3.性欲と裸体と眼鏡
4話目デス。読んでやってクダサイ。
何かを振り返るとき(それはもちろん、過去を振り返るという意味で)、憶えている内容よりも憶えていないことに僕は注目する。そして自分の過去の中でところどころ記憶がごっそりと抜け落ちていることに奇妙な恐れを抱くことがある。
それはその部分に何があったのだろうかということに対する恐れでなく、結構な量の記憶、この量というのはもちろん主観的ではあるけれど、それが抜け落ちているはずの自分がまったく普通に生きていけていることに対してである。僕が僕自身であるという認識は今まで生きてきたことを過去から現在まで経験し記憶しているからこそできることであるはずだ。記憶喪失患者の自伝的本や再現ドラマでもあるように記憶が喪失した人間は自分が誰であるかを認識できない。そこに残るのは自我、自分が自分であることは認識できる。それは記憶を無くした瞬間から新たな記憶、過去が出来上がってくるからに他ならない。
そこに見えてくるものは違う自分の始まり。
例えば、痴呆症。
現在の記憶が飛ぶ。そして過去に遡った記憶が突如として湧き上がる。
そのときは昔のその人が覚えているところまでの時代の自分になってしまう。そうなったときには、それ以降がまったく消えてしまう。死んだはずの誰かをどこにいったんだとか、まだ生きている時代の記憶で生活してしまう。実際症状が重く忘れている期間、それが取り戻せないとしたらそれは昨日までしたその人が消えてしまうことに等しいんじゃないだろうか。
思い出せないだけで消えてはいない記憶の部分それは必ず存在する。例えばその消えていない部分に現在の自分が落ちたとするなら、僕が僕であることは消えてしまうのではないかと考えてしまう。
振り返る自分はいつもどこか自分とは違う人間のような気がする。考え方もモノの見方もすべてが別人のそれであるように思えてしまう、そんなことがたびたびあった。
それは随分と若い頃の話だ。弱く小心な自分を隠そうと必死になっていたことのことだと思う。誰かから何かを見つけられることを恐れ、自分の中に誰がいて、何が潜んでいるのかを恐れてもいた。そうして生きてきて僕はよく思う。
隠された僕はどこにいったのか?
僕がいつ違う僕となったのか?
そして隠されもせず、消えもしないで僕の目の前に浮かぶ彼女もしくは彼女との生活、そこに生きている僕。今も消えず、いや消せず色あせもしない世界、そういったものが僕の中に存在する。
○
そんな世界に住んでいる彼女について僕はいま話している。
○
何度思い返してみても第一印象としてはまず、彼女は髪型が変だ。
以前にも言ったが、彼女の髪はボサボサで僕に掃除の道具を連想させる。この部屋に来る前までは彼女は結構髪が長かったらしく新しい生活へのケジメなのか、この部屋に住み始めるその日に自分で髪を切る(どこにでもある一般的な鋏で)ことにしたそうだ。その成れの果てが僕と出会ったときの髪型だった。その彼女の髪が伸びてきたので一度僕が切った。とは言っても彼女の髪型の尖ったところを切り、全体に丸みをもたせ、斜めに切り揃った前髪のラインを真っ直ぐにし、日本人形のようにベッタリと厚みを持った前髪を鋏を縦に使って少しすいただけだ。結局普通のおかっぱ頭になったけれど、彼女は鏡を見ることもなくただ両手でわしゃわしゃと触った後で頷き、いいと思うと一言だけ言った。自分の髪型を見るための鏡は部屋のそとにある共同トイレの洗面台についているだけで、彼女の部屋にはなかった。その鏡でさえ鏡を形成しているガラスの内側から曇っているらしく、鏡の中の世界はシャガールの描く絵のように幻想的でいつもモヤモヤと霧が掛かっていた。彼女がそこに映ると随分と昔に描かれた肖像画のようにぼやけている。彼女はバイトに行く前に一度そこに自分を写し、手櫛で髪を気持ち直して出て行った。それ以外では彼女が鏡を見ていることを僕は一度として見たことがない。
○
再び彼女の部屋に訪れたときから雪崩のようなほとんど否応ない力、彼女の誘惑もしくは僕自身の有り余る欲求によって僕自身の生活の流れが変ってゆくのだけれど、僕は暫くその力に抵抗を見せようとした。幼稚な強がりだったとしても、それを認めるのは難しい作業だった。なぜならその強がりは他人に見せる(この場合、彼女)ためでなく、自分自身に示すためのものだったからだ。己が理性をもって自らの行動を構築しているという態度が過去の自分と決別しているという何よりの証明になっていた。もちろんこれもまた、自分自身に対しての証明でしかないのだけれど。それが奇妙な女性との出会いでこんなにも脆く崩されるとは(もしくは崩れるとは)思っていなかった。その原因の中核が理性とはほぼ対極にある欲望であるのだから始末に終えない。
彼女を抱いた日は自らがしたことの意外さとそれを自分の中でいかに昇華するかということに随分と悩むことになった。僕が理性の外に飛び出し、再びこの現実を取り戻した後、僕は彼女の部屋を出て自分の下宿へと帰った。
思い出しただけで自分が恥ずかしくなることがよくある。そのときのことは今までで一番だったように思う。彼女の細く華奢な体がイメージほど骨ばっていないで柔らかかったことや形のよい乳房の温もりを思い出すことよりも、自分が何か他人の前で普段出すことも無いような自分をさらけ出していたことに対する恥ずかしさでいっぱいだった。
それでも僕はまた彼女の部屋を訪れることになった。彼女は僕が気恥ずかしさの中で服を着ている傍で悪戯な笑みを見せながら、「悪いけどまた明日来てくれるかな、結局お金返してないし」と言った。
僕はその言葉に抗うことはなかった。
ただ、次の日から僕は彼女の部屋を訪れ、コーヒーを入れる彼女の姿を眺め、彼女の一方的な話を聞き、それが終わると今日はもう帰るよと言って部屋を出て原付で自分の下宿に帰るということを単純に繰り返した。その繰り返しがいったいどういうことなのかを僕は何も考えなかった。それを考えることが僕自身を今までに無かった変化へと引きずり込むきっかけになってしまうような恐れを感じていたからだ。
でも、そんな無駄な抵抗は彼女によってすぐに打ち砕かれることになる。
いつものように彼女の言うことを聞きいている間にいつのまにか生まれた沈黙の中で、久しぶりに彼女は僕に質問を投げかけた。
「あなたは何故自分ことを言おうとしないの?」
「結構話している気がするけど」
「わたしが聞いたときだけでしょ」
「そういえばそうだね」
「それは何故?」
「なぜ?」
「私が聞いてるのよ」
「分かってる。自分に聞いてるんだ。何故かって」
「わたしは何でも話してるわよ、あなたに」
君が勝手にしゃべったんだ、と思った。
それでも彼女の言葉の中にはうっすらと怒りのようなものが含まれていることが分かっていて、なんだか酷く後ろめたい気持ちにさせられていた。僕は言葉を選んだ。
「昔から苦手なんだよ、自分のこと話すのって。どこから始めてどこで終わるのか、結局何が言いたいのか、そんなことがまとめられないんだよ」
ひどく言い訳くさい言葉だった。それが彼女の望んだ言葉でないことは明らかだった。彼女は何故こうも一方的な考えを押し付けるのだろうと思う。でもその言葉や率直な態度に僕は腹が立つよりも先に動揺してうまく考えることが出来ないでいた。
彼女はそれ以上何も言わなかった。彼女と僕がした唯一の喧嘩だった。でも実際はこの喧嘩は彼女の作戦だったような気がしている。僕がまだこの世界(単に六畳ほどのボロい部屋に過ぎないが)に入り込むことを恐れていたことを見透かしていたかのように、そしてそれが無駄であることを知っているかのように。僕は随分と後味の悪い気持ちで再び自分の下宿に帰った。
○
僕は一週間ほど彼女の部屋へ行くことが出来ないでいた。そうなることを彼女には伝えておいたのだけれど。彼女は電話というものを持っていなのだ。連絡をとる必要のある人がいないのだ、持つ必要もない。彼女のいない生活は何か不思議なものだった。それまではじっと自分だけの生活にどっぷりと漬かっていたはずなのに。自分の下宿に帰って独り布団の上に寝転がり、彼女の姿と言葉、アノ部屋を思い出す。この部屋とアノ部屋の違いはいったいどういうものなのだろうと思う。遠くにあるという感じではなく別の世界にあるように感じる。そして何より彼女が存在している世界と存在していない世界ということが非常に大きなことのように感じる。そう考えていくごとに時間というものがとても遅く感じられてくる。自分の中にこらえようもない何かに対する飢えと渇きがきていた。今思い出しても彼女と話したような内容のことは自分の中だけにしまっておいたようなことだった。ただ僕はそれを彼女に話してしまうことで自分が変わり始めているのかもしれない。もしくは単純に僕の性欲の飢えが彼女に向かっていたのかもしれない。
どちらにしろ、このときの僕は色んな意味ですごく彼女を求めていた。すごく彼女に会いたくなった。
○
僕が彼女の部屋に行くと、彼女は部屋の隅でこれ以上ないくらいに小さくなって置物のように横になっていた。彼女の傍には本が散乱していた。
彼女は「おかえり」、と言った。
意外な言葉だったけど、反射的に僕は「ただいま」、といってしまった。
彼女はそれから一言も口を利かないままゆっくりと立ち上がり僕から背を向けて湯を沸かし、コーヒーを入れる準備を始めた。
畳一畳ほど離れ流しに立つ彼女との距離がひどく遠くに感じられる。
何か息詰まったような空気感と彼女との関係に動揺した僕は、堰を切ったように彼女と会わなかった一週間のことをべらべらとしゃべった。そこに内容なんて全く無く、ただ一日目から順にその日したことあった出来事単純にを話した。話さないわけにはいかなかった。彼女は何も言わなかった。そしてまたコーヒーを入れようとする。
その姿に以前見たときのほっとするような気持ちは沸かず、ただただ小さな子供の頃に感じたことのある気付けば周りに誰もいなかったときのような不安が僕を襲った。
そんな僕の気持ちをどうしようもなく揺さぶったのは、彼女がまたコーヒーを持って僕のすぐ傍へ座るという行為だった。僕らは無言でコーヒーを飲んだ。
その日、僕は自分から彼女を抱いた。なんだかひどく焦っていた。一週間空いた時間を必死で取り戻すように。彼女がどういう表情をしているかなぞ気にしている間がなかった。
気がつくと僕は疲れて寝てしまっていた。窓越しに月が見えた。そして彼女は僕に背を向け、月と向かい合うように静かに眠っていた。僕はそっと布団を出て部屋の隅にある玩具みたいな小さな冷蔵庫からミネラルウォーターをだしてごくごく飲んだ。冷たさが喉に心地よかった。僕は深く息を吸い込み、ゆっくりとお腹から空気を吐き出した。自分の体がこの部屋に馴染んだ気がした。
彼女の背中をじっと見つめた。贅肉のまるで無いシャープな背中だった。背骨のラインが深く凹凸をだしている。僕はその背中を見ながら、彼女が起きていることを感じることができた。彼女はピクリとも動かなかったけれど、この部屋の空気がそれを知らせていた。冷蔵庫の横の壁にもたれるように座り、僕は言った。
「君は僕がいない間、何をしていたの?」
「バイトして本を読んで、その繰り返し。他に何もないのよ、ここには」
「そう…」
掛けられた布団をずらさないように上手に振り返って彼女はいたずらに笑っていた。いつもの彼女だった。
「わたしとセックスしている時のこと考えた?」
「考えた。ずっと考えてた」
彼女は肩肘をついて手のひらに頬をのせ、その姿のまま話し出した。
「あなたにはまだ隠している何かがある気がする。それを表に出されることを嫌がるほどの何かがね」
それは確かに存在する。ただその隠していることは僕自身そのものなのだけれど。彼女は話を続ける。
「少なくともあなたはワタシのここへ来た理由を知っていて、ワタシはあなたが何かを隠していることを知っている。それが私たちが他人でない関係にある唯一の共通のもの。」
それ以外の体の関係はどうなのだろうかとも思うが、僕は軽く二、三度肯き同意する。
「あなたにも今までつらいことがあったと思うわ。でも、ワタシにもそれはあったのよ。他人には何でもないことにしてもね」
「そういう気持ちわかる?」
「わかるよ」
月夜の仄暗い中で僅かに微笑んだように見えた彼女は布団の中に僕を向かえ入れようとしているように感じた。僕は彼女の隣へ潜り込んだ。彼女は僕の肩の辺りに頭を乗せ、もう一方の肩を掌で掴んだ。僕はじっと天井の方を向いていた。
「ねぇ、人生はやり直しがきくと思う?」
「犯罪者みたいな台詞だ」
「結構まじめに話してるんだけど」
「ほんとに犯罪者なの?」
「くだらないこと言わないで」
冷たくあしらうような声で僕にそう言った彼女はほんの少しだけ笑って見せた。
それを僕がこの眼で感じることが出来たことが、彼女との距離をうまく縮められた理由だとは思う。
「失礼。わかった、まじめに答えるよ。人生にやり直しなんかきくわけないよ。生きていくなんてコトはそれ自体で周りと嫌でも関係を持っていくということだ。そうであるならば、やり直すということは自分の関わってきた人たち全員の人生をやり直すということになる。そこに個人的な思いだけですべてをゼロにすることは不可能だ。もし誰かを殺めたとして、やり直すなら死んだ人間が生き返らなければやり直すことにはならない。誰かを傷つけたなら、その傷が回復するのではなく傷自体が無かったときに戻らなければやり直すことにはならない。これはやり直すという言葉のみを正確に捉えた場合のことだ。ただ何か失敗や間違いを起こしたとして、ただ後悔するのではなく反省をして次に生かそうという気になるなら先の人生には望みがあるのかもしれない。それでもその時失ったものはやはり戻らないけどね」
せっかく彼女に近づいたような距離感の中で、何故こんなことをいったのだろうと思う。悟りきったようなスカした台詞だ。随分と馬鹿馬鹿しい言葉を思いついたものだと自分でも思う。彼女はそれに同意も反対もしなかった。僕は不安になってまた彼女を抱くことになった。夜が明ける頃には眠りに落ちた気がする。
○
よくよく考えてみれば実際のところ、今まで持っていた他人の僕との一方的な距離感の関係はこと頃の彼女との奇妙でやらしい生活によって見るも無残に打ち砕かれることになったのだと思う。
○
彼女との生活について話す。
こうして出会った頃の僕の生活は自分の部屋と彼女の家を往復する間に行われていた。
彼女と僕との生活はいたってシンプルにかつ、ワンパターンに彼女の部屋においてのみ続けられた。
本当にこの部屋には何もない。
そこには六畳の上にたくさんの本と小さな布団と二人と、そしてセックスしか存在しなかった。
部屋にいて僕らはよくセックスをしたが、始める―求める―のはいつも彼女の方からだった。いつも決まって彼女は僕にキスをする。彼女はいつもさりげなく、僕の隙を突いて、僕の死角を突いてキスをする。僕が横になろうとする時に、雨が降るのを気にして窓を閉めようとするその時に、僕が帰ろうと玄関のドアを開けて彼女にさよならを言おうと振り向くその時に。それには何か捕食されるようなイメージがあった。いうまでもなく、僕が食料で彼女が狩猟者である。僕と彼女の両方とも眼鏡を掛けている。そのせいでキスをしている間、眼鏡がカチャカチャと顔に当たって痛いのだけれど、彼女は全く気にもしていないようだった。なので、そういう時は決まっていつも僕が自分のと彼女の眼鏡を外した。僕は彼女の家に行く度、眼鏡と外した。しかしながらセックスにおいて彼女が行動するのはキスをする時だけだった。それはまるで僕の欲望を湧き出させるためだけのように、欲求という蝋燭に火を着けるマッチのように(後は僕が燃え続けるだけだ)、彼女は僕に身を任せるだけだった。それに気付いたところで僕は抗うことは出来なかった。そして僕という蝋燭はその時々に持つ長さの限り、火の消えるまで燃え続ける。
実際、いつも僕は興奮した。そして僕は欲望のまま、その尽きるままに自分を解放した。僕の目標のない学生という時間を持て余した身分と、彼女の何もない独り暮しの状況が奇しくも僕に僕自信も見たこともなかった一部分を見せることになる。
端的に言えば、その六畳の畳の上で僕の性的欲求の全てが明らかになることとなった。
○
人は生まれでた時からストレスを受けて成長する。産まれた時の人間は中心から外へと四方八方に流れ出る欲の塊といって良い。その欲の流れが外的な障害、いわゆるストレスによって色んな角度から接触を受け、押さえつけられながら人は成長する。押さえつけられた部分によって外部と自分との距離を知り、自分を知る、つまりは自我を得る。この内側の欲と外部との境界線が人一人の存在といって良いものでそれがひとの性格でもある。欲望のまま動くようだ、と言われるような人は成長の過程である部分にその境界線を引くことが出来なかったからだとも言える。僕は今まで感情や欲望を単純に人前に現せるほうではなかった。それによって損をすることはもちろんあったけれど、自分が自分のままでいられるという点では、それに納得できていた。
この時の彼女との行為は僕に自分というものの境界線に大きな欠落があるのではと思わせる事となった。彼女がバイトから帰ってきた後、そしてバイトのない週末の間、僕らはその時間の殆どを布団の上で過ごした。
つまりはそう言うことなのだ。
○
この部屋のいろんなことを後からだんだんと知っていくほどに僕は知ることの意味を失ってゆくように感じる。そして自分というものが自分自身のことに対していかに無知であったかということを思い知った。
彼女の部屋のカーテンは初めてあった日以来閉じられていない。
春がしぼみ始め、夏がゆっくりと咲き始める気配を感じた。エアコンのない彼女の部屋で窓は開け放たれていた。
○
梅雨に入った。
長雨の止む間際のさあっと細かい幾本もの糸を垂らしたような雨。しっとりとしてそれでいて生温い。僅かに重く暖かい半身。雨のやんだ灰色の景色から微かにのぞきだす青い空、窓は開いていた。覆いかぶさるようにして寝息を立てている彼女のぼさぼさの髪越しに見えるその青がオレンジに染まるのをじっと眺めていることがよくある。そしてこの部屋について考えた。何の変哲もない古びた正方形の部屋。いつしか僕はこの部屋の一部となった。ここに来てからしばらくの間は僕にはそのことについて考える隙間なんて何一つなかった。僕が見ていたのは彼女の顔、彼女の肌、胸、お尻、陰毛、吐息、彼女から覗くひとつひとつを僕はゆっくりと自分の体に染み込ませるように手や舌で触れ視覚から来た彼女の情報を触覚や記憶に取り込む作業に没頭していた。そして流れ込むように眠りに落ちていく。そしてまた目を覚ます。僕はそれを繰り返す。
ついこないだまで繰り返されてきた退屈な日常とはかけ離れた繰り返すこの日常、この今の生活が退屈に感じる日もやがては訪れるのだろうか。
僕は寂しいと叫んでは何かの一部になろうとする。そして自分が一部となった世界が退屈だと叫びまた飛び出していく。僕は孤独を持ってしか他人を必要と出来ず、退屈をもってしか自分を認識できない。この繰り返しの人生を今の彼女との生活が変えてくれるのだろうか。
彼女の頭が揺れ、僅かに触れる彼女の髪の毛をこそばゆく感じて体がひきつる。彼女の手が僕の胸辺りにそっと置かれる。
彼女の手は温かい。彼女は自分の体を僕に押し付けるようにして首を持ち上げた。
「何を見ているの?」
「部屋の中」
「狭い部屋ね」
「この部屋は確かに小さいけれど、考えようによっては小宇宙のようにも思える」
疲労と欲求発散の充足感による気だるさの中で寄り添い丸くなった彼女の耳元で僕は恥ずかしげもなくそう言った。どんな愚にも付かない考えも想像も浮かんでは消えてしまう頭の中の出来事のように僕は素直に口に出した。誰もいない内側の世界なら何を言っても何を考えてもだれも批判しないし誰も笑わないのだ。
彼女はこちらを向かない。部屋の窓側の隅っこをじっと見つめたままのようだ。
「たまに変わったこと言うのね。哲学みたいなこと言う」
「これをもし哲学というなら、誰でもあると思うんだけどな、自分の哲学みたいなものは。他人には言わないだけで」
「あなたってそんなロマンチストだったっけ」
声は鼻に詰まってこもって聞こえた。
「まさか。無限に広い宇宙をこの小さな部屋に見出そうとしているんだ。僕はれっきとしたリアリストだよ。ただそれは僕の内側にあったんだ。外側にあると同じぐらい広く、先の分からないくらい深い深い欲求の宇宙が」
「性欲の宇宙?」
肩越しに動く彼女の表情がいたずらににやけたのがわかった。
「そう、だね」
言ったことが本当に馬鹿らしくなってくる。僕は本当に馬鹿なのかもしれない。でもこの時はそれでも良かった。
「私とセックスしている間にそう思ったの?」
「そう思い知ったんだよ」
「衝撃的だった?その自己性欲の発見は?」
「衝撃的自己発見と言って欲しい」
「じゃあ、びっくりしたワケ?」
「うん、それに恥ずかしかった」
「今、布団も掛けないで全裸で寝ていることより?」
「好きな子に書いた手紙を人前で読まれることぐらい」
「そんなことがあったの?」
「例えだよ」
「じゃあ、居眠りで電車を降り逃すくらい?」
「悪くないね。」
そう、僕があの電車を降り過ごすことがなければ、今のこの生活は考えられない。
僕はあの白昼夢の中の生活が繰り返されていたとしたら僕はいったいどうなっていたのだろうか。
たわいもなく行き場のない二人だけの会話はセックスと彼女のバイトの間において絶えず続いた。この部屋には過去も未来もなかった。現在の今だけ、そこにしかなく、そこにしかいられなかった。
セックスという行為でのみ体の中のエネルギーを使い果たしている気がしていた。それでも何かを失っているという感じはまるでなかった。それだけこの頃の僕には他に何も持たなかったということなのだろう。
○
しばらくの間気付かなかったけれど、僕はここにくるまで悩まされていたあの白昼夢のようなものを見なくなっていた。自分の下宿にいるのは授業に必要な荷物を取りに行くときだけだ、そのせいであるのかもしれない。それにこの彼女の部屋でいくら白昼夢を見てもすべては許されるものであるようにも思っていた。もちろん、確信や自身は毛ほども無いが。
○
彼女の住むアパートについて話す。
彼女はこのアパートには彼女以外に何人か住んでいるといったけれど、僕がいる間や彼女の部屋へ行く途中や帰る途中、その時々に一度してここの住人に出会ったことがなかった。ここに来はじめた頃はそんなことを考える余裕など僕にはなかった。ただ、この部屋にいて夜中に窓を開けて月の出た蒼い空をぼんやり見ていると恐ろしく静かで人の生活感や雑音がまったく聴くことができなかった。そのせいもあり彼女が寝息も立てず死んだように寝ているときには、何もない月の上から独り地球を眺めているような気持ちになった。
そして朝を向かえ、まどろんだ浅い眠りの泥に蹲っていた僕の頬がちりちとガラス越しに遠慮も無く射し込む日差しに焼かれている。目を開けようものなら刺すような強さを持った光が僕の網膜を襲うことは分かっている。僕はぐるっとうつ伏せになり、頬の熱さや顔にまとわりつく眠気の残りを剥ぎ取るように両手で顔をごしごしと拭いた。残った眠気を振り払うように猫みたいに体全身を伸ばした。僕が起きると必ずと言っていいほど彼女は流しの前に立っていた。
彼女のコーヒーを入れる後姿をじっと眺めながらここに住む住人のことを聞き出そうとした。
「以前にも言ったけど、本当に誰もいないような感じがするね」
「そうね」
「君の隣に住んでて、出て行った男の人の他に住んでる人にあったことある?」
「あるわよ、一階に住んでるおばさん」
「他には?」
「その人だけ、他の人には会ってない」
「でも、もう何人かいるんだろ?」
「おばさんがそう言っただけ。直接見たわけじゃないの。その必要もないし」
「会ったのは1階のおばさんだけか」
「そう、大家もどっか遠い場所に住んでて、このアパートの管理はそのおばさんに一任されているの」
「よっぽど信頼されてるんだね」
「どうかな、興味ないわ。私に必要だったのは人間関係じゃなくて場所だったんだもの」
彼女はこういうときいつもの冷めたような顔で、抑揚のない会話をする。彼女の笑顔は僕から何かを聞きだすときの悪戯な微笑と自分のことを話すときの自嘲的な悲しげな笑み、そして僕がつまらない話で彼女を笑わそうとするときにみせる僕の話がどれほどくだらないかを表現したかのような蔑んだ笑みだけだった。
彼女の考え方は極端であったけれど、僕はこの現状を二人だけの世界をそれなりに楽しんでいたせいで特に気にも留めてなかった。布団の上での僕らの声が部屋から漏れ出ている心配は以前にティッシュとともにゴミ箱へ捨てた。すでに自分に必要でないものを気にするような社会性は存在していなかった。それはどこかで望んでいたものかもしれない。今まで自分が望んだものが手に入った経験など、何度振り返ったとしても思い出せもしなかったのでそれは僕にとって嬉しいことでもあった。
○
でも、そんなものは意外なほどすんなりと打ち砕かれるのが世の常である。
なぜならば、望みを砕くような変化の始まりはそれに気付くずっと以前から訪れているものなのだ。
○
午前中のうちに彼女と二人で出かけようとしたとき階段から降りるとそこに彼女以外の住人が初めて顔を出した。僕がその突然の登場に驚いている横で彼女は当たり前のようにその住人に挨拶をした。
「こんにちは」
五十代ぐらいのおばさんだった。
おばさんは恰幅がよく、大型哺乳類を思わすような体型をしていた。
膝が悪いらしく、右足を引きずるように歩くため、その動物めいたイメージはより強いものとなっていた。
髪の毛にはたくさんの白髪がのぞき、伸びた髪を後ろできっちりと結び丸め込んでいた。
おばさんはレンズの黄色い眼鏡をかけていた。
顔は浅黒く、肉体労働者のように長時間陽に照らされた時にできるような深く刻まれたしわが印象的だった。このおばさんにはどことなく非日常というか、影のある感じがした。人を寄せ付けない、信用しない警戒心の強さが体から出ていた。しかし、それはとげとげした他人を不快にするようなものではなかったけれど、相手を好き嫌いではっきりと選り分けようとするタイプのものだった。それでも僕が感じた最初の感情は嫌悪感だった。それが何故かどこからくるものかはこのときは分からなかった。結局は挨拶ひとつ(彼女が一方的にいっただけでおばさんは一言もしゃべらず笑顔ひとつ見せなかった)しただけでおばさんの横をするりと抜けていった。僕は半ば慌てて彼女についていった。ここの住人でない僕にもおばさんは一別もくれることは無かった。僕は彼女に追いつき、おばさんとしっかりとした距離が空いてから質問をした。
「あの人が君の言ってたおばさん?」
「そう、見たのは随分久しぶりのことだけど」
独特な風貌をもったあの人物に対して彼女はまったく興味を示してはいないようだ。気にしている僕のほうがおかしい気分になるような言い方だった。
ここに新たに登場した人物はその日を境に少しずつ僕らの生活に現れだした。僕はそれに関してできるだけ気にしない様にした。
○
その変化とともに僕の生活も少しづつ変わり始めていた。
大学へ行くことへの理由も行かないことへの理由もすべてがどんどん曖昧になってきていた。ただ僕は彼女の部屋へ行くことが選択肢の一番目に来ていることは間違いない。それがただ自分の性欲を満足させるといういやらしい理由が多分に含まれていることは疑いようも無いのだけれど、それだけでなく彼女自身とこの部屋をなにより僕は気に入っているのだと自覚するようになっていた。
週末になり僕は出なくてはいけない(出席が成績にかかわる)授業だけを終えるとさっさと自分がいた現実的な世界を離れて彼女の部屋へ向かった。そして原付を止めて彼女の部屋へと続く階段に向かおうとすると一階に並ぶ部屋の一部屋の玄関の前でごそごそと動く肉の塊を見つけた。あのおばさんだった。おばさんは地面にまばらに生えた雑草を抜いているところだった。それを発見したと同時になんだか場の空気が酷く居心地の悪いものになっていることに僕は気付いた。そして早くこの場から離れてしまおうという気持ちで階段へ逃げ込もうとした矢先、地面に蹲っていたおばさんの顔がぬっとこっちを向いて立ち上がった。
少しとはいえ大学生活という現実的な世界を過ごしてきたせいか、彼女と二人だけのような無防備な状態でおばさんの前に立たずにすむことができた。自分の動揺や小心さを見抜かれぬよう無表情で口をまっすぐ一文字に閉じ、僕は軽く会釈した。
「彼女なら出かけていたよ。買い物に行くと言ってた」
「そうですか」
僕は彼女の部屋へ早く入りたかったけれど、おばさんは老朽化したアパートの階段に折れるんじゃないかと思うほどの大きなお尻をどっかりと腰を落とした。おばさんの横を通り抜けるスペースは人一人分なかった。おばさんはタバコを取り出し、火をつけ中身を吸い取る程の勢いで吸い、魂まで抜け出てるんじゃないかというくらい沢山の煙を吐いた。
おばさんは僕を見た。
「あんた、あの娘の彼氏かい?」
「どうでしょう?」
「わたしが聞いているんだよ」
「それに近い存在だと思います」
「付き合うまでいってないということかい?」
「そういうわけじゃないです。ただ一般的な恋愛の過程をとおってきた関係ではないと言うことです」
「なに言ってるか分かんないよ」
分からないように言っているんだよと思った。
「僕たちは恋人同士のような生活はしていますが、付き合うとか付き合わないとかいう確認をしていないんです」
「なんだい、だらしがないねぇ、それがいまどきの付き合いかたかい」
「どうでしょう?」
あんたに言われる筋合いも無いことだ。
おばさんは、はぁ、と息を吐き出し腕を組みなおした。呆れている意思表示だ。でも僕にはいまどきの付き合い方なんて知らないし、昔のことだって知らない。
おばさんは僕をじっと睨んだ。
「あの子は危ないよ」
おばさんは低く重たい声で言った。声のヴォリュームは小さいが、体の芯まで響いてくる声だった。ただそこには特に僕への怒りは込められてはいないようだった。
「こんなとこにいちゃいけない」
「どうで、、、そうですか」
ふざける空気でもないようなので、おばさんの言葉を待つように曖昧な返事を返した。
「いい子だけど無理してる、そうは思わないかい?」
「一人だと自分が自分でいられるって言ってましたけど」
「ほんとにそう思うのかい?」
眉間により深い皺がよった。色んな物が隠れてしまいそうなほど深い皺だった。
「ほんともうそも彼女がっている以上のことは何も思いません」
「随分と自分に都合がいい考え方だね」
それは僕と彼女二人の問題だろ、と思った。
「二人の問題かね、確かにそうかもしれない。年寄りのお節介かもしれない。ただ同じぼろアパートに住む一住民が言うことじゃないかもしれないよ、彼女も他人と極力話そうとしないものね、あんたがここに来るまでは」
おばさんは新しいタバコを取り出し火をつけそれを吸った。煙を吐ききったところで咳をした。その咳には人生の疲れを見ることができた。
「でもね、ここに来るような人間は限られてる。」
そう言ってまたタバコと吸って、また煙を吐いた。
「あたしはね、ここにもう十年以上住んでる。いまどきこんなとこに住んでるやつは本当のろくでなしかヘタうって金に困ってるような奴らさ。彼女はなにか特別な理由がありそうだけどね。あたしもそうだよ、あたしには夫と子供ときちんとした家庭があったんだ。あたしはきちんとした主婦だった。だんなも一般的にみりゃそこそこ稼いでくるサラリーマンだった。子供をひとりふたり作ったってまあまあの家で、まあまあの暮らしを十分していけたんだ。実際、二人で二年、子供が生まれて三年何事もなく生活していた。周りからも幸せそうだと言われてたよ。でも、壊れた。あたしが壊したんだ。不倫をしたのさ。相手はよく来る配達屋の男だった。 男は本性をうまく隠して生きられる人間だった。そして女に潜む僅かな隙を見つける才能があった。あたしの他にも色んな配達先でそういうことをしていたんだよ」
おばさんはそこで一息つくとまたタバコを一服吸った。タバコの先に着いた火が過剰な光を発していた。そしてまた話し出した。
「男を作って、家庭を逃げ出した挙句、男にも逃げられてね、そのせいで随分無茶な生活をしたおかげで目をやられてね。この田舎まで転げ落ちてきた人間なんだよ」
今度は一服の後に痰の絡んだ喉を直すように咳をした。苦味を感じるときのような顔をした。このときの僕には何故かその姿が不快に写った。
「こんなボロアパートに住んでいる奴らは多かれ少なかれあたしに近いような経験をしてるのさ。人生の成れの果てなんだよ、そこに若い女が暮らしているなんて不憫じゃないか、そうは思わないのかい?」
僕に訊くような口調でも、そこには当然そうだろという意味合いが含まれているので返事をする必要せいはないようだった。おばさんの話は続いた。
「人生の中で得られるものなんてほんの僅かで失うものの方がはるかに多いんだよ」
僕はおばさんから眼をそらしたまま何も言わなかった。
おばさんはひとつ大きなため息を吐いた。タバコを地面に落としサンダルで踏み潰した後、両膝にに両手を乗せ、持て余すその体重を何とかして前方へずらそうとい動きに入った。ほとんど転がるように前のめりになりながた立ち上がり、僕には一瞥もくべず自分の部屋へ戻っていった。
この時の僕はひどくイラついていた。おばさんの一方的な話しにもそれについて明確な答えを思いつかない自分自身に対しても。
おばさんの言うことには経験から学んだ説得力のようなものが確かに含まれてはいた。けれどその時の僕には彼女のために何をどうするべきかなんて分からなかったし、ましてやそれがあの部屋住人(僕と彼女)意外に僕らのすべきことが何かを分かるとも思えなかった。ただ、おばさんの言うことの意味は僕には既に分かっていたように思う。それでも僕は今の生活を変えることなど考えることも出来なかった。だれより僕がこの場所を望んでいたからかもしれない。
僕は久しぶりに行き場のない嫌悪感に満たされていた。
棘ついた感情を真っ黒な軽蔑へ変え、彼女の帰りを待つ間それを弄んでいた。
僕はこのおばさんをうっとおしい存在だと思った。もう二度と会いたくはなかった。
本当に二度と会いたくなかった。
彼女が帰ってきてからも、その日おばさんと会ったことは彼女には話さないでおいた。
そして僕は彼女とセックスをした。
○
そしてまた僕は目覚める。
僕がこの布団の上から見ることのできるのは、彼女の寝顔の他には透き通るように白い胸の橋梁を通してみるむっ節操に生い茂る木々と空のみだった。この住宅地に不釣合いなボロアパートが存在しえる理由はこの木々のむこうにある神社のためだった。神社のさらにむこうは山になっており、今あるアパートの場所に家を建てると神社は孤立してしまうのだ。彼女が聞いたところによると意外と歴史が古く、由緒正しき神社であるらしい。ただ、こじんまりとした神社なので管理する人はおらず、年に数回近所の人たちで綺麗にして拝むだけだそうだ。特にこの辺りは古い神社や寺を大切にする土地柄のようで文化遺産なんかもたくさんあった。
有名なところには僕が小学校の頃、修学旅行でいったことがあった。
その時のことは随分と昔のことのように感じる。同じ場所であっても全く違った場所に感じられる。彼女の部屋にしてもそうだ。
僕が自分の育った町からこの町へ越してきてから日々過ごすごとに望郷の念にも似た距離感を感じる思いは薄まっていったのに、たかだか数駅ほどしか離れていないここは本当にどこからも何からも遠く感じられる。
忘れ去られたような場所は忘れられるだけの何かを持っているのかもしれない。
ここでは部屋にふたり何も身にまとわずにいられるように、僕は世界から自分を守るための殻を脱いでいるのかもしれない。僕は彼女に聞かれたことを何一つ迷わず正直に話すようになっていた。自分の弱さであるとか醜さであるとか、相手に突き返されれば直ちに相手を憎悪沸き起こさせるような危険なものであっても僕は話した。彼女がそんなことをしないという確信や自信はまるでなかったけれど。
○
僕らの行動範囲は少しずつ広がっていった。しかし、それは二人での生活を行うのに必要な最低限の生活必需品が減ったからという理由に過ぎなかった。そんなときいつも彼女はジーンズのミニスカートに僕が着てきたアディダスの緑色のジャージを羽織っていた。
彼女と僕の会話はどうでもいいことをどうでもいい角度から検証してみるということがほとんどだった。
性欲と食欲の話になった。
「…、食欲と性欲は同時に発生しないでしょ」
「したくなる時と食べたくなるときか、そういえばそうだ」
「無人島に流れ着いたみたいな状況で食料もない。そこで食欲と性欲が同時に発生するとあなたが私を食べたくなるのかな?」
「極限状況のような話しだ。ただ、それは単純に僕を食べたくなるということだと思う。性欲じゃなく食欲の方だ。そもそも食欲は共有できない欲求で性欲は共有できる欲求だし」
「どういうこと?」
「例えば、ただ食料として君を食べれば一時的に食欲は満たされるが、性欲は永遠に満たされない。食欲は個人欲で相互には満たされない。性欲は個人欲であるが相互欲でもあって相互に満たされる」
「無人島に流れ着いたら、死ぬまでセックスしていろという意味?」
「だいぶ違う気がする、けどそれもいいかもね」
彼女は笑った。そして少しマジメな顔をして見せた。
「この世界に二人きりになる場所なんてあるのかな?」
「それには関係的と環境的な状況が考えられる。関係的というのは人間関係のこと、他人と接触しないでいる状況、環境的というのは場所のこと、さっきの無人島みたいな状況だね。人が住んでない場所はあると思うけど、そこで生きていけるかどうかは怪しいね」
「水と食べるものがあれば問題ないんじゃない?」
「それはサバイバルでしかない。そしてこの話は明らかに別方向へとズレている気がする」
その意味不明な話が結末を終える前に僕らはアパートまで戻ってきた。2階の部屋へ上がる階段のところにあのおばさんがいた。犬に餌をやっているところだった。僕はまた嫌な気持ちになった。
おばさんが僕らに気づいたところで、僕は軽く会釈を、彼女はこんにちは、と言った。おばさんは彼女に「こんにちは」、と低い声で言い僕にはじろりと視線を投げかけただけだった。悪くした膝を支えるように起き上がりそのまま自分の部屋へ入っていってしまった。
この時の僕は未だ胸の中に合ったおばさんへの憎しみのような感情を抑えようとしていたせいで状況をうまく認識していなかった。そのため僕は彼女のとの生活の変化の兆しのような話を彼女にしてしまう羽目になった。いつ思い出しても不快になるのはこの時のことだった。
犬には首輪がしてあったが、鎖はついていなかった。彼女はもくもくと食べる犬に触ろうとした。
「待って、餌を食べているときに知らない人間が触ると噛むかもしれない」
僕は反射的にそういった。彼女は僕を一瞥した後、しゃがみこみ頬杖をついてじっと犬が餌を食べ終わるのを待った。
「犬のこと詳しいのね」
「いや、そういうことを聞いたことがあっただけだよ」
自分自身の意外な発言と彼女の言葉に僕は動揺していた。そこには微妙な雰囲気と沈黙が空気を重く押し留めているようで、そのことに彼女が僕の態度に不信感を抱くことになってしまった。僕は彼女と犬とに距離をおいた。
「犬嫌いなの?」
「いや、好きだよ」
「じゃあ、なんでそんなに遠くで見ているの、こっちに来たら」
「…、その資格がない」
「なに、資格って。犬を可愛がるのに資格っているの?」
僕は思ってもみなかった言葉が自分の口から出たことに、少し可笑しくなった。
そしてふと過ぎった過去を消そうと努力するために、軽く二度頷いた。
「そう、僕はそれをなくしたんだ」
「話が見えないよ」
「僕の住んでいたところでは犬をかわいがるための免許があってね。以前年一回更新の日に行くのを忘れてね、ほっといたら失効してたんだ。免許の無いまま可愛がると、違反切符を切られて罰金を払わされてしまうんだ」
「おもしろくないその冗談、犬が嫌いなら嫌いって言えばいいのに」
思いのほか彼女を怒らせたみたいだった。
たいして面白くも無い冗談は彼女に普段とは違う僕の行動への疑問を抱かせた。そこにある隠された部分をそのまま隠しておくことを彼女は本当に嫌がることを僕は知っている。そして僕らの関係をこじらせる可能性をも秘めていた。だから今の僕には彼女にそれを隠すことはできないでいた。やれやれと思いながら僕は空を見上げ、過去を振り返りながら言った。
「僕の家では昔からずっと犬を飼ってきた。僕が生まれてからもそれはずっと続いてきた。親が飼っていた犬が死んで、僕が欲しいといって犬を飼いだした。僕は自分で選んだ犬に名前をつけ、餌をやり、散歩をした。かわいがった。僕にとてもなついてくれた。賢い犬でお手やお座りを一瞬で覚えた。物を投げれば素早く口にくわえて僕のところへ持ってきた。名前を僕が呼ばれれば遠いところからでも全速力で寄ってきた。ただ、僕はどうしようもないくらい馬鹿なガキで、遊んでた玩具にあきたように飼い始めて一年もしないうちにその犬の世話をしなくなった。友達と遊んだり、テレビをみたりして他に楽しいことがあって、世話自体がめんどくさくなっていった。それからは親が餌をあたえ近所に住んでた叔父さんが散歩に連れて行った。僕は自分の普段の生活から犬の存在を忘れていた。学校から帰った時も、友達と遊びに行くときも。存在に気づいたのはその犬が人を噛んだ時だった。散歩をしている時に同じように犬と散歩をしているおばさんを噛んだんだ。一度もそんなことしなかったのに。僕はその犬が怖くなっていつにもまして避けるようになった。その事件があってから誰も散歩へは連れて行かなくなった。そのうちその犬はだんだんと動かなくなっていった。その犬が弱って死にそうになったとき僕は久しぶりに犬のそばにいった。そこには恐怖するような犬は存在していなかった。ただ、ぐったりとふせて尻尾を振り、僕を嬉しそうに見る姿は子犬のころ連れ帰った時そのままだった。本当に嬉しそうだった。そいつはただこの時をまっていたんだ。僕は一度もそんなこと気づいてやれなかった。自分がしてきたことの残酷さを知った。自分の存在を忘れられることそしてただ待ち続けることの辛さ、そういったものを何一つ気付けなかった。自分が最低の人間であることを知ったんだ。その日の夜は台風で大雨が降ることもあって犬を家の玄関に入れた。僕は毛布を持ってその横で寝た。次の日は玄関から犬小屋に戻し、しっかりと毛の手入れをした。弱っていても尻尾を振ってそれを喜んでいてくれるように見えた。その日僕が学校から帰ってくると犬は死んでた。リードが犬小屋の壁に引っかかりその後暴れたのか首に巻きついて首を吊ったようになって死んでいた。硬く強張った体で横たわり、口からはだらりと舌が垂れていた。そのことに誰も気づかず、学校から帰ってきた僕が最初の発見者だった。家の近くには埋めてよい場所なんてなかったから、ゴミと同じ扱いで捨てるしかなかった。それから家では犬を飼うことをやめた。そんな感じで、僕にはもう犬をかわいがったり、飼ったりする資格がないんだ」
全く持ってどうでもいい話だ。
いまさらながら僕は言うべきでなかったと思った。自分の中で今まで忘れていた出来事だったしそれは今まで誰にも言わなかった話で、恥ずかしかったことと、人に話してそれがどうにかなることではないことだったからだ。
どうにも出来ない事を他人に話すことはあまり好いことではない。それはもともとが解決できないことであり、話し合う議題としては相手に辛過ぎるから。そして他人はいつも以上に優しくなる。うまく答えることのできない話には人は弱くなる。それを話すのは卑怯なことだ。僕はここへ来て色んなことを忘れていることに気付いた。
彼女は犬の顔を両手で挟んだまま、深く考え込んでしまった。
「たかが犬のことなんだけどね」
言った後で今の今になっても全くそう思えない自分に驚いた。全ては過ぎたことだけれど思い出すことで湧き出す感情の揺さぶりは何一つ変ってないように思う。それに耐えられる今はただそのことに免疫が出来ているだけのことで、初めて受けた今よりも幼く小さな自分には随分とショックだったことが余計に理解できてしまう。
沈黙の中、犬の呼吸だけが聞こえた。
彼女はとても真剣に考えて言葉を選んでいた。
「子供の頃のことなんだから…」
重く小さな声だった。彼女は言葉を途中で放った。
「忘れろと?」
「無理なのね」
「無理とかいう範囲の話じゃないんだ、自分の中にそれがないことに気付いてしまったんだよ。前にも話したよね、人生にやり直しは聞かないんだ。一度失ったものはもう二度と戻らない」
「絶望的な言葉を言うのね」
「そうだね、でも本当のことだ」
「もっといい加減かと思ってたけど」
「いい加減さ。だから無くしてばっかりなんだ、いろんなものを」
また自分が言ったことを後悔していた。この場所に彼女といることで僕はどんどん無防備になっていく。
「無くすことってつらいよね」
自分の家族のことを言ってるのかもしれない。でも彼女は何も失ってない。自分からは見えなくしているだけなのだ。でも僕は同意した。少なくとも彼女は僕を気遣ってくれているのだから。
「まあね。でもこの場合は、そのうち実家に帰って犬をかわいがる免許を取り直せば済むんだ。ペーパーテストで80点とれば合格する」
彼女は僕が言ったことに疑問を見出すまでに暫くの間があった。
「何の話?まだ言ってるの」
彼女は呆れたように深く息を吐いた。
「馬鹿みたい。あなたやっぱり、いい加減よ」
彼女はまた気を使ったように微笑んでくれた。
よく言われるよ、と僕は笑った。
僕はいつも自分の内側に触れられそうな質問に対しては一切をはぐらかしてきた。大体がそれでやり過ごせるがそうでないときは単純に難しいことは分からない莫迦のようなふりをしてみせた。相手が呆れるのをみてほっとしていた。この時も同じようなフリをしたが実際の理由はちがう。彼女もそれを知っている。今日話したことの内容はここまでにしたい、ということだ。
僕は彼女にそろそろ部屋に帰ろうといった。彼女は少し名残惜しそうに犬に手を振っていた。
僕は彼女が犬の世話をしだすのではと不安になった。彼女には色んなことを話すようになったけれど、今日話したことをまた話すのも犬に携わることも出来ればしないでおきたかったからだ。
○
部屋に帰ってからの彼女は少し変だった。
その夜は彼女はいつも以上にいろんなことをしゃべった。あいかわらす僕の方からは何も聞かなかったのだけれど、自分が生まれる前両親は男の子が欲しかったこと、自分が覚えてる一番幼い頃の思い出、好きになった男の子のこと、中学の時、担任教師がみせたいやらしい視線に気がついたこと、友達が自分の思っていた人間でなかったことなど彼女は見境なく何でも苦もなくしゃべった。眠そうな目でたんたんと、それはどことなく僕にしゃべっているのではないような気がした。誰に対してでもなく、自分の覚えているものをただ吐き出しているように。それはなんだか僕に胸の痛みを感じさせた。それはこの僅か六畳の世界の中に染み出した彼女の感情だと感じた。そんなにも彼女は僕に気を使ってくれたのだろうか。あんな話はするべきじゃなかったと思った。
話が途切れた時、彼女は壁にもたれた僕のひざの上で小さくなっていた。僕は彼女の顔を覗き込んだ。見上げた彼女はくちづけをした。いつものように僕の隙をついた。そしてまた俯いたままじっとしていた。僕は彼女に気づかれないようにすぅと深く息を吐き、そして勢いよく息をすった。肺の中の空気を入れ替えたように、頭の中にある想いを入れ替えようとした。僕のTシャツを掴んだままの彼女の手を握り優しく引き離し、彼女を抱き上げた。彼女は悲しいぐらい軽かった。僕は立ち上がって布団を足で広げ、その上にゆっくりと彼女を載せた。彼女は目を逸らせていた。
本当のことをいうと、僕はほんの少しだけこの状況にイラついていた。こんな僕の過去の思い出にこの部屋にあるものを掻き回されるのはごめんだった。この頃の僕に必要なのは今の生活だけだったし、人に何かを分け与えるほどの余裕なんてなかったからだ。ただ、明日にまで彼女がこの状態を引きずって欲しくはないと思っていた。僕は彼女を抱いた。それが彼女にとって最善ではないことは分かっていた。ただ、この時の僕にはそれ以外何も思いつくことができなかった。僕がこの部屋に来て彼女にすることができたのは彼女を抱くことだけだった。それ以外に何もなかった。このとき僕は本当に自分が他人に対して少しも優しい人間でないことにまた気付いた。
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事実はいつも残酷だ。
自分というものを知るたびに僕は僕を嫌いになる。
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僕は彼女の前に性欲と自分の殻の中身の一部を差し出した。彼女はある意味でそれを受け止めてくれた。それでも僕自身の小心さといやらしい性格を隠したまま彼女を引き寄せようとしている。彼女は自分の抱えてきた過去を差し出した。それによって彼女というものの現状に至るまでの過程がおぼろげながら見えてくる。
彼女が家を飛び出してこんな部屋にまで来て手に入れようとしたもの、それはきっと人が単純に想像できそうな理想的な家庭の外に存在するある意味で生々しい現実の世界なのだろうと思う。
彼女の過ごしてきた部屋、つまり家庭はこの世界で生きていくには少しばかり温かすぎたのだ。その温もりがドアひとつ隔てた外の世界にはあまりにも少なく、学校生活などで触れ合う外の世界に住む友人たちにはその冷たさがさも当然のように振舞われ、親に対する不平不満を言っているのに対し彼女にはそういった感情が何一つ存在しない。それは自分が友達たちを同じでないことを意味している。その違いは時として嫉みや憎しみにも変わる可能性を多分に備えている。そのことを思い知る度に彼女は傷ついてきたのだろう。だからといって自分から家庭を壊していくようなことが出来るほどこのときの彼女は利己的ではなかったのだと思う。主観的な優しさを与える家族は多くいても、世の厳しさを教える家族はそうそういるものではない。彼女は生きていくための術を与えてはくれなかった家族を恨んでいるのかもしれない。世間とのギャップと彼女自身が持つ利己的な気持ちと家族を思う優しさの葛藤が限界にきたことが黙って家を出た理由ではないかと思う。
下の部屋に住むおばさんは彼女がこの部屋にいるのは危ないといった。でも彼女は自分がこの部屋に来ることで世間へと自分をなじませようとしているのだ。それが暖かく隔離された理想的な家庭から現実的な世界で生きていこうとする彼女の意思であったなら、転げ落ちてきた人間よりはずっと前向きだと思う。
ただ、落ちてきたのではないとしたら、いつか彼女はここからは出て行くのだと思う。その思いを僕は浮かぶ先から忘却の底へ押し沈めようとした。その行為さえ忘れようとしていた。
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彼女が眠った後も僕はうまく寝むることができなかった。
何かを忘れるための明日はなかなかやってきてはくれなかった。僅か布団半分のスペースで僕は嫌悪感に頭の中をかき回されていた。
それでも明日という日はやってくる。彼女にも僕にも。
僕は眠りに落ちた。
完読感謝。随分苦しくなってきましたガ、年を越すまでには次を書き上げたいと思ってマス。
続きマス。