女が入れてくれたコーヒーを飲んでいるときが朝で、彼女がこの部屋にいないときが昼だ。そして次第に暑くなるこの気候が夏が来ることを教えている。僕の時間というものを感じる術はこれだけしかなかった。彼女は一応バイトの関係もあって一週間のサイクルで動いているようだが、この部屋にはカレンダーというものが無い。全ては感覚任せだけれどそれをとくに嫌とも思えないのは本当に僕がここにいることを望んでいるからだろうか。けれども自分が最初から戻らないつもりではなかったことは、携帯の充電器を持ってこなかったことから自分自身を疑うことはしなかった。

 今までは無くすと困るように危機感を持っていつも持っていた携帯電話も、この部屋では何の意味も成さなかった。意味なく誰かに連絡することも、つまらないことを長々と話すこともそれはそれなりに大事なことであったようにも感じていた。どこかへ忘れたときの不便さもつい最近までは自分の中に確かに存在していたはずだった。でも今はそれさえも忘れてしまっていた。



                  ○



 あるとき、すべてが寝静まったような夜の底で僕は虫の音のような携帯の最後の音を聞いた。電池切れの音であるはずなのに、それは蝉の一生が終わるときの呻きのような鳴き声に似ていた。思えばこの部屋に訪れ始めた頃は友人達からの連絡がちょくちょくあった。サークルにも参加しないことで僕のことを本当に心配するような電話まであった。それなのに僕は日々蒸し暑くなる夏の夜、彼女の甘い香りや唾液の混じった滑る汗と疼く様な下半身の悦楽の中でそれらすべてをうっとおしいものと感じていた。やがて、だれからの連絡も無くなった。当然といえば当然のことだけれど、そのことが自分にとってどういうことを意味するのか考えるべきであったはずなのだ。それなのにそういう行為を僕はどこかへ捨ててしまったらしい。コンドームやティッシュと一緒にゴミ箱行きになっているのかもしれない。僕の考えや思いはその一部をアウトプット(出力)することを完全に止めてしまったように思う。そして欲望という短絡的な行動への思考と彼女との二人だけの生活を思う思考だけが僕の日常を支配していたのだと思う。僕はその考えだけを欲していた。それがいかに馬鹿げて幼稚な発想であることは言うまでも無いかもしれない。


 ただ、人は無いものばかりを強請ねだる生き物だ。でも欲しがったものを得た時に無くなったモノに僕らは必ず気づく。



                  ○



 僕が故郷を離れ、大学生活の中で築き上げてきた友人たちとの関係は、僕の人生において一番居心地の良い環境であったはずなのに(白昼夢に悩まされる以前までは)。こんなにも自分が利己的でさもしい人間であったのかと、普段なら嫌というほど持て余すはずの自己批判さえこの頃になると少しも沸いては来なかった。それでもどこかに残った、どうにか自分がいた生活、人と交わりのある生活に戻らなければという危惧は存在していたと思う。それが日々薄らいできていることにも恐れはあったはずだ。



 でもそれは自分でも予想できない出来事に襲われることで全く異なった恐れへと変ってしまった。


 それは梅雨の時期のちょうど真ん中辺り、世界中が水浸しなんじゃないかと思うような雨の多い頃の昼時に、僅かな雲の谷間がこの部屋の上を通った日のことだ。


 その日の午後は彼女の買い物に付き合い外に出た。彼女は僕の緑のジャージを羽織り、デニム地のミニスカートに素足にサンダルで出かけた。朝のうちは彼女の髪が幾分伸び随分と目に余るようになったので、最近僕がまた切った。テレビなんかでみる美容師のまねをして切ろうとした。彼女の部屋に櫛はないので指で髪を挟み鋏を縦に使って切ってみた。結局は不ぞろいで、たいしてよい出来ではないけれど、彼女はありがとうといった。僕が彼女からありがとうといわれたのはこれが最初で最後だった。彼女の髪型はショートボブになった。もちろん前向きに考えてのことだけれど。


 買い物の帰りがてら二人で神社のほうへと散歩をしてみた。その日は朝から振った雨のせいで今の時期には珍しく肌寒く、それでいて湿気を多分に含んだ粘り気のある風が心地よく吹いていた。部屋から見る雰囲気と違って林は以外に木が並び揃っていた。ずいぶんと大きな、というか縦に長く伸びた木ばかりだった。神社の境内はそのほとんどをその大きな木々に取り囲まれていた。彼女の部屋の窓からも神社の存在自体をはっきりとは見ることができないほどだ。梅雨曇の陰気な空と林に押さえられて薄暗くなった細い参道を二人で歩く。彼女のサンダルの踵をする音が不思議と懐かしく感じられる。雲の動く鈍い響きが遠くから聞こえてきた。言葉を何一つ発せずふたり歩いていると、鼻先に雨粒が落ちるのを感じた。ふと空を見上げ雨を感じて彼女を見た。彼女はとりあえずあそこまで行こうと境内のほうへ早足で駆けた。僕もそれに従った。

 夕立が糸のような細い雨をつれてきた。

 薄暗く濁った色を見せる空とは対照的に神社やそれを取り巻く木々達は本来の色を取り戻したかのように目に映える緑と匂いを発していた。石畳の上で彼女のサンダルがカラカラとなっていた。

 雨が次第に強くなってきたので、賽銭箱の辺りの雨どいの下に二人で腰掛け、石積みされた道の先をただ、ぼうっと見ていた。雨しぶきの返りが地面の輪郭を奪っている。道の先の石段からは景色があやふやになっていた。


 肌寒さが少し増してきた。彼女の肩が僅かばかり僕の肩に押し付けられたように感じた。

 僕は彼女を引き寄せ手を握った。

 彼女の手は悲しいぐらい冷たくなっていた。


 彼女は何も言わなかった。そしておそらく、何も見ていなかった。無表情の彼女は物言わぬ人形みたいに思えて少し怖かった。


 僕は彼女の温もりを確かめるために不揃いな黒髪に頬を近づけ、彼女の匂いをゆっくりと深く吸い込んだ。

 彼女の温もりを感じながら、ビートルズのRainを鼻歌で歌っていた。


 「誰の歌?」


 「ビートルズ」

 そう答えた後で音楽でさえ聴かなくなってしまったことに僕は気づいた。



 次第に雨はやみ、辺り一面を霧が覆っていた。霧は思いのほか濃く、いつのまにか僕らのいる神社と世界を絶望的に遮断していた。

 僕ら以外のあらゆるものの存在を感じなくなっていた。


 そこは二人しかいない世界だった。


 「真っ白だ」


 この状況がうまく認識できないで僕は数メートル先からは全てが色を失っていることに気付いていながら、それを口にするのに幾分時間がかかった。彼女に対して言ったのでなく、口から無意識に出た言葉だった。

 

 「ここはどこかな?」


 彼女が眠そうな声でそっと言った。その声は僕の体の中から聞こえてくるようたった。

 その声は僕の中でよく響き、僕は頭の中にあるもやもやした物を引き出すきっかけになった。


 「どこかで見たような気がする」


 まだ何も頭の中には浮かばなかったけれど、それには確信めいたものがあった。


 「子供のころの思い出?」


 「少し違う。こういう状況になったことがあるんじゃなく、この場所を、この景色を見たことがある気がするんだ」

それは何よりもリアリティがあった。


 「行ったことある場所?」


 「どうかな、夢で見たのかもしれない。でもやけにリアルに感じるんだ」


 「思い出せないのに、実感だけあるのね」


 「うん、昔じゃない気がする。どこだろう」


 彼女の質問に答えることでこの場所の意味を探ろうとした。輪郭さえ掴めなかったけれど、彼女の言葉が僕にその答えを導いてくれた。


 「きっとこれはあなたの世界よ」


 「僕の世界?」


 「あなたが住むあなたの世界」


 「僕が住む僕の世界」


 「そうあなたの世界、だって誰もいないじゃない」


 「そう、かもしれない」


 不思議と納得できる話だった。


 「ここがそうなのね」


 「そうだね、そうかもしれない」


 「何もないね」


 「何もない、誰もいない」


 「静かね」


 「静かだ」


 彼女が言ったことを考えた。


 きっとこの景色に感じるものは、僕の心のありようだと思う。

 僕は今までずっとここに居たようだ。そして、これからも。

 何もない誰もいない白くかすんだ無音の世界、それが僕の世界ということか。

 自分がひどく寂しい人間のように思えた。いろんなことが怖くなった。

 僕は強く彼女を引き寄せた。彼女は繋いでいた僕の手を強く握った。彼女の手はまだ冷たかったけれど僕には彼女のその行為が嬉しかった。今にも泣き出しそうな気持ちになった。


「ようこそ、僕の世界へ」


 彼女を見ないで言った。白く湿った目の前の景色に向かって。

 寒さは少し増してきていた。

 彼女の頬に触れた。

 彼女は僕の胸元から僕を見上げた。

 僕らは唇を重ねた。

 長く深く、互いのぬくもりを奪い合う様に。

 部屋に帰るまで僕らは口を利かなかった。



 部屋に帰り灯りもつけずたたんでいた布団を引き、互いの眼鏡を外した。


 もちろん、僕が。


 鼻の奥でまだ神社のかび臭さが残っている。寒い中に長くい過ぎたのか、頭が重く、鉛が詰まっているようだった。彼女の肌に触れてもぬくもりは伝わってこなかった。部屋の暗さのせいか今までの寒さのせいなのか、彼女の僕を見る目は焦点を見失ったように真っ黒で瞳には何も移ってはいなかった。そのことを僕はただそうなのだという認識でしか受け入れることが出来ずそのうち頭の奥が痺れてくる感覚を覚えた。それはだんだんと強くなって体中に広がっていった。彼女の股にわけ入って彼女を抱きしめたとき、彼女に触れている部分の感覚がなくなってしまった。ただ体にはゆっくりと温かさが伝わりそれが全身を包んでいった。その温もりが次第に熱くなっていくようだった。彼女に触れている感覚がなくなった後、彼女と僕との境界線を失ったような体はチョコレートのように溶けて混ざり合ってしまう気がした。そこには自分のかたちを失う怖さがあった。いつしか眼の前には日差しの差し込む明るい場所で目を瞑ったときのようなぴりぴりと光の弾けた様な文様が浮かんでいた。それ以外は何も見えなかったけれど、そばにいるはずの彼女が泣いているような気がした。それは自分が泣いているようでもあった。

 この部屋の外ではゴロゴロと遠くで雷の音が聞こえていた。その音はとても遠くで聞こえたけれど、雷は小さく僕の体の中に落ちている気がした。僕は本当に何も見えなくなった状況で彼女の温もりだけは感じていた。彼女の肌に触れていることよりももっと熱く粘り気のある温もりだった。それは波打ち際で感じる波のように一定の周期で寄せては返す、不思議なものだった。体が溶けるイメージが終には顔までを覆って頭の先まで全部溶けた感覚を味わったところで酷い疲労感と眠気がやってきた。



 怖い、自分の枠がなくなるイメージ。



 そしてサクッサクッという硬いものを突き立てるような音が耳の中から聞こえてきた。


 目の前は依然として暗い。

 本当の暗闇だ。これ以上ないくらいの暗闇の中から目を開けると、そこに見えたのは見慣れない天井だった。


 そこは今までいた彼女の部屋でなく、見も知らぬ部屋の中だった。僕は自分がベットに寝ていることに気づく。頭だけを動かして辺りを見渡す。そこはあまり広いとはいえない洋室で部屋全体がよく使い込まれたくすんだ石灰色の壁で統一されていた。

 いつのまにか肌寒さが皮膚全体を包み、じわじわと体の芯まで冷やそうとしている。自分がベットに横になっていた状態から上半身だけ起き上がるとギシギシとベットの軋む音が聞こえた。年季の入った木製ベットならではの音だった。ふと目に留まった壁に埋め込まれたような作りの赤茶色のレンガで出来た暖炉は使い込まれているため炭で煤け、それでいて使われなくなった期間の長さによりそれ自体が石化されているように本来持つべき暖かな質感を失っている。辺りをもう一通り見渡したところで、いつのまにか自分がその部屋の中心に立っていることに気付く。玄関らしきドアは僅かに開かれ、外から吹き込む冷たい風でギィギィと鳴っている。

 僕はベッドから起き上がって、ドアに近づいていく。石でできたような床は非常に冷たく、素足で歩くと痺れる様な痛みがあった。ドアに近づくにつれ外から吹き込む風が強くなる。僕はドアを手のひらで押すように空けた。外は靄でうっすらと白く風が吹くことでゆっくりと辺りが開ける。地面には萎びた草がやる気なく生えている。見えているのは玄関から2、3メートルの辺りまでで、それ以上は真っ白な霧で覆われている。どれだけ覗き込んでもその先は見えてこない。まるで神社から見た景色みたいだった。

 玄関からそっと地面に足を踏み出したところで僕の体は突如重力を失い、ゆっくりと落ちていくような感覚が体を襲い、また僕を暗闇が包む。この暗闇は自分が目を閉じていることだと気付き僕は目を開けた。

 目の前に見えたのはいつもの天井だった。


 体が重い。それが彼女のせいだと気づくのに時間が掛かった。

彼女の不揃いの髪が首元に当たる度に体を揺すった。彼女は僕が起きたことに気づいて、顔を上げて僕を見た。


 僕は呆けたように彼女をじっと見ていた。


 「何、どうかした?」

 彼女は眠そうな目で僕にそういった。


 「さっき、変じゃなかった?」

 

 「何が?」


 「その、抱いていたとき、、、、」

 うまく言葉が出てこなかった。


 「別に。いつもどおりよかったわ。変なこと言わないで、明日もバイトがあるの」

 彼女は強引に僕の腕をひっぱり、その上に頭を乗せて眠ろうとした。


 よかった?

 彼女はそういった。いままで一度も言ったことがない言葉を。

 彼女はセックスについて僕に一切感想を聞いたことがなかった。僕もそんなことを聞かなかったけれど。僕を誘う行為が彼女の目的でその後はどうでもいいんじゃないかと思ってしまうくらい彼女は無関心だったのだ。僕はもう一度彼女を見た。

 彼女は疲れているらしくすうすうと深い呼吸で眠っていることが分かった。僕はさっきの彼女とのセックスと後で見た夢のことが気になってまったく眠れなかった。この部屋ではこんなこと一度もなかったはずなのに。


 ずっと変わらないと思っていたこの小さな世界で何かが少しずつ変わり始めている気がした。それは未来への不安ではなく、すでに決められている未来への確信であったかもしれなかった。でもこの時の僕にはそれを受け止める勇気なんてなかったし、それがあったならこの二人だけしかいないような世界に逃げ込んだりはしなかったはずだ。


 この部屋へ来て何度目かの長い夜がまた訪れている。


 その日の夜更けにはいままでが嘘みたいに雨がやみ、雲はかけらもなくなっていた。

 痺れてきた腕をそっと彼女の頭の下から引き抜き、痺れを取るのに二の腕をきつく揉んだ。眩しいくらいの月の光が部屋中のものを真っ白に染めていた。色を抜き取られたようだった。腕の皮膚には彼女の髪の痕がくっきりとつき、ざらざらした肌触りだった。彼女は死んだように寝ている。ぴくりとも動かない白んだ彼女は、冷たい陶器のように見えた。

 ひどくまとまり難い今日の出来事を必死に考えようとする。

 彼女とのこれまでにないセックスの感覚、ほとんど欲求に任せていたものと違う自分を失うような感覚。その後で神社でのあの奇妙なイメージと重なるような夢を見た。同じような静けさと寒さ、違うのはそこに彼女がいるかどうかだった。この出来事は僕に何を訴えかけているのか。


 僕の中で何がどうなっているのか。考えはまとまりを見せず、ただ時間だけが過ぎてゆく。


 僕はいつもどこかへ逃げていたのか。何から逃げていたのか。そしてここは僕が求めていた場所なのか。

 何も無いこの部屋の暗闇は月明かりですかっりと眼前から消えていたけれど、不安という暗闇はずっと僕の中にとどまり続けた。それでもやはり夜は明け、また朝が来る。



                     ○

 


 それからしばらくはどうということもなく僕の望んだ日常が繰り返されていた。


 この頃なぜか、僕は同じ夢をよく見た。ただその夢は自分の関係ある人たち、もしくは全く関係の無い人たちが登場するわけでもなく、恐ろしかったり楽しかったりもう一度見たいとか、見たくないとかいう解釈のできる夢とは随分かけ離れている。更に言うのならその夢は終わりがよく分からず、夢だとも気づけないまま自分が起きて生活を始めようとしている時に振り返って思い出せば見ていた気がするという類のものだ。それは思い返すほどたいしたものではなくて、ただ自分がじっとぼやけたような景色を見ているだけの夢である。実際何を見ているかは正確には分からなくて、分かるというより感じるという範囲でその視界の向こうには自分の知らない多くの人たちが沢山いることが認識できている。そしてほんの僅かな雑踏の音が自分の耳に聞こえている。その夢の景色は僕の感情に何一つ語りかけてこない。そのことを考え始めた時、僕はふと自分自身が感じることを拒んでいるのではと不安になってくる。その不安はいつも決まって控えめにとどまり続け、少しも大きくはならず絶えず僅かにそこにあるのみである。ただそれは確実に存在していて、少しも消えることが無い。僕はそれを抱えたままただ眼と耳で景色を感じているだけ、そんな夢だ。

 

 そんな夢を見た気がしている今日も僕は彼女がバイトに行っている間の時間をなんとか潰そうとしている。狭い布団の上で窮屈に二人で寝るという行為はかなり体に負担をかけるのか朝から体が硬くなっている様子で僕はじっくりと時間をかけてストレッチをする。痛みが伴わない程度に呼吸をしながら体の各部分をしっかり延ばしていく。しっかりとほぐれた後で腹筋、腕立て、スクワットと基本的な自重による筋力トレーニングをする。最近は殆んど運動というものをしていなかったので、随分とその筋トレがつらく感じている。それでもたっぷり時間が有るので休みながらしっかりと一通りのメニューをこなし、程よい疲労を感じたまましばらく休む。体からは汗が滲み出てきたのでタオルを水で湿らせてしっかりと体を拭き、流しで頭を洗った。

 今日はわりと天気が良好だったため、おばさんが下にいないことを確認してから僕は彼女の部屋をでて散歩することにした。アパートの入り口からは反対側の神社方向へ歩く。アパートと神社を挟む林は木が余りに大きすぎて森と言っても差し支えないぐらいだった。この初夏の最中でも木々の生い茂った下を歩くと随分とひんやりしている。林を抜けた先に石で出来たこじんまりとした鳥居がある。そこを抜けて石畳を歩いてあの日と同じような賽銭箱の横に腰掛けてみる。そこから見える景色はあの時は全く違って見える。本当に同じ場所かと思うぐらい違って見えた。彼女と見た景色や夢で見た場所のイメージはいったいどこから来たものだろうか。彼女の言ったように僕の頭の中に存在する世界だとしたらこの場所から見えたものは僕だけの眼に映っていたのだろうか。彼女は何も無いと言った。それは霧で真っ白になった眼の前の景色だけを見ていったのか、それとも僕の見たものを彼女も見ていてくれたのだろうか。意味のない考えだけが僕の頭の中を回っている。はっきりしない感覚が不安を引き寄せようとしている。無性に彼女を抱きたくなった。彼女のいないこの時間がもどかしく感じたのはこの時が初めてだった。僕は部屋に戻ることにした。



                      ○



 アパートまでたどり着いて玄関のほうに回りこむと、おばさんがいた。犬は連れていなかった。


 おばさんは地面に根を張ったようにどっかりと折りたたみの小さなイスに腰掛け、自分の手に届く範囲にある草だけをぶちぶちと抜いていた。

 僕は少しだけ会釈してすぐ階段を上がろうとした。


 「あんたあの子を殴ったりするのかい?」

 唐突で意味の分からない質問だった。僕は聞こえなかったようなリアクションをした。


 「あの子を殴ったりするのかと訊いてるんだよ」


 「僕は女性に手を上げたことなんて一度もないですよ、彼女がそう言ったんですか?」

 僕は少し大きな声で怪訝な気持ちを前面に出してそう言った。


 「いいや、言ってない。あたしがあんたのこと彼女に聞いたら一言怖い人です、て言ったんだよ。だからあたしはてっきりあんたが暴力を振るってんのかと思ってね」


「女性に暴力なんて生涯一度だって振るったこともないですよ、彼女の顔見て腫れてるとこなんてないでしょ、怒鳴ったこともないですから」


 「確かにそんな声一度も聞いたことないね、なにかあるかと心配してたんだけど、あんたそんな暴力男には見えないものね」



 このおばさんの話す彼女のことは僕の中には存在しない部分だった。このことは僕にとってショックだった。僕の知らない彼女がいた。出会って僅かしか経っていないけれど、彼女は本当によく自分自身のことを僕に話してくれたと思う。そして僕は彼女のおおよその輪郭は掴んだつもりでいた。それなのに僕の知らないところでおばさんに僕のことが怖いなんて話しているとは夢にも思わなかった。



 「前にも言ったが、あの子はきっとここを出てゆくよ。その時あんたはどうすんだい?」


 「わかりません」

 僕は頭の中の不安とおばさんへの嫌悪や彼女への混乱で動揺していた。僕の言葉に呆れた顔で何か言おうとするおばさんの口を塞ぐ様に僕は言った。


 「本当に分からないんです。ここにくるまでには、僕に選択権はなかったようなきがするんです。それは彼女のせいにする訳じゃなくて、何も考えられなくなったんです。この生活が続くならそれでかまわないそう思ってます」


 「ここはあんたにとってそんなに居心地のいい世界なのかい?」

 おばさんは続けた。


 「ここは誰のためにも存在する世界であって、誰のためにもならない世界さ。長くいれば抜け出せなくなる人間もいるし、逃げ出したくなる人間もいる。彼女だってそのこと自体を怖がってるのかもしれない。あんたはそうならないのかい?」



 このおばさんの言う言葉はやはり僕をイラつかせる。話しがどこかに落ち着く前に僕は階段を上がった。



                     ○



 僕は出会った頃からこのおばさんのことが好きになれなかった。正直この世界の不純物だった。二人の関係において僕には不必要と思える話題をいつも僕に押し付けたからだ。

 僕は、将来の不安など毛ほども感じることが出来なくなっていた。彼女の部屋で感じるのは日々暑くなっていることと、尽きることなく突如湧き上がる性欲、疲れによる眠気この三つだけだった。こんなことは生きていた中で初めてのことで、何をどうすることも思い浮かばなかった。出口のない迷路のようだ。僕は不安を感じるようになった。この生活にも彼女の存在にも。僕は意識をしっかりと保つために、本を読み、彼女と出来るだけ話をしようとした。ただいつしが僕は不安を忘れ、この時が永遠に続くような気がしていた。というよりもそんなことさえ何も考えないようになっていた。



                     ○



 この平行世界の終わりの始まりに関しての僕の気持ちを話す。


 物事には始まりと終わりがあって、生きとし生けるものはすべて時の過ぎ行くにまかせて朽ちてゆく。それが単純に終わってしまうこともあれば、徐々に終わりに近づいていくものもある。どちらも辛く悲しい感情を揺さぶってしまう。けれど感情の揺らぎも日を追うごとに薄まっていく。そういうものだと僕は知っている。


 ただそれに気づくのは全てが終わってからだ。いつもこの時の僕は終わりが来るなんて気付けなかった。それはこの世界のこの時が僕には居心地のよい場所だったから。僕と彼女は布団の上で色んな話をした。いままで人に言ったことのない思い出や、自分の存在を証明するための考えなどを。でも、実際に僕らの先について話したことがないことなんて気付けなかった。そこにどんなものが待ち受けているなんて気付けなかった。何度繰り返しても僕は気付けずにいる。


 僕は終わりの始まりを繰り返し続けている。



                     ○



 これは夢のようなもの見たあとの出来事だ。


 嫌な夢を見たような気がする。シャツは汗でべったりと体にはりつき、暑さの不快感をあおっている。Tシャツを脱いで水道の蛇口を捻る。勢いよくでる水に頭を突っ込み、そのまま体に散ってゆく水で体についた汗を拭った。


 気持ちが少し落ち着いて来たところで辺りを見回すと彼女はいなかった。彼女はすでにバイトに出てるみたいで部屋にはいなかった。そんなことはこの生活で初めてのことだったけれど、特に何の感情も抱かず僕は布団をたたみ起きることにした。


 窓から外を見下ろすと草むしりするおばさんがいた。いやな雰囲気があった。

 ただ、何故か僕はTシャツを着なおしジーンズを穿いて階段を下りた。

 いつもは階段を下りてくるとこちらが何か言うまでこっちをジロリと見続けてくるはずのおばさんは振り返らず草むしりを続けている。僕はおはようございます、とだけ言って横を通り過ぎようとした。


 突然くるっと振り返るおばさんは黒目がいやに大きく、口を大きく横に開き舌をベロン、と出していた。その舌は変に長く顎くらいまで垂れていた。その顔に僕がぞっとするのと同時に僕はおばさんの両手で強く引っ張られ、しりもちをついてしまった。涎を垂らしながら僕に顔を近づけたおばさんは息荒く悪態をついた。


「毎日毎日さかりのついた犬みたいにセックスばかりしてどうしようもない存在だね、あんた。彼女はいったいあんたのなんだ。ペニスを突っ込むための穴かい?」


 獣のような匂いと口から垂れる涎の匂いが鼻を突いた。僕は強烈な悪臭に顔を背けようとした。突然おばさんの女性とは思えない腕力で顔をつかまれ無理やり目と目を合わされた。


「どうした答えられないのかい。この世界があんたの都合のいい世界ならあの娘はあんたの生活の付属品だね。性処理の道具だろ。それぐらいにしか思ってないんだろ」


 ギリギリと絞まるおばさんの手の強さに顔が引き攣る。匂いはさらに不快になってくる。おばさんの腕の力は以上に強く、僕の両手で振りほどこうにもどうやっても外れそうに無かった。不気味な逃げ出したい衝動と何か強烈な怒りが僕の中で暴れだした。何とか起き上がろうと両腕と背筋の力で地面を押そうと暴れていた。その時、地面についた左手に何か硬く冷たい物体の感触があった。僕はそれを握りつぶさんばかりに握り締めおばさんの側頭部を強く打った。おばさんの顔は一瞬僕の視界からそれまた戻ってきた。おばさんの目は宙に浮いていた。それでも僕の顔を挟んだ両手は離れなかった。僕は続けて何度も何度もおばさんの頭を左手に握った何かで強く殴った。二度三度と殴るにつれ、いつのまにか僕は自分の意思でそれをとめることができないでいた。まだ僕の顔から両手は離れていない。それでも押さえつけられている感じは少し弱くなってきていた。勢いをつけて強く殴ったせいで横倒しになった後、今度は僕がおばさんの上に馬乗りになってまた何度も左手を打ちつけた。空を見たおばさんの両目は焦点が合っていないのに、いつまでも僕を見続けている気がした。それがまた僕を恐怖させた。僕は左手に持っていたものを今度は両手で握り、おばさんの顔の中心に向けて振り下ろした。体が上気して汗が背中を伝っていた。それでも体の芯は寒く震えるほどだった。そのうち、おばさんの両手がいつのまにか離れているのに僕は気付いた。僕の両手と握り締めていたものとはひとつのものになってしまったように引き離すことができないでいた。ゆっくりと左手の上に重ねた右手を離し、ついで左手の指を力いっぱい伸ばそうとした。ゆっくりと伸びていった5本の指からぼとっと硬い物体は地面に落ちた。その物体は何かよく分からなかった。何であろうが全体にべっとりとついた血のせいで認識することは不可能だった。両掌を見ながらゆっくり曲げ伸ばしをする。耳には先ほどまで圧迫されていた感覚があった。体がそのことを恐れてか視点をあわせようとしなかった存在、自分が馬乗りになった人体の顔にゆっくりと焦点を合わせてみた。おばさんの顔であった部分は渦上にめり込んで真っ黒だった。両手は大の字に開かれていた。そのものの生き物の熱は全く感じることはできなかった。覗き込んだ顔の渦はとても深く地球の反対側まで続いている用に感じられた。


 僕はゆっくりと立ち上がった。少しでも気を抜くと膝が抜けてその場に崩れ落ちそうだった。蝉の声が聞こえた。その骸をそのままにふわふわする足取りで僕は階段を上がった。手についた血がドアノブにつかないようにして部屋に入った。自分の顔を確認するものは何一つこの部屋にはなかった。流しにたって肘を使って蛇口を開き手についた血をとろうとした。洗っても洗っても血は取れなかった。手を執拗に洗っているときに自分のしたことの大きさを知らせる正常な感情がゆっくりと近づいてきていることが分かった。遅れてきた恐怖が足の先を伝って近づいてきている。膝が震えだした。睾丸がきゅっと締まってきた。なにか今にも笑ってしまいたい衝動に駆られた。頬がひきつる感覚を感じ始めたときに僕は自分が目を閉じていて、辺りが真っ黒であることに気付いた。あるはずの体を感じることができないでいた。突然左胸の辺りが震えだした。そっとめを明けると彼女が僕を心配そうに見ていた。


 「うなされていたけど、大丈夫?」


 体の痛みがある首から背中が張っていた。自分の状態を認識する。僕は彼女の部屋の流しの前で倒れていた。

 彼女が何かを言っているがそれど頃ではなかった。僕は弾けた様に目の前に両手を持っていった。

 血は、両手についた血は?

 彼女が帰ってくるとき死体は?


 いろんなことを同時に考え始めた僕の頭の中に両手には血が全くついていないことが伝わるまでに随分とかかった。


 これは例の白昼夢のようなものか。しばらくなかったのに。

 彼女は酷く心配していた。

 僕は寝不足でこんなところで寝てしまい、変な体勢で寝たせいで悪い夢を見たのだろうといっておいた。

 どうやは僕は本当にあのおばさんのことが嫌いらしい。

 できれば二度と会うことがないようにと祈った。


 その望みが叶えられたかのように、僕はおばさんとはずっと会わなかった。

 


                 ○



 この白昼夢は自分が彼女と今の生活を望む気持ちが入り混じったものなのだろうと思うほかはなかった。そしてこのことを僕は彼女には言わなかった。なにより僕は今の生活が失われることを恐れていたように思う。



 彼女の別れ話を聞くまでは終わりが来ると思わなかった。本当に思わなかった。


 そして夢と白昼夢が僕を苛む事も何一つ疑わなかった。


完読感謝。続きマス。

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