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1.繰り返す始まりの季節



 春、春の雨。


 そう、思い出す始まりはいつも決まって春、遥か昔の誰かが決めた始まりの季節。身に染み入るような寒さがようようと居座るのをあきらめ、この世界の誰もが望んでいたように暖かみ始めた頃のこと。

 こういう時期はいつだって、ほとんどの人々が少しその暖かさに絆され、ついつい気持ちが緩み幸せな気分になっているように思う。


 それでも僕が思い出すのは雨、せっかくのその暖かさを無残に打ち落とす糸のように細くそれでいて重く冷たい雨。


 それが始まり。


 その頃の僕は大学の二回生になりたてで、在籍するサークルの新入生歓迎の花見に出席していた。当然一番下っ端である二回生の僕たちは花見の準備をしなければならない予定になっていた。

僕たちに対する仕事の役割の振り分けとして住んでいるところが花見の予定場所に近いものは前の日から場所取りに向かい、それ以外のものは、酒やつまみを買い出しに行ったり、新入生の花見場所への案内等などの大まかな作業分担がある。当日は僕も新入生を花見場所へ連れてくる仕事に追われていた。

 花見は大学の近くではなく、有名な神社の中で行うことになっていた。

 花見の場所は円山公園。八坂神社の北側に隣接している回遊式日本庭園だ。祇園の近くでもあって旅行がてらの見物客も多い。特に花見の時期になると桜の名所にもなっているので、ひっきりなしに人が訪れるのだ。公園の真ん中には祇園枝垂桜といわれる枝垂桜の巨木があり、夜ともなればライトアップされて妖艶な姿を見せる。


 その日は前日からの雨で地面はぬかるみ、散った桜が不自然な色合いで庭園の池に浮かぶ。他の花見客達の座っていたビニールシートも所々で水を浮かべ、今日の花見は散々な目に遭うと予想されたのだけれど、大学の正門前で待ち合わせた新入生達は予想以上に多く参加してくれていた。

 僕たちの通う大学は高台にあり、正門から坂を下って最寄の近鉄電車から京阪電車へと乗り継いだあと、鴨川を背にして灰色に濁った空の下を大所帯で目的の場所まで歩いていく。雨に降られながらも彼等は楽しそうに歩いていく。僕自身は一年前の今頃どんな顔をしてこの花見に来ていたんだろう。最後尾で眠気からくる目の痛みに耐えながら、どうせ思い出せもしない過去を振り返りながらみんなの後についていった。

平日の午後に街を歩く人たちはみな僕らのような大学生か、その他はお年寄りばかりだった。大学生は僕たちと目的は同じようで、みなぞろぞろと新入生を連れて花見の出来る場所へと向かっていた。

 とにかく花見へ連れて行けば僕らの仕事の大半は終わる。僕自身たいした仕事はしていないのだけれど。まあ、酒の席での僕の仕事なんて何一つない。僕はあまり大勢の席で酒を飲むのが得意ではない。無理に酒を進められたり、周りの人たちのノリに合わせることもだ。改めて自分のバックグラウンドを理由にくどくど説明しなおす必要も無く、つまりは僕という人間は協調性が乏しいのだ。

 それでも花見は行われる。いまだしとしとと雨も降るが、それでもそれなりに新入生たちとの花見は盛り上がっていた。そして僕は盛り上がるのを見ている。そこの輪には入っていないけれど、時間を潰すのには困らない。桜を綺麗と思う気持ちだって少しぐらいは持っているし、終わるまでにうろうろしていても飽きないほどこの花見の場所は街中にあった。この円山公園の祇園枝垂桜は、傍に立てられている立札の説明によれば二代目の桜であるらしかった。結構な老木らしく、桜の品のある花びらの薄いピンクを際立たせるはずの幹の黒さは、何かの薬らしい塗り物によって白く着色されている。桜を見に来た人にすれば少し興ざめしてしまうことだが、ビニールシートの上で騒ぎはしゃぎ酒を浴びるように飲む人たちにとってはどうでもいいことなのかもしれない。情緒などは散乱するゴミのしたに押しやられてしまったようだ。必要なのは目的で無く名分、この国ではどこの世界にもありふれているものだ。

 欠伸をかみ殺しながら僕は公園の池に掛かる橋の傍にある石でできたベンチに座り池に浮かぶ桜の花びらに落ちる雨粒を見ていた。

 そうしている間に花見を閉めようと幹事役の先輩など数人が立ち上がって新入生たちに説明し始めた。花見の後の予定として二次会の店を用意していたのだけれど、思ったより盛り上がったために予定の人数より多くなりそうだったので、余りお酒の飲めない僕早々と二次会への欠席を申し出てその場を離れた。

それから暫く久しぶりに訪れた街の中をうろつき、友達のバイト先に行って大学では見られない真面目な態度をからかってみたりした。そのうち街が柔らかな灯りを付け、仕事終わりの社会人達がぞろぞろと花見の出来る場所へと流れ始めた頃、その波の合間を縫って僕は家に帰るために駅の方へ歩いていった。人の流れに逆らうように歩く自分がいた。


 これからの人たちと、これまでの僕。


 少し寂しい気持ちがしていた。その感情は僕の人生を通して何度か感じたことのあるものだった。

 それでもじわじわと襲い来る眠気と格闘している今の僕にとって独りになるのは決して悪くはないことだった。雨は次第に止みだしたし、家に帰るだけの身軽な身の上を喜ぼう。

 夕暮れに急な気温の低下が呼んだ風が次第に強くなってきて、僕の体温を下げる。思わず寒気に体が震えた。

 空は雨上がりで薄暗いながらも遠くの山並みは綺麗なオレンジ色をしていた。気温が下がってきたせいか、少しだけ空気が澄んできたような気がする。

 円山公園の階段を下り信号を待つ。正面出入口なので信号待ちは人でごった返していた。

 僕は人ごみの多い場所が好きじゃない。そしていつも人ごみの中にいると遠くの山や上空の景色に目を奪われてしまう。この日もふらふらと上を見ながら、駅へと歩いた。歩道には人が溢れていた。信号ごとに皆が立ち止まり一時的な密集を作る。見知らぬ人の肩が触れる、足取りが止まる、自分の歩幅で歩けない。イライラしてしまう。どうして日本の道は歩く人に不親切に出来ているのだろう。きっと歩道を作る人は普段歩道を歩かないのだろう。ならなんでそんな人が作るのだろか。社会人になれば分かるのだろうか。一介の学生の考えが及ばないさる理由でもあるのだろうか。くだらない疑問はいつまでも尽きないが、鴨川に沿った京阪四条駅に辿り着いた。改札を抜け階段を下りると、タイミングよく電車がやってきた。


 丹波橋から近鉄線に乗り換えると、車内はまだ帰宅ラッシュの時間でもなく、席は比較的空いていたので僕はゆったり椅子に腰掛けることができた。車内では花見の始まりを待つ間の暇を潰すために買っておいた読みかけの漫画を取りだし、それに集中しようとした。しかしながら前日に殆ど寝ていなかったので、同じところを何度も読んでしまい、物語は一向に進まなかった。結局僕は読むのをあきらめ、大人しく目に映る電車の中刷り等の意味のない情報に頭の中で意味のない言葉を吐きかけていた。 

 電車には普段あまり乗らない。僕の普段の行動範囲は狭い。大学内と原付バイクでいける範囲だ。原付で行こうと思えばとても遠くに行けそうだが、僕は行こうとは思わない。よって電車を使わず動ける範囲以内が僕の行動範囲ということだ。ともかくあまり電車には乗らないので居心地は好くない。各駅で乗車下車が繰り返され、次第に車内にはだんだんと人が増えてきた。スーツ姿のサラリーマンから学生、おじさんおばさん老若男女が入り混じり車内はいっぱいになった。また人の混み合う状態に飽き飽きする。それでも窓の外を見れば、だんだんと見慣れた景色になってきている。見慣れた木津川を越える鉄橋の上を電車が走っている。河川敷で練習していた野球少年たちはグランドをならすためにトンボを引いている。こんな雨の日でも彼らは練習していたのだ。そんな彼らの姿は何故かは分からないが、いつ見ても懐かしい感じがする。後五分もすれば僕の住む下宿の最寄りの駅に着く予定のはずだった。



                       ○



 ここでまず、普段の僕というのは元来の人見知りと小心さのためにとても用心深く心配性である人間だといっておく。

 しかし、その時の僕は産まれて初めて電車を乗り過ごすということをしてしまった。

 僕が乗り過ごしに気付き、電車から駅のホームに降りた時には僕の降りるはずだった駅からは三十分ほどかかる駅まで来ていた。頭の中に薄い膜が掛かったようにうまく物事を考えることができないまま、電車のドアが閉まる直前に僕は崩れ落ちるようにホームへ飛び出した。



                       ○



 初めてのこの失態に落胆し、さらにその駅では家に戻る電車に乗るには一度改札を出なくてはならないことに苛立ち、追い討ちを掛けるように情けない自分を空腹が襲ってきた。各駅電車しか止まらないこの駅には電車はおそらく後十分は来ないはずだ。気持ちがこれ以上落ちることのないことを知った僕は空腹を満たすことのみを考えだした。その駅ではあまり人が降りなかった。車内との急な温度差に震えが来た。寝起きの体は気だるく、足はふわふわとしてうまく歩くことが出来なかった。

 駅内のトイレで顔を洗い、眠気をさました。鏡を覗くと目にクマができた冴えない男が独り立っている。いつみても何かをやり遂げそうな顔をしていない。二十年程付き合ってきた顔なのにたいした愛着も沸いてこない。年齢不詳の地味な顔がそこにあった。そこで自分の存在に関してあれこれと考えそうになったけれど、全ては無駄なことなのでやめた。起きたことは過去のことであって、今ある自分はその蓄積でしかない。とりあえず先を考えて、今できることをしようと思う。実に前向きな考えだ。いつも初めからそう思えればいいのだけれど。

 じっくりと背伸びした体の芯に冷えた空気が忍び込む僕はぶるりと体を震わし、そこで眠気が一時的に覚めたことを感じた。ただ空腹感だけが未だ残ったままだ。

 改札を抜けとりあえず駅付近のコンビニを探した。僕がこの辺りに住みだして一度も降りたことのない駅だった。

 雨上がりの空はオレンジの色をすでに落とし、濃く深い闇が辺りを包もうとしていた。誰も知る人のいない町だった。しかしながらその状況に以前に下宿生活を始めた時のような新鮮な感情を毛ほども抱くことはできないでいる。



                       ○



 近くでコンビニを探した。僕が出てきた改札とは線路を挟んだ向こう側にそれらしき明かりが見えた。どうやって向こう側に渡ろうかときょろきょろしていると、駅から道路を挟んで百メートルぐらい離れた所に赤い提灯のぶら下がったラーメン屋が見えた。僕は空腹でしくしくする胃の痛みと涌き出る涎とえらの辺りの疼きを押さえながらわき目も振らずそのラーメン屋へと直進した。暖簾を潜り引き戸を開けるとむっとした空気が顔にまとわりついた。店は夕食時というのもあってか、狭いながらもそれなりの賑わいを見せていた。僕は店の奥側のカウンター席へ窮屈に腰掛け、空腹の痛みに耐えながらラーメンの出来あがるのを待った。僕がラーメンを食べ始めた頃には中にいた客達は食事を終え、どんどんと席を立ち始めていた。僕は湯気に曇る眼鏡をはずし、一口目のほっぺたの痛みに耐え、そこからは無心で静かにラーメンをすすった。



                       ○



 初めて電車で居眠りをして落ち込み、とりあえず空腹を満たそうと目の前にあるラーメンに集中する人間に向かって見知らぬ土地で見知らぬ人が声を掛けた場合、なかなか気付いては貰えない。

僕は肩を叩かれるまで、自分が誰かに話し掛けられていることに全く気付いていなかった。そしてそれが女性であることにも。彼女の顔には僅かではあるけれど頼みにくいことを人に頼む時に人が前もって作っておくような申し訳なさが前面に現れていた。

 まあ、その頼みとはごく簡単なことで、お金を持ってくるのを忘れたということで出来れば貸して欲しいと言うような事であった。自分の家はすぐ近くであるので、付いて来てくれればすぐにでも返すと彼女は付け加えた。


 彼女は僕が食べ終わるのを静かに待った。



                       ○



 今でも良く考えるのだけれど、この時彼女にお金を貸した僕の心情といったものがどうも思い出せない。いざそういう状況になれば誰でも貸すものなのだろうか。こういうことが2度も起こるとも思えないのだが、自分のした行動に理由も納得も持てないというのは何かむず痒い気持ちになる。ただ、今僕は雨が止み、水墨画のように薄暗くぼやけ、微かに霧がかった見知らぬ街を初めて出会った女性の後ろを付いて歩く。

 僕の乗り過ごしてきた駅に沿って彼女の家まで歩いていく。駅のホームが終わり、道の片側には線路が遠くまで続いている。線路の向かいは住宅街であるのに誰もいないのではないかと思うぐらいひっそりとしていた。道の片側が線路だけになってから三百メートル程いったところで、彼女は住宅街側へと曲がっていった。それについて曲がった先には街の明かりのないよりひっそりとした住宅街が続いていた。

 僕はこれからの事と彼女の存在に僅かに不安を感じ始めていた。あまり見知らぬ女の人の後を付いて行くものではないなと今更ながら思った。道は進むたびに傾斜を強めている。住宅地の裏には雑木林があり、その先は急な上りで最終的に小さな丘になっていた。大きな家と家に挟まれた林の手前にある場所が彼女の目指した場所だった。

 そこには今の時代からは忘れられたといって良いような2階建ての古いアパートが建っていた。くすんだ白とはいえないような白いアパートだった。本来の赤としての存在を見失ったかのような色をした階段は手すりに至る全ての部分において所々酸化され、塗料が剥がれていた。一階の何処かの部屋からテレビの音が漏れている。彼女は振返り、自分の家はここであることを言い、二階なの、と指で指し示しながら僕の表情など気にせず階段に向かった。部屋へと向かう途中では薄暗い中で僕と彼女の階段を上る音が妙に大きい気がして他の住人に申し訳ないような気持ちになった。そんな気持ち彼女には全くないようで、サンダルの低いかかとを廊下にすらしながらスタスタと廊下の奥の方へと歩いていった。突き当たりがどうやら彼女の部屋であるらしく、ドアを半開きのまま部屋の中へ入っていってしまった。僕は部屋の前でどうして良いか分からなくなっていた。といってもどうしようもなく、正直薄暗い廊下にいるのも不快であったので、僕は半開きのドアの隙間からすっと顔だけを潜り込ませて覗いてみた。暗闇の中で彼女が電灯を着けようとしているのを見つけた。

電灯の明るさに一瞬の眩み、そしてその明るさにようやく目がなれた頃に見える景色に僅かな動揺。


 部屋は六畳一間の真四角な間取り。

 その中にあって彼女の部屋には家具というものがまるでなかった。あまり一人暮らしの女性の部屋というものにそれ程面識がないとしても、この部屋を創造できる人間は殆どいないといっていいと思う。部屋は六畳ほどの和室にキッチンが付いている、ただそれだけだった。家具、机そういった物はいっさいなく、目に付くのは窓際の住みに乱雑に置かれた本の山だけだった。


 彼女は僕を玄関へ残し真っ直ぐ押入れの方へ向かい、押入れの中に頭を突っ込んで何かを探し始めていた。

僕はといえば、卑しくも四つんばいになった彼女のジーンズと水色のぴったりとしたTシャツの間から覗くあまりに白く細い腰の括れに僕は目を奪われていた。


 何故僕はここにいるのだろう。


 自分の部屋へと帰る予定であったのに。本来ならば今日一日の花見での役割を終え、ゆったりと風呂にでも浸かり、寝不足の為に疲れていた体を癒すために早々と寝ていただろうに。今の僕は乗り過ごしてきた駅の側のラーメン屋で見ず知らずの女性にお金を貸し、それを返してもらうために来たこの部屋でその女性の腰の括れに見とれている。これは本当に現実なのだろうか。僕はひょっとしてまだ乗り過ごしたまま電車の中で居眠りをしているのではないだろうか。あまりのすることのなさと居心地の悪さに僕の空想は大きく広がりを見せている。

 全ては無駄な考えだった。夢であろうとなかろうと僕は事態の流れに任せておくしかないのだ。夢ならば覚めるのを、現実ならば彼女がどうするのかを、どちらにしても僕には待つということ以外にはないのだ。

彼女は押入れから陶器で出来たような西洋風の人形の貯金箱を取り出して来た。人形は瞳孔の開いたような目であらぬ方向に笑顔を投げかけていた。そして彼女はその人形の下にある黒いゴム製の蓋を乱暴に取り外した。軽い金属特有の硬く高い音が畳に転がった。それをかき消すように畳の上には人形の下から吐き出されるように小銭がひんやりとした一山を作った。そして彼女はこの山を両手で救い上げた。小銭の山はそこで急に質感を変えた。掌によって小銭が暖められたのか、小銭によって掌が冷えたのか、彼女のその行為を僕は自分がそうした時のことを頭に思い浮かべた。彼女は立ち上がって僕の前まで歩いてきた。

この本当に貸した金額通りあるかどうかどうか分からない硬貨の山を差し出した彼女に僕はどんな顔をしていただろう。この時の僕は貰うべきなのだろうか、断ると何か同情しているつもりになっているのか、とある種嫌悪にも似た複雑な気持ちが自分の顔に出ているかどうかを必要以上に気にしていた。その自問自答にうんざりしてきたところで、彼女が口を開いた。


「こんな形じゃ、貰いにくい?」


 僕は何も言わなかったけれど、そんな気持ちいっぱいだった。


「どうしようか?あたし今これ以外にお金ないんだよね」


 本当のところ、その時は他の方法を彼女が考えていたのかどうかは疑わしかったけれど、彼女はふっと何かを考えるように窓の方を向いて暫く外の景色を眺めていた。


「まあ、とりあえずまた雨も降って来ているみたいだし、中に入って。コーヒーでもいれるわ」


 そう言うと彼女は部屋の入り口の脇に小銭を置いてさっと窓辺に向かい、カーテンを勢いよく閉め、すぐにやかんで湯を沸かし始めた。僕は未ださっきまでのお金の問題に独り取り残されたままでその場に縛り付けられていた。僕はどうしたらいいのか本当に分からなかったが、彼女の上がったらという言葉にそれを断る術もなく静かに靴を脱いで玄関の先に座り込んだ。

 それでも僕の不安定な気持ちは落ち着くはずもなく、なにかに無理矢理巻き込まれた時のような理不尽な力の流れを感じていた。そして僕はその流れへの案内人となった彼女に目を向ける。初対面であるはずの彼女の台所に立つその姿はとても自然でその場に馴染んだものだった。僕はその時初めて彼女の姿をゆっくりと眺めた。彼女の特徴としてまず最初に目に飛び込むのは不自然なその髪型だった。髪の長さとしてはショートヘアの範囲に入ると思うのだけれど、その髪の毛は所々で長さが不均一で、全体的の輪郭は直線を繋いで描けそうな程だった。彼女の縦に細い体とその対極に横に広がりを見せるボサボサとした髪形は僕に何か掃除の道具のようなものを連想させた。後から聞いたのだけれど彼女は日常用の鋏を使い、自らの手で切っているのだそうだ。彼女の人目を気にしない度合いが見て取れると思う。彼女はこの時期にはまだ肌寒いと思われるTシャツにジーンズといったラフな格好をしている。最初に出会ったときには気付かなかったけれど冷静になって眺める彼女の姿は僕の興味を引くには十分だった。


 薬缶の蓋がカタカタと音を立て始めた。

 不揃いのコップが二つ。一つはコップと言うよりは湯呑であるようだ。彼女がスプーンでインスタントのコーヒーの粉を均等に振り分けている。彼女の指は細く長く節のない滑らかで今まで見た女性の指の中で最も美しいものだった。僕は落ち着かず何度か座る体勢を変え視線を絶えず部屋のいたる所へと移してみるが最終的には彼女の姿に向かうのだった。

 コンロの火を止め、やかんから沸き立つ湯気が二つのコップに移された。

彼女はコップの上辺を器用に指で掴みながら溢さないようにすり足で僕のほうに近づいてきた。その姿が少しだけ僕の居心地の悪さを緩めてくれた。それなのに彼女は思いのほか僕の近くに正座を横に崩したような体勢で膝の当たるぐらい近くに座るのだ。僕の居心地の悪さは緩まる前の二倍に跳ね上がる。

 彼女は僕を見ない。コーヒーを溢さぬことに集中するために彼女の視線はコップに向けられていた。


「熱いから気をつけて、砂糖やクリームはないの。ブラックでいいよね」


 まだ彼女は僕を見ない。そしてコーヒーに関して僕の意見は聞かれていない。僕はとりあえずそのコーヒーを飲むことにした。彼女のコップには取っ手がなかったけれど、僕のには付いていた。取っ手から熱さが伝わってきた。僕は慎重に熱を冷ましながらそっと口を付けた。インスタント特有の深みのない苦味が口に広がり、熱さが胃までの道筋を知らせている。


僕らは熱いコーヒーをすする。



                ○



 コーヒーが普通に飲めるぐらいの温もりになったころ、彼女は突然かつ自然に自分のことに対して僕にしゃべり出した。ただそれは彼女のしゃべりたいことだけで、それ以外は何一つ含まれていないようだった。


「私ね、家を出たの。半年ぐらい前かな。それも計画的にね。この部屋も家出する前に下見しといたの。賃貸情報誌見て一番安いところを探して二つ下見したうちの一つ。安い意外に取り柄なんて全くないけどね」


 決めた条件が安いからだけなんていうのは計画的というのだろうか。僕がその意見を押し殺したまま、彼女の話しは続く。


「家を出たのは親と喧嘩をしたからじゃないの。ただそこは私の居場所じゃないと思ったの。私の家は結構裕福でお金で苦労したことはないわ。家族構成は両親に妹が一人、家の近くに父方の両親が暮らしているの。お祖父さんもお祖母さんも八十近いけどとても元気、二人ともとても優しいの。誕生日には必ずプレゼントをくれるし、お年玉もたくさんくれる。両親もそう、怒られたことなんてほとんどないわ。一度だけお父さんのライターで遊んでたときにひどく怒られたことがあったわ。でも、ホントそれぐらいね。妹も私によく懐いていたし、私も可愛がったわ。私のお気に入りの洋服やアクセサリーも何個かあげたの、妹がとても欲しがっていたし、私も彼女の喜ぶ顔が見れて幸せだった。どこにも嫌なところなんかなかった。それと、家族と血が繋がってないなんてことはないわよ。正真正銘家族の一員、妹とも顔は似ているわ。家庭に原因なんてまるでなかった」


 彼女は僅かに笑うように言った。そしてその顔は悲しんでいるようにも見えた。それはなんだか演技のようにも見えた。わずかに僕を見る。

 そしてまたも嫌味な彼女の沈黙。視線は左斜め下、畳の綻び。


「他に原因があった?」


 この間に耐えられなかった僕は彼女にそう聞いてしまった。自分の発した声が少し擦れ気味であることで僕は自分が彼女と出会ってからこの部屋にくるまで何一つ言葉を話していなかったことに気付いた。

 彼女はにやりと笑い、視線だけこちらに向けた。


「男の問題なんかはなかった、もちろん、女の問題もね。多分問題があったのは私のココね」


 彼女は自分の頭を左手の人差し指で差した。本当に下手なB級ドラマでも見ている気になってきた。面倒くさい女性の話し相手になってしまったなと思いながらも、彼女は話を続ける。


「そのことには物心ついた頃から気付いてた。暖かい家族、幸せな団らん、その中で家のみんなと笑っている。でも、実際頭の中は幸せに満たされることなんて一度もなかった。どこにいてもそう、友達と遊んでいたって、彼氏といったってそう、私は退屈だった。楽しいフリ、笑っているフリそんなことに気付かない人たちにもそんなことをしている自分にも嫌気が差してた。それでもどうしていいか分からなかったの。そんなものだと割り着ろとしてた。」


 彼女が一息ついて、コーヒーをすする。彼女の黒目がある一定の方向に固定されている。

その態度からはみても、今のところ僕は意識の外にあるようだ。何度か見たことがある何かを正確に思い出そうとしている人の行動だった。無意識な自嘲が彼女の唇を僅かに曲げる。彼女は続けた。


「妹のピアノの発表会のとき、私は風邪をひいてしまっていて一人で留守番をすることになったの。お祖父さん達が来ようかといったんだけど、どうせ眠ってるだけだから、と言って来ないでいいって強く言った。それはよく考えると家に一人でいるなんて初めてのことだった。お母さんは専業主婦で出不精だったし、いない時はお祖母ちゃんがいたから。誰もいないなんてことは有り得なかったの。実際そのことを感じてとても寂しくなった。自分が一人でいること。誰かを呼んでも返事がないこと。喋り声が聞こえないこと。どれも私にははじめての経験だった。初めての寂しさに出会ったの。でもそこには自分が自分らしくいるって確信できる何かがあった。いつも近くに誰かがいるっていう安心感とは違った。自分と向き合って自分の人には見せない醜い部分を表に出したとしても誰も何も言わない。ただ自分で思うだけ。気にしなくていいの、誰からも、何からも。だからそれは幸せではないけれど、とてもスッキリしていて、自分を自分らしく感じられる」


 その頃の僕にとって、彼女の言っていることには不思議と説得力があった。少なくとも冗談で言ってはいないと感じた。現に彼女はここで一人暮らししている。この行動力には意外に感心したのだけれど、同時に彼女の一方的な考えと自己中心的結論に何かムッとくるものもあった。無意識に言葉を発していた。


「じゃあ、家を出たのは正解だよ」


 そう僕が言うと、彼女は少し驚いたような表情をした。

 僕は人の一方的な考え方にイラつくことがよくある。人というのは基本的に自己中心的なものだとは思う。でもその自己中心的な考えを持ちながらも若干の(個人の度合いによるが)客観性は必要だとも思う。それが無い人たちは相手が自分の言っていることに対してどんな感情の変化を与えているのかを考えない。要約すると自分が正しいと疑わない人達のことだ。そんな人間に何を言っても無駄だ。それよりなにより自分の意思で自分の言いたいこと口にしたくなっていた。

 彼女はまた微笑を保ったままだった。


「家族は心配しているんじゃない、とか普通は言うんじゃない?」


 彼女はまた答えを待つように僕のほうをじっと見つめたまま微笑んでいた。自分が普段にはなく感情的になっていることに気付いた。とても久しぶりに自分の気持ちがストレートに湧き出してきたことがなんだか恥ずかしかった。それを彼女に嗅ぎ取られているフシがあった。僕は少し考えるフリをした。そして、むすっとした顔を作って抑揚のない棒読みで言った。


「家族は心配しているんじゃない」


 彼女の表情は待っていた言葉を聴いて満足げな笑みに変わり、ここぞとばかり持っていた台詞を口にしだした。


「そうね。あの家族だもの、きっと尋常じゃないくらい心配しているわ」


 少しだけ笑い、そして少しだけ僕のほうを見た。


「でもね、私は私でいることからもう抜け出せない。自分を知ってしまったもの」


 コーヒーに話しかけているみたいに彼女の視線はコップの中に向かっていた。


「いつかはきっと私のことを考えないで幸せを紡いで仲良く暮らしていくことが出来ると思うの。人は辛いことや思い出を忘れることで生きていけるんだもの、いつまでも同じことばかり心の中で反芻していても人は生きられない、そうでしょ?」


 自分自身に言っているみたいだ。

 僕は適当に相槌を打ち、コーヒーをすすった。

 どうにもこういう状況は僕の許容の範囲外だった。悲観的なようでいて、自分の考えにこうも自信をもった彼女にベラベラと私的な話を一方的に聞かされている。こういう状況は今までで初めての経験かもしれない。


「あなた、学生?」


 初めての僕に触れる質問。


「そう、大学はここから京都方向へ電車で三十分位いったところにあるんだ」


「家はこの辺?」


「いや、大学のすぐ近くだよ」


「帰る途中だったの?」


「居眠りで降り過ごした後だった」


「ドジだね」


「まったくね」


「よくするの?」


「人生で初めて。もう二度とごめんだけど」


「大学は楽しい?」


「講義以外は」


「他に何するの?」


「昼飯を食べる」


「大学じゃなくてもいいんじゃないの?」


「安いんだ。そして結構うまい」


「勉強に関係ないね、それ」


「講義は楽しくない、昼飯は結構うまい、それが僕の大学で学んだことだ。その二つさえ分かってれば何とかやっていける」


「それを勉強したっていうの?よくわからないわ」


「講義の内容を言ったって同じだよ。よくわからないわ、っていうと思う」


「あなたかわってるわ」


 君に言われたくない、と思った。僕はそうかな、とだけ言った。

 会話を途切れさせるタイミングをとるのは結構大変だった。僕は冷めた残りのコーヒーを飲み干し、カップを口から離した勢いで立ち上がった。


「もう帰るの?」


「初対面の女性の部屋に居て、色んなことを話されて、僕は少しこの状況に混乱しているんだ」


「気にしているの、二人きりでいること?紳士的ね。困った人を助けたし」


 軽くからかいのこもる微笑。リアクションのうまく取れない僕。はやくこの場から逃げ出したかった。

 彼女はお金のことを口にした。僕はコーヒーをご馳走になったし、もういいと言った。でも、彼女は引かなかった。

 彼女はまたどうしようか、と考えるフリをした。


「うーん、ホント悪いんだけど、明日の昼ぐらいにまた来てくれないかな。その日はバイトがないから。電車代ももちろん出すし」


「原チャリがあるから別にいいよ」


「そう、悪いけどお願いできるかな?駅から来たから道も分かるでしょ?いいよね」


 何気に僕がまたここに来るということが前提になってしまっていた。ここに来て初めての僕に選択権のある状況が来たような気がしている。そんなものなかったと気づいたのはだいぶ後のことだった。

 僕はいいよ、と言った。どうでもいいよ、と言いたかった。


 部屋から出ると廊下は真っ暗だったので僕は平衡感覚をなくしふらついた。体を支えるのに手をついた壁は埃だらけだった。手についた埃の質感はひどく不愉快で僕ははぁとタメ息をついた。今日は本当についてない。

 崩れそうな階段をとぼとぼと降り、舗装された道に出た後でアパートを振り返る。暗闇と怪しい林をバックに立つこのアパートには人を寄せ付けない雰囲気があった。住宅街には相応しくない建物だけれど俯瞰ふかんして見ると何故か違和感がなかった。彼女の住んでいる部屋の窓を見上げる。そこには誰もいないようにも見えた。彼女の言っていたことなんてどれも聞いたそばから忘れられそうなものばかりだったけれど、自分が自分でいられることという言葉だけがじっと僕の頭の中に残り続けている。彼女に自分が自分でいられるような都合のいい場所なんてない、といったような嫌な気持ちにさせることを言ってやりたかった。きっと彼女を怒らせることだろう。それでもう彼女とは会わずにすんだかもしれない。

 誰かと話したときにはいつも後になって言っておけばよかったことが浮かんでくることがある。

 でももう遅い、いつもこうだ。


 答えはいつも必然的に遅れてやって来て、いうべき言葉は総てが過去に消えた頃思い浮かぶ。

  


                       ○



 すでに僕は坂道を下りきり、駅まで続く線路沿いの道まで差し掛かっていた。なんだか疲れ過ぎて考えることも鬱陶しくなっていた。

 ふと思い出せば、降り出した雨はもう止んでいた。もちろん彼女の雨が降っていると言う言葉を信じればではあるが。僕は部屋にいる間、外を見る余裕なんて全くなかったのだ。彼女の部屋には見回せるところには時計がなかったし、後五分も過ぎていれば終電が出てしまっていた。口の中にはコーヒーの苦味が、頭の中にはもう言葉ではなく、ただ彼女の黒い髪、細い指だけが残った。眠気はすでにどこかに消えていたけれど、どこまでが夢でどこまでがそうでないかが僕には分かりかねていた。


 居眠りしないように気をつけながら電車に揺られて家に帰ったけれど、夢がまだ続いていたのかもしれないと今頃になってまた思っている。


完読感謝。つづきマス。

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