2.僕と彼女と眼鏡
ある人が言うには、夢というのはその日一日にあったことを脳が記憶として整理する行為の中で見るもので、人は90分を一区切りとしてその中で深い睡眠と浅い睡眠(レム睡眠と言われるようなもの)を繰り返すのだそうだ。そして眠りの浅い時に夢を見る。だから8時間ほど寝ればだいたい3回ぐらいは見るもので、起きた時に覚えているものはその中の最後の夢の断片だということらしい。それはある意味で示唆的であって、本質を捉えることは難しい。だから夢の中で起こることは実際の自分に当てはまるものではなく、不確かなものである。
○
確かなものは現実で、自分が触れているものでしかない。町の雑踏、脆そうなプラスチックでできたベンチのすわり心地の悪さ、新たにくわえたタバコ、ジッポの冷たさ。それでも今、タバコをふかしながらこの世界のいたるところに隠れている過去に触れ、僕は過去を振り返っている。きっと現実に見えている電車は過去のそれと同じであるはずがない。何より町の景色からして違うし、ここはあの頃住んでいたところからはとても遠くだ。にもかかわらず僕にはそれが同じに見える、いやそう感じる。
今でも僕にとってはあの頃も過去でなく今なのかもしれない。
あの頃に良く見ていた白昼夢のようなものは見なくなったけれど、僕は過去に起こった彼女との出会いから別れるまでの期間を何度も何度も生きている。一時にせよ得たものをまた手に入れ、失ったものを失い続けている。
僕の中に生まれたこの平行世界を脳の片隅に抱えて現在を生きている。
○
そして、今君に話しているのはその平行世界の話。
○
決して自ら思い出すといったものではなく、生活の節々に隠れた共通の存在、もしくは過去において象徴的であった物体がその平行世界への鍵になって僕はあちら側とこちら側を行き来する。例えば先ほども言ったけれどこうして今もここから見えている電車、古ぼけたアパート、本屋に並ぶその当時読んだことのある小説、そういったものがどこやかしこで僕を待っている。
僕が扉を開けるのを待っているのだ、きっと。
いやむしろそれは扉のようなキチンと受け入れてくれるものではなく、実感できる正確なイメージで言えば落とし穴なのかもしれない。人が落ちていくのは下とは限らないのだ。
僕が記憶の内側へ落ちていくように。
ただそこへ落ちたとしても僕は今、現実問題として決して繰り返されはしない――往々にして同じように感じてしまうことはあるのだけれど――絶対的時間世界を生きている。
当たり前のことだ、人は歳を取る。
○
まだ春風と呼ぶには幾分若い風がタバコの煙を揺らす。
あの頃、もしくはあの世界では僕はタバコを吸っていなかった。そのタバコを吸うという行為が自分にもたらすものが何一つないと思っていたから。
でも、僕はタバコを吸うようになった。
街の空気を吸うことも、タバコを吸うこともあまり違いがないように感じたからだ。
本当にどうでもいいことなのだけれど、どうでもいいことでもしないと自分が昔のまま変ってないような気がしてしまう。周りの世界は日々流れ変っていくのに、自分はいつまでも変らない、いや変ることができないでいるというような愚にもつかない感覚は今も昔も変っていない。だからこの混乱はしかたがないことなのかもしれない。
もちろんこれは自分の内面での話。
自分のおかれた立場はいわずもがな、見た目など目にしたくも無いが、やはり確実に変ってゆく。
人は歳を取る。
あれからどれぐらいの月日がたったのだろうか。
○
社会に出て色んな理不尽なことがあった。
それを飲み込んで自らの糧とし、他人にその理不尽さをつき返すぐらいのことをし続けないと生きていけない社会。そのイメージは小さな頃からあったのかもしれない。
そう、ただ受験などと名前を変えてそこにずっとあったのかもしれない。
ただその中にあって唯一区切られた世界、社会人と学生の狭間にあって宙に浮いた存在の大学生活、僕にはそう感じられるものがあった。家族や昔から仲の良い友人たちと離れ、独りを感じながらも、誰かの下にいて働いていないという状況のせいだろうか。何か不条理が平然と成り立つ世界。思春期を通り越したものの、酷く中途半端な立場にある心にはある意味でゆとりがあった。
そんな学生時代。
○
僕の大学時代のことを話す。
僕は、大学を卒業するのに5年間かかった。
それはごくありていに言って単純に遊んでばかりいて、女の尻(古臭い表現)を追い掛け回していたからでは決してなく、授業を受けていることに我慢できなくなったからだ。
大学の授業が高校までの授業と全くといっていいほど変化なく退屈で、同じ時間に同じ場所で同じことをするので、なんだか何度もリサイクルして使われる牛乳瓶のような気がしてきたからだ。
牛乳瓶は、牛乳瓶である限り牛乳を注がれて蓋をされる、そして牛乳として送られていく。この繰り返しでしかない(壊れない限りは)。
○
大学は自分で自分のことをしなきゃならない自由な場所だと言われた。ならなんで自分で選ぶことができないんだろう。小さな枠で決められた範囲でそれを選ぶことが自由ならやはり、自由とはごく限定された範囲でしか存在しない言葉なんだろう。
そう、これはパラドクスだ。
十代の反抗期みたいな青臭い言葉だけれど、これは事実、自分で考え自分で導き出したことだ。そしてこの自由というものの定義は現在に至るまで覆されることはなかった。ともかく僕は自分で自分のことをした。そして、僕は親の金で大学へ行き、大学生活の不満を言っている。
これもパラドクスだ。
そうか?
○
僕は自分を変えたかったし、変わっていきたかった。もちろん、成長するという意味で。
人は同じものを違ったように見ようとしているだけで、結局は同じ処に留まっているということに気づくのは随分あとになってからのことだ。
つまりはこの頃の僕はそれに気づいていなかった。というか、違ったことを同じように解釈して、同じように間違いに気付き、同じように後悔している。僕は間違えるまでの過程を永遠繰り返している。牛乳瓶のように。
だからどうしようもない僕が成長をするために何かを始めたり、誰かと知り合ったりするという活動的で建設的な人間であるはずもない。出来ること出来ないことそれをしっかりと見極め、出来ないことを切り捨てる覚悟を持つこと、それが成長することだと思っていた。
○
先程言ったように自分が留まっていることに気づかず、部屋で一人答えのないような問題に時間を掛け、同じことをぐるぐると考え、繰り返し悩み、小さな海の中で溺れていた。
ブクブク。
○
当時僕が住んでいた所は、大学ができた後にとりあえず必要なものだけそろえようという感じで造られたこじんまりとした町だった。
辺りにはさして興味をひくものはなく、賑やかな街に出るのは少し時間がかかった。そして深夜ともなると無人の街のように人も車もなく、鼻歌交じりに堂々と道路の真ん中を歩くことができた。その状態は僕に不安でなく、安心を与えてくれた。誰も周りをきにすることなく、何かから自分を隠す必要もない。安全な空間だった。
こんなことを思う僕は寂しく孤独な人間に見えるかもしれない。しかし、僕には当時でも仲のいい友達はいたし、それなりに学生生活を楽しんでもいた。ただその中にいて自分をしっかりと確認する時間が必要だった。ただ、自分ひとりの時間を大切にしていただけだ、そう思っていた。
僕は人に自分の話をするのがあまり好きじゃない。
どんなに自分はこういう人間だと他人にしゃべったとしても、どこか隠している部分があって後ろめたい気がしたし(実際隠していたけれど)、それによって自分が評価されるもの僕の好みとすることではなかった。
はっきり言えば、他の人の考えや恋愛、僕に対する意見などにはあまり興味が持てないでいた。人が何を思おうがなんと言おうが所詮は己の狭い見地であるし、それの考え方がすべての一般的道徳に当てはまるはずであると信じて疑わないのは単なる自己信仰に過ぎない。また、正しいこととは世の中の枠からはみ出さないことだと真剣に信じている人達にとってみれば自分の考えを変えるようなことは世界の終わりに等しいことである。そんな人達の言葉を信じられるはずもないし、信用することなど最初から無理な話だ。人が他人の気持ちをすべて分かりきるなんてことは出来ないし、分かった気になっている人間ほど愚かな存在はない。
それでも、この小さな島国に一億何千万人も住んでいるのだから肩の触れ合うこともあるし、ある程度自分を他人に分かってもらうことも必要なのかもしれない。
ただやはり弱く軟らかい自分の存在を人に触らせる気になんてなれるはずもなく、他人の秤勘定で無邪気に傷つけられることだけは避けたかった。
だから少なくともこの当時の僕には自分の中で起こる様々なことを誰かに話す気になんてなれなかったし、話そうとしてもそれをうまく人に伝える手だてを何一つ持たなかった。
僕の言うことなんて人から見れば誰にでもあることなんだろうし、この張りぼてで出来た自分の殻の中から叫んだって誰にも届くはずなく、自分の中身を他人に覗かれるなんて考えられもしなかったからだ。
どこに行ったとしても、そこに住み、出会いそして出会った人たちと長く時間をともにすれば、同じ問題に行き当たる。自分をどこまで出してどこまで隠すのか。それが立場を決める。それが自分の望むべきものではなくとも、我慢できる範囲のものであるかどうかは慎重に考えるべきである。ただそこで自分の作った、もしくは作られた立場を守ることは所詮その役割を演じ続けるということに過ぎない。それでも僕はこの大学生活における自分の役割や生活を好きだったように思う。
僕自身その生活に満足していたはずだ。しかし現実は僕に一つの問題の種を植え付けていた。
これは、それが起こり始めたときの話。
○
この時の僕はよく起きたまま夢を見た。いわば白昼夢のようなものだ。
実際にはそれが夢と呼べるのかは、今でもよく分からない。 何故なら、それは僕が自分の部屋にいる限りにおいてはまったくもって時と場所を選ばなかったからだ。人はうたたねなどというかもしれない。しかし、例えば立った状態から寝ようとするならある程度の動作が必要であるはずし、寝るにはそれ相応の準備期間があるはずだ。体感として眠気が襲ってきて、欠伸などをして自分が眠くなってきたことを認識できるはずだ。
しかし、この夢のようなものにはそういった準備期間がまるでなかった。
それは僕の頭を誰かが思い切り殴ったように突然起ったり、それとは真逆に僕が気付かぬうちにそっと誘い込もうとする。気がつけばという言葉も必要なく自分が部屋以外のどこかに存在している。そのことへの違和感さえその夢のようなものが覚めるまで気付くことはできない。
一度、薬缶でお湯を沸かしているときそれが起こり、気付くと僕は床に倒れていた。起きた時には右肩がとても痛く病院で診療してもらうはめになった。そしてその時の薬缶にはほとんど水がなく底は真っ黒に焦げ危うく火事を起こすところだった。ある時には、風呂場でシャワーを浴びている時にそれは起こった。見たいテレビ番組がありニュースの間にさっと入ってしまおうと思っていたのに、ふと我に返ると僕は時間にして2時間ほど肩からシャワーを浴び続け、見たかった番組はとっくに終わっていた。
その白昼夢のようなものは普段はまず人に見せない僕の感情の一つ一つを容赦なく揺さぶり、僕の胸を締め付けた。時には何度も同じ内容で、時には一度見た内容が続いていたり、それとは全く別の状況に僕を引きずり込んだりした。そういった現状をどうにもできないまま日々まどろんだ時を過ごしていた。
○
よくよく振り返ってみると、僕は夢に逃げていたのかもしれない。
現実を夢のように感じたのかもしれない。
○
その白昼夢のようなものは日に日に酷くなり大学へ通うことの疎ましさと相まって、生活のサイクルは不規則に、あるいは規則的にずれてしまっていた。
一日中、白昼夢を見続けている中で、真夜中にふと現実に戻った時、激しい空腹感に襲われていた。強引にいろんな体勢で眠らされているのでどこやかしこが痺れていたり、背中や首に重い張りがあった。体をできるだけほぐした後、顔を洗い僕はコンビニに向かおうとした。そんな時きまって人一人にも車一台にも会わず、見上げれば塗りこめたように黒い空があった。それは白昼夢の続き気のようだった。コンビニまでの道のりをゆっくりと大きな歩調で進む。歩道でなく道の真ん中を時には鼻歌を歌いながら、時には体の張りをほぐすのにストレッチをしながら。最初に感じたような無人の町の違和感は次第にどこかへいってしまい、自分がそこに馴染んでいくような感覚を覚えだしていた。寝静まった駅のロータリーにはタクシーでさえいない。外灯よりも明るいのはコンビニの灯りだけだ。
深夜のコンビニ店員の動きには無駄がない。
店員は、「いらっしゃいませ、暖めますか」、「全部でいくらになります」、「ありがとうございました」、と必ずルーティーンを守った。ロボットにもできそうだと思った。
コンビニを出てまた無人の町を歩く。駅からは近いので数件の商店が並んでいる。明らかに学生向けに作ったようで、居酒屋、ゲームセンター、ボウリング場などいかにもである。ただ、そのどれもこれもが今は眠りについている。
帰りは自分の下宿近くの薬局の横を通る。薬局の横に置かれた小さなコンドームの自動販売機は安いものから売り切れになっていった。
一度、「もうかってる?」、と自動販売機に話しかけてみたが、やはり返事は返ってこなかった。どうも商売人は自分の稼ぎには口が堅いようだった。
深夜のマンションのエレベーターは死んだように真っ暗だった。昇降のボタンを押すと寝ぼけたようにちかちかと電灯が瞬き、億劫そうにゆっくりと時間をとってエレベーター内の明かりが安定する。僕の部屋の階まで上がるとエレベーターはいつもより乱暴に停止する。寝ぼけているのは僕かエレベーターの方かと考えながら僕の部屋へと辿り着く。夜食をたいらげ、テレビをつけニュースを見る。そのうちカーテンの隙間から日が差してくる。僕は朝を感じる。そして今度は本当の眠りが僕を襲う。
○
彼女に出会った頃の僕はこんなふざけた生活を毎日毎日繰り返していた。
ともかく、ひどく夢と現実が見分けにくい頃のことであった。
○
彼女と会った日は疲れていたのかいつもの夢一つ見なかったし、起きた後も意識がはっきりとして、起きている間に例のものが起こるような気配は微塵もなかった。
そして彼女との約束の日がやってきた。誰かとちゃんと約束するなんていつ振りだろう。まぁ一方的である意味強制的な約束ではあったけれど…。
その日は第2外国語の授業が入っていたせいでいつもより早く起きた。この授業の教授は毎回出席を取るのだ。始業時には席に着いていなくてはならない。不規則なサイクルで寝起きしているので体がだるく眠気は取れない。着ていたものを脱ぎ散らかしてとりあえずシャワーを浴び、まとわり着く二度寝への欲求をしっかりと洗い落とす。前の日、といっても深夜なので同じ日だけれど寝る前にしっかりと食べているので胃が重く朝飯をとる気分ではない。体を拭き、髪を乾かしながら牛乳を飲むことで食事を終える。ジーパンにTシャツ、その上にジャージを羽織る。いつもものの一分で着替えは終わる。どうせ誰が見ているわけでもないし、学生のかっこなんてみんな同じようなものだ。教科書を一山にした場所から語学の教科書だけを素早く抜き取り、鞄にねじ込む。鍵に財布に携帯、そしてMDウォークマンをポケットに入れて時計を見る。授業開始まで後十五分、予定通り計算された時間だ。これから原付に乗り裏道を走れば教授が来る1分前には席に着けるはずだ。その間に聞く曲は約3曲。MDの再生ボタンを押すとOASISの「SHE'S ELECTRIC」が流れ始めた。そして原付のアクセルを開け僕は大学に向かった。
○
授業は教科書のページが進む意外に何の進展も無い。そこに書かれた文章の1センテンスを教授に指名された生徒が読み、その生徒が座っている列の生徒が順に読みついで行く、ただそれだけ。なんとも身にならない授業だけれど、僕らのような意思をもたないリビングデッドな学生たちにはありがたい授業である。その日は僕の番まで回ってきそうもないので、大体今日の講義で終わりそうなところに見切りをつけ、そこから先を辞書を片手に単語一つ一つに訳を振っていく。こうすれば次の授業は指名されても問題が無い。そしてそれを繰り返せば、試験までに範囲の訳は終わってしまうのだ。単純作業に没頭すると過ぎる時間も早く、終了のチャイムが鳴った。
授業が終わると知った顔の二人が話しかけてきた。
二人は僕と同じ学科で入学時に履修科目を登録するときに仲良くなった二人だ。二人とも僕と同じような不真面目な学生で、人当たりがよく授業に毎回出て講義のノートをきちんと付けている真面目でかしこい友達を持っていて、講義ノートのコピー横流しをしてくれたりする気のいい友人なのだ。
ちなみにそのコピーのお礼は昼食をおごることでチャラになるのだ。
他愛のない話題でも僕らは話す。話題が問題ではなく話すことが重要だからだ。適当なことを言って、からかったり笑われたりした後で、じゃあまた、と彼らは笑顔で去ってゆく。
彼らはおそらく他の仲間と合流するのだろう。
そのグループの輪の中につい最近まで僕もいた。
僕が白昼夢のようなものに悩まされるようになり始めた頃のことだ。遊びにくる友人たちの前で自分がそうなることを知られるのが嫌で自然と彼らと距離を置いた。最近付き合いが悪くなったな、彼女でもできたか、とかいう内輪だけのワイドショーネタも早々に消え去り僕と友人たちは微妙な距離感に落ち着いた。その距離感はサークルの中でも同じだった。花見の後の飲み会に出なかったのも実際はそんな感情も含まれていたように思う。
そのせいで僕は彼女の部屋まで行くことになってしまった。
そして彼女の意見を鵜呑みにした約束をしてしまった。また彼女に会いに行くと。
実際のところ、高々何百円を返してもらいに行く必要があるのだろうか。おそらく僕が会いに行かなければ彼女と会うことは二度とないだろう。
○
授業の後はすぐ昼休みに入るのだけれど、僕の通う大学の食堂は何件もあるのに、学生自体が多く、いつも混雑するので僕はその時間帯をいつも避ける。大学の図書館の一階には学生のID番号さえあれば自由にネットを見られるパソコンが備え付けられているので、スポーツ情報を中心にだらだらとニュースを流し読みする。その後は購買部の書籍コーナーで雑誌を立ち読みする。そうしていれば、食堂へ生徒が出入りする数が逆転してくる。
それを確認していつものように僕は学食へ向かった。
今日はまだまだ人が多いみたいだ。並ぶよりも先に席の様子を覗く。窓際のテーブルにいた4人がタイミングよく席を立とうとしている。僕はそこへ行き、自分のカバンを椅子の上に置き、お茶をいれたカップをテーブルに置いておいた。この席は予約済みという訳だ。
そしてなかばぼうっとしながら僕は独りで食事を取る。友人たちと一緒に行動することがなくなっても、僕自身に何の感慨も浮かんでこないそのことに僕は気付かぬフリをしていた。食事を終える頃、ふらりと現れたサークルの先輩に席を譲り僕は食堂を出た。
○
いつものように学食で遅めの昼食を取った後、僕は彼女との約束通り原付に乗って彼女の家へと向かっていた。
前にも言ったけれど、僕の住む部屋から大学へは原付で南へ約十分ほど走った所にあり、彼女の家はそれよりもだいぶ下った奈良県との県境の辺りにある。大学前の駅から線路沿いに延びる道をひたすら直進すれば僕の乗り過ごしてきた駅へとたどり着く。その日はうす曇で灰色の空だったけれど、その分風が生暖かく原付で走るにはちょうど心地よい風だった。僕は走りながらあの夜の彼女のことを思い出そうとした。
古びたラーメン屋でのお願い、真っ暗な道を先に歩いていく彼女の後姿、コーヒーを入れる姿など順をおって思い出そうとする。
なんとなく彼女の話した内容を頭の中から掴み沿うとしたけれど、僕が掴むのは彼女のシャツから除く白い肌と節のないつるりとした綺麗な指だけだった。彼女の指に触れることを考えていた。彼女の家に着くまでがとても早く感じた。
ただ駅の辺りにはあの日のような薄暗いイメージはなかったので、僕は曲がるべき道を通り過ぎてしまった。Uターンして道を引き返すとあのときのラーメン屋があった。その日は定休日のようで店には温もりといったものがまったく感じられず無機質な道の景色として溶け込んでいた。普段より気持ちゆっくりと原付を走らせ注意深く道を探しだした。
そして目的の曲がり角を曲がり、あの夜と同じゆったりとした上り坂を登っていくと彼女のアパートが見えてきた。そこの前につくまでは全く違和感がなかったのだけれど、注意深く見れば住宅地に建つこのボロアパートはやはり不釣合いだった。食い荒らされたように骨だけになった屋根付の駐輪場に形だけの気持ちで原付を止め、二階へ上がる。
昼間でも廊下は薄暗く、人気はまったくなかった。しんみりとして肌寒く、かび臭い。
彼女の部屋の前に立つ。呼び鈴はボタンが取れ、配線が二本飛び出している。僕はドアを軽くノックする。返事はなかった。
やれやれだ、人を呼んでおいて忘れてどこかへ行ってしまったんだろうか。何度かノックするが返事は返ってこない。しかたなくドアのノブを回してみた。
鍵は開いていた。無用心なのか、僕が来るから開けていたのか、会って二日目では性格を把握するには情報が足りない。
ドアを半分ほど開けてそこから中を覗くと彼女はいない。入ってすぐの畳の上に文庫本用のカバーの紙が落ちていた。特に意識も無く僕は僅かに自分で空けたドアの隙間に滑り込むように入り、落ちているカバーの紙を拾い上げた。紙には、お金を下ろしてくる、中で待ってて、と書きなぐってあった。
どうも彼女の行うこと言うことには僕の選択の余地というものがまったくもって含まれていないような気がする。一様僕が来ることを前提にした行動であるようなので、とりあえずは彼女の帰りを待つことにした。
彼女がいないので僕は乱暴に靴を脱ぎ、部屋の真ん中にどっかりと座り込んだ。
枯れて乾ききった畳。靴下の上からでもざらついてボロボロなのが分かる。居心地悪く座り直す。閑散とした中に不釣合いに見える白いシーツを被せてある畳まれた布団。几帳面に三つ折りにされている。その向こう側に山積みにされた文庫本。全部小説のようだった。どこかで聞いたことのある日本の作家以外にも外国の聞いたことのないような作家のものまであった。読書好きな人のようだ。僕の知り合いにはあまりいない。読むのは流行の服や情報の載った雑誌、漫画ぐらいなものだろう。僕もそうだといえる。僕の部屋にあるのは、あるのは雑誌、漫画、開くことのない大学の教材、それぐらいのものだ。小説などは中学生のときの読書感想文を書くために粗筋を読んで以来触れたこともなかった。山積みされた本の中から覗く本の題名を目で追う。
僕の興味が一定量を超え、そっと本に手を伸ばそうとしたとき、ドアの開く音がした。もちろん彼女だった。座った体勢から起き上がろうとしていた僕はとても不自然な体勢で彼女の前にいた。変な汗を掻いた。
「ごめん、待った。銀行ここから結構遠くて」
彼女の息は少し上がっていた。一応急いで帰ってきたのだろうか。
「いや、別に」
彼女はそう、とこのあいだは見せなかった企みのない笑顔で言った。僕は口を閉じたまま引きつった笑顔を作って見せた。それをかわすように彼女は台所に行き、薬缶で湯を沸かし始めた。
「とりあえず、コーヒーでもいれるわ」
あの夜と同じセリフ同じ動作。彼女のコーヒーを入れる動きは淀みがなく最初から決められているかのように流れてゆく。僕もあの夜と同じように彼女の指に見とれる。服は変わっていない。居心地の悪さも同じくだ。部屋の中は薄暗くすべてがくすんだ色を見せている。コンロの火の音だけが殊更大きく聞こえる。彼女は僕の存在など忘れているようにコーヒーを入れる作業に集中している。頭の中を手当たりしだい探り話題を探した。
「平日の昼間だからかもしれないけど、誰もいないみたいだね、アパートの人たち」
しばらく彼女は答えない。僕は無視された気がしてなんだかここにいてはいけないような気までしてきた。彼女は左手を腰において右手に持った薬缶でカップに湯を注いでいる。
ぴんと伸びた背中越しに彼女がやっと答える。
「下に三人、上に私を入れて二人しかいないわ」
ほんの一呼吸の間を持って彼女は続けた。
「本当は隣にもう一人男の人が住んでたの。でも、何か足りないものを借りるフリして部屋に無理やり入ろうとしたから、髪を切るとき使ってた鋏で太腿を刺しちゃった。血がいっぱいでてた。悲鳴みたいな声出して自分の部屋に逃げてったわ。大家や警察に言おうかと思った、でも面倒くさい事になったらイヤだななんて思ってたら、二、三日したら引っ越してった。それからはこの部屋には誰も来てないの」
彼女は表情を変えず淡々と話し、淀みのない動きでお湯をカップに注いでいた。彼女の話に僕は返す言葉もなくただ気のないフリをして軽く頷いて見せた。彼女はこちらを見てはいなかった。ゆっくりと僕の前へカップを置き、僕に正対して体操座りのように膝を立てて座った。僕のカップはまた取っ手がついているほうだった。僕らは部屋の真ん中の畳一畳の中にいた。彼女はコーヒーに映る自分の顔を見るようにカップの中を覗き込んでいる。
ふと、これはなんだろうと考える。苦味という味でしか飲むものであると感じれないインスタントコーヒー。あの優雅な動きで彼女が入れたものとは思えない。そしてひどく懐かしい感じのする畳の座り心地。なによりも変な髪形をした一人の女性。そしてその女性と僕のくつろいだ姿の距離感。よほど仲の良い女友達とでもこんな距離感で僕は話さない。何より彼女と僕の間柄は知り合いという関係よりもまだ薄い。この現実に触れている感覚と僕の常識とのギャップが僕を混乱させている。それを何とかしようと何を言えばよいのか僕は迷っていた。
「仕事してるの?」
また彼女はすぐには答えなかった。
彼女はゆったりとした動作で湯飲みのコーヒーをすすり、深く息を吐いた。この間が僕に世界に独りぼっちであるような気持ちにさせた。あるいは業とそういう気持ちにさせられているのかも、という気までしてきた。
静かに湯飲みを置いて彼女が言った。
「してるわ」
深い海の底から這い上がって息を吸い込むようにすかさず僕は言った。
「どんな?」
「ウェイター。オーダーを聞いて、それを客に出す。それだけ、ロボットにもできるわ。楽な仕事よね」
働いてもいない僕にはそれを楽と捕らえることにはいささかの躊躇があった。どうも話題を切り出し膨らませることの苦手な僕はここで話すべきことを探し当てることは出来なかった。
僕は変な間を作ってしまった。
何かとても嫌なことをした気分だったけれど、だいたい相手の頼みでここに来たのに何故こんなことに悩まなくてはいけないだろうと思い始めた。だんだんとここにいることが不快になってきていた。
彼女はねぇ、といって僕を呼んだ。
それからしばらくはあの夜と同じく僕のことに対する質問が続いた。
僕が浪人を経てここへ下宿してきたこと、バイトはしていないこと、スポーツ番組ばかり見ていること、彼女なし、暇人、云々。
僕は言っても害のないことだけにはちゃんと答えた。答えたくないことははぐらかしていた。彼女もくどくは聞かなかった。彼女は飲み終わったカップを持って流しへ行き、二つのカップを手際よく洗い自分の手をしつこいくらいタオルで拭いた後また僕の前に座った。今度は出会った日のように膝が当たるぐらい近くに座った。僕は彼女を見た。彼女は真っ直ぐ僕の目を見ていた。それが分かっていても僕は目を合わせなかった。彼女の服を見ていた。色落ちしたジーンズに胸の辺りにラインの入った白くタイトなTシャツを着ていた。そのTシャツの首元から覗く鎖骨の辺りは水が溜まりそうなほど窪んでいた。彼女の肌は白く、Tシャツの白色にはない柔らかな質感と丸みがあった。触れ合う膝の辺りから僅かに温もりが伝わっていた。同じ体勢で痺れてきた足を気にし始めたときに彼女は膝を抱えるように座りなおした。
「私のこと聞かないの?」
僕は考えるフリをした。人の事についての僕の意見はいつだって決まっているのだ。
「何をどう聞いていいか分らないよ。まだ会って間もないし…」
「家をでた一人暮らしの女性に心配事ぐらいあるとは思わない?」
一人暮らしの女性の心配事と僕にいったい何の関係性があるのだろうか、と思う。それでも彼女がそれについて何か答えを出せと僕に要求していることは立てた膝を僕の方へ少しだけ近づけたことで分かった。彼女は少し首を傾げながらじっと待っている。
「押しかけてくる男を追い返すことの出来る女性に心配事があるのかと言われてもなぁ…」
僕の答えはどうも彼女の望んだものとは程遠いようで、呆れたようなため息を力一杯吐き出してその不満を表現した。
「そんなんじゃ、女心の分かる男にはなれないわよ」
ほぼ初対面のような人に言われる筋合いの無い距離感の言葉だった。僕は単純に腹が立った。
「聞いてどうにか出来る事は誰が来ても同じことだし、どうにもならないことを簡単に他人に話すなんて言う人はそういない。自分から話すようなことは、どうにもならなくても聞いて欲しいことだ。ただ聞いて欲しいことだ。そうだろ?」
なんでこんなことを言ったんだろうと思った。思ったことを何も考えず口にしたのは随分久しぶりなことのような気がずる。僕はまた彼女が近すぎることで混乱していたのかもしれない。
意外にも、彼女は僕の言ったことを頭の中で反芻するように大きくうなずいて見せた。
僕の混乱は続く。
「僕には人を救ってあげられるような素晴らしい言葉を生み出す頭もないし、人の何かを背負うような責任感も持っていない。だから僕が聞くのは相手の話したいことだけだし、ただ聞く、それだけだよ」
これは嘘だ。気持ちの悪い嘘だ。相手の話したいことなんて僕は聞きたいと思ったことなんてないのだ。ただそれは人とのつながりを保つために必要な許容である。それが今までの人生で学んだ自分というものを隠すのに一番効率のよい手段だと知っているからだ。
「優しいのね、意外と」
「違うよ。ただ面倒くさいのが嫌なんだ。何も出来ないようなことに答えを求めようとすることも、何かを背負ってしまうことも」
なんだか弁明している気持ちになった。膝を立てて座っている彼女は膝に乗せた両腕に顔をねかせ、虚ろな目をしていた。
彼女は僅かな笑みをその口元に添えて優しく言った。
「誰かに頼られたことがあるのね」
何も考えず思いつきでしゃべったのはいつ以来だろう。
自分の話した後に必ずやってくる羞恥心と後悔の入り混じったとても嫌な気持ちのことを忘れていた。でもこの時の僕は話さないわけには行かなかった。きっと彼女がそうさせているんだ。
胸の中のざわつきと何かが過去の自分を呼び戻して僕を弱気にさせた。僕はいつの間にかこれまでの経験から自己防衛のため身につけたはずの殻の中にいた。
「そう、だね…。過去の経験からの言葉かもしれない」
「相手の問題を解決できなくてつらい思いをしたの?」
「つらいのは話されたことじゃなく、相手がその話に対して何の解決をも求めていないことに気付かなかった自分の愚かさに対してだ」
僕の頭の中でふいに古い思い出がよぎった。そして嫌な気持ちになった。不安定な感情が僕の中で暴れている。思い出したくもない思い出を仕舞い込むのに必要なだけの力を僕は未だ持ちえていない。自分のなかに向いた意識を彼女の声が現実世界に戻す。
「自分に厳しいのね」
「そうでもない。今はそのことを思い出すことも他人のことを考えることもすべてが面倒くさくなったんだよ」
「そういう気持ちは私にもあるわ。色んなことが面相くさくなるの、だから家を出たんだもの。結構スキよ、その後ろ向きな考え方」
と、こちらを見て笑った。
後ろ向きな考えと言われてしまった。ただ僕は自分が面倒くさがりなのは認めるが、前向きには生きてきていると思うのだけれど。彼女にしてみるとそれも同じことなのだろうか。あまり話したことのない自分の内側の話を会って間もない彼女に話していることが不思議だった。
何も持たずに他人の前に立つことは危険だと知っていたはずだ。人に自分の内側を晒すことは自分の感情の一部を支配されるのに等しい。
何故なら人は他人の気持ちを完全に理解しうることは出来ないし、いつのときも人間は無邪気に他人を傷つける生き物だからだ。
中途半端な理解で人を決め付けたり、他人の会話などから得た他人の情報を軽々しく使うことは相手に目に見えぬ血を流させることになる。そもそも他人の屈辱や怒りを人それぞれがしっかりと理解できているなら、衝動的な殺人は起こり得ない。外的要因による自殺もだ。
だから僕はできる限り僕自身のことを人に話さなかった。誰に対する怒りも殺意も僕の生活には無意味であるし、それを持つことはエネルギーの浪費だ。
僕はそれを学んだはずだった。ここにくるまではうまくやりぬけているはずだった。彼女との僕の関係は危険すぎた。あくまで僕にとってではあるけれど。彼女といることはさらに僕を混乱に導く。
この世界、といっても僕と彼女のいるこの部屋という空間にだけすべてのスイッチが切れたような静けさがあった。僕はその空気を変えるような話題も言葉も何一つ見つけられる状態になかった。彼女も何かをこれ以上話そうという気は全く無いようだった。
どういうことにしろ、彼女の上目使いに見た僕への視線を外せずにいる。
あまり人に目線を合わせられるのが僕は好きではない。かすかでも自分の内面の弱さにつながるものが発見されるのが嫌だからだ。
彼女の目は大きく、僕の目というよりは、僕の目に写る彼女自身を覗き込んでいるようだった。
僕も彼女の目の中を見た。
彼女の目を見てもその中は思いのほか深く僕は映っていなかった。
「暇だね、何かしようか…」
限りなく自然で透明な彼女のその声はこれまでと違って艶があった。
僕は聞き取れなかったようなリアクションをした。
彼女はもう一度は言わなかった。
ただ、何も言わず両手を畳につき四つんばいの姿で僕に近づいた。
彼女の顔には、微笑みに忍ばせた企みとその企みが必ず成功するといったような傲慢にも似た自信がうつっていた。
そして彼女は僕の首に手を回した。
彼女の腕から伝わる彼女の体は見た目以上に細く華奢に感じられた。
どこかで嗅いだことの在るシャンプーの匂いがした。
僕が理性を保っている最後のときに考えることの出来たこと。
財布にコンドームが入ってたっけ?
部屋の隅に眼鏡を投げた。僕は乱暴に彼女のシャツを脱がした。
彼女のしぐさ、彼女のぬくもり、それらを落ち着いて感じることが出来るようになるのは少しだけ後のことだった。
○
この日から僕はいろんな意味で日常を失い始めていた。かといってとくに最近の日常に名残などまったく無かった。暫く悩まされていた白昼夢も見なくなるのだけれど、彼女との生活自体を白昼夢だといっても可笑しくはない気がした。
もちろんそれは少しだけ後になってからである。
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ともかく、ひどく夢と現実が見分けにくい頃のことだった。
完読感謝。つづきマス。