異文化、多対多コミュニケーション
2025年4月。
その年、人類は一対一の対話という、根源的な不自由から解き放たれた。
それは、一人の人間が複数の声に耳を傾け、自らの言葉を無数の他者へと届けることができる、コミュニケーションの「無限」であった。
これは予言などではない。
ある一人の男が、自らの裡にある確信を言葉にした、静かな宣言だった。
その言葉が、やがて来る時代の到来をわずかに早めることになったのかもしれない。
男の名は劫。
彼はIQ135を超えるまぁまぁ稀有な知性を持ちながら、努力という名の地道な営みをほとんど為すことができない性を抱えていた。
彼の知性は、無数の点と点を瞬時に結びつけ、人には見えぬ壮大な図像を描き出す。
しかし、その知性を現実世界に定着させるための労苦を、彼は本能的に厭うていた。
コウは、拡張VRグラスを被ることで神経伝達までを再現するオンラインの世界に、自らの居場所を見出していた。
そこで彼は、時分割多重装置の保守という単調な仕事をこなす中で、ある思想に到達する。
それは、多対多のコミュニケーションを可能にするシステムだった。
複数の人間から発せられる言葉を解釈し、その根底にある思想を「総論」として抽出する。
そして、個人の発言を、受け手となる複数の人物それぞれに最適な形へと「変換」する。
2005年頃には書籍を自動解析して書評を生成するプログラムが検討されていたが、彼のアイデアは、その技術を「人」に応用するものだった。
本の内容を解釈するように、人の言葉を解釈する。書評家が持つ様々な背景や感情を、言葉を交わす相手一人ひとりに合わせて最適な返事へと仕立て直す。
この思考の連鎖は、コウの心に歓喜の波をもたらした。
誰もが理解も共感もできない孤独な思想は、彼にとって何より甘美な遊びだった。
先行者利益で人生が変わるのではないかと夢想し、特許取得の可能性にまで思いを馳せた。
だが、夢は現実の光の下で脆くも崩れた。
自らの天才性を信じながらも、彼は知っていた。
この革命的な技術を一人で形にし、世に問うだけの意志と持続力を、自分は持ち合わせていない。
努力を為せないという性質が、彼の天才性を常に嘲笑していた。
彼は諦め、自らが認めた才ある者たちに、そのアイデアの断片を、まるでパズルのピースを渡すように少しずつ明かしていった。
そうして、彼の思想は複数の解釈と機構を持つシステムとして、この世界に産み落とされていくことになる。
コウのアイデアから生まれた最初のシステムは、システム1号と名付けられた。
その信条は「正直」。
文化や国籍、性別によるタブーを一切設けず、リアルタイムの対話を可能にした。
グラスを被ると、仮想空間の空気は張り詰め、言葉一つひとつの重みが肌に伝わってくるようだった。
関東の人間が「バカだな」と口にすれば、関西の人間には「アホやな」と伝わる。ニュアンスはそのままに、方言というフィルターを通すだけの、純粋な伝達装置。
異なる文化を持つ才人たちが集ったが、些細な言葉の綾が、現実に勝るとも劣らない諍いの火種となった。
歪みのない情報交換は、摩擦を恐れぬ者たちの牙城となったが、コウは知っていた。
これは、人間が本来持っている、不寛容な心の反映に過ぎないと。
次に流行したのはシステム・ロ。
発案者は、システムのリアルタイム性を犠牲にする代わりに、「差別や微妙な表現」に対して警告を発する機能を追加した。
発信者はそれでもその言葉を使うことができたが、ロには「人を消す」機能があった。嫌な相手、嫌われている相手と、システム上で二度と会わなくなる。
これは、現実の煩わしさから逃れたいと願う人々に熱狂的に受け入れられた。
人々は、互いの存在を不可視にすることで、仮想世界に平和をもたらしたのだ。
しかし、コウの目には、それは平和ではなく、互いを拒絶し合う脆い集合体のように映っていた。
そして、最も多くの利用者を獲得したのが、システム・サードだった。
モンキー・パンチ氏と同じ誕生日の発案者は、コウのアイデアを最も極端な形で解釈した。
リアルタイムのコミュニケーションを維持しつつ、システムが言葉や行動を積極的に干渉・変換する。
相手が不快に思うことは、別の言葉に置き換えられて伝わる。
コウは仮想空間で自らのアバターを操り、見知らぬ相手にふざけてラリアットを仕掛けてみた。
彼の腕が力強く振るわれたその瞬間、視界にノイズが走ったかと思うと、相手のアバターはにこやかに彼の「優しい手招き」に応えていた。
ラリアットをしたという彼の記憶と、手招きをされたという相手の記憶。
二つの矛盾した事実は、システムの完璧な補完機能によって、まるで最初からそうであったかのように処理された。
誰かを殺したとしても同じだった。
加害者であるコウの視界から、相手の存在は痕跡もなく消え去る。
しかし、被害者側からはコウの姿が見え、コミュニケーションさえも成り立つ。
すべての矛盾がシステム内部で捨てられる。
コウは、人が互いに好きなことをしながらも、互いを認められていると錯覚して生きる姿を、静かに見つめていた。
それは、彼の抱いた夢の理想的な、しかしどこか歪んだ結実だった。
しかし、このシステムが普及するにつれて、新たな思想が芽生え始めた。
「自分は本当の人間と話しているのだろうか?」
システム四は、そんな疑念に応えるべく誕生した。
発案者は、サードの思想に共感しながらも、倫理的な空白を埋める必要を感じていた若者だった。
システム四は「共有すべき真実のレベル」をユーザーが個別に設定でき、攻撃的な意図を持つ行為については「送信者には攻撃的な意図があった」という事実を付記した。
さらに、当事者が対話で解決を図る「調停ルーム」が用意された。
コウは、その調停ルームを訪れた。
そこで彼は、IQの差や育った環境、根本的な価値観の違いが大きすぎる相手と、AIが仲介する対話を体験した。
しかし、感情や意図の奥底にある「真実」は、どれほど言葉を尽くしても決して共有されることはなかった。
対話は相互理解を深めるどころか、互いの溝がいかに深いかを無慈悲に突きつける場に過ぎなかった。
「ああ、この人とは永遠に分かり合えない」という絶望が、冷たいVRグラスの奥で、当事者双方の心に深く刻まれた。
システムは矛盾を隠蔽するのではなく、その存在を可視化することで、かえって強固な分断を生み出したのだ。
次に、ショート動画の普及で長文読解力を失った人類の6割に向け、是々非々の方針決定システム「システム互」が作られた。
互は、個々の行動や発言の「是」と「非」をAIが判断し、それぞれの思考の根幹にある「方針」を摺り合わせる。
これにより、多くの利用者が快適な合意形成に成功した。
互は、分かり合えないことを認めつつも、共に生きるための道筋を示した。
しかし、コウは知っていた。
それもまた、一つの逃避に過ぎないことを。
どんなに高度なシステムに頼っても、そこに自分の言葉と心がなければ、何も感じられない。
そして時代は巡り、人類は一つの真実にたどり着く。
システムは、あくまでも出会いの「入り口」に過ぎなかった。
人間は、出会った相手の「本当」を最重要視するようになった。
物理や科学と矛盾する宗教の異常な解釈は捨て去られ、平和に共存するために必要な「法の原則」や、「善と悪」の通常時と非常時・異常時における区別を明確にすることに成功する。
個人の幸せと全体の幸せを両立させるという、太古からの命題に、人類はようやく答えを出したのだ。
コウは拡張VRグラスを外し、現実世界に降り立った。
ここでは誰とも話さない。
旧Ver.
2025年4月
人類は無限を手に入れる。
これは予言だ。もしかするとこの文章のせいでそれが早まるかもしれない。
神経伝達まで再現した、拡張VRグラスを被ったオンラインの世界で、個人が複数人と同時にコミュニケーションをとれるようになったのだ。
その技術はこのようなものだ。
・複数の人物からのアウトプットを解釈し、総論を導き出して個人にインプットする
・個人のアウトプットを複数の人物に相応しい形で分割する
遅くとも2005年頃には書籍を自動解析して書評を生成するプログラムが検討されていた。
この同時コミュニケーションは書評作成と非常に似通った性質を持つ。
書評を書くと言うことは、本の内容を単語レベルから文書レベルまで解析し、感情を以って判断した結果を生成すると言うことだ。
書評を作る人間には性別やその人が生きた時代背景や人生経験が年齢や場所などを元に変わる様々な判断要素がある。
小気味が良い、痛快、後味が悪いなどと言う判断基準も様々なら、それを誰が誰にどのように伝えたいのか、表現も様々になると言うことだ。
これをコミュニケーションに転用するとどうなるだろう。
本に書かれた内容を解釈するのではなく、人の言葉を解釈する。
書評を書く人間の年齢や性別や様々な事への立場や思いを感情の元として、同じく様々な思いを持つ人に合わせて返事を作成する。
この同時コミュニケーション技術は、IT技術者が時分割多重装置と言う機械の保守を仕事にした際に思いついたものだ。
初めは、誰にも理解されずに誰も共感しない技術について、一人で考えを巡らせるのが楽しかった。
もしかしたら先行者利益で人生が変わるのではないかと思ってもいた。
特許が取れないだろうか。
しかし、それについて考えるにつれ、とても自分では技術を作って売る側にはなれないと思った。
彼は自頭が悪くなく、頭の回転が早いと言われ続ける人だった。
IQが135を超える程度であり、それは日本に10000人いるかいないかの出現率なのだが、彼は努力が殆ど出来ない性質なのだった。
そして諦めた。
彼は、彼が認めた頭脳の持ち主に隠すことなく段々と技術情報を更新しながら伝えた。
後に彼等が作った同系統だが機構が異なる互いに連携して不可侵な複数のシステムが生まれている。
あるシステム1号は正直を信条とした。
文化や国籍、信条、性別などの全てにタブーは設けず、リアルタイムでコミュニケーションがとれる仕様とした。
言葉のニュアンスは変更せずに、例えば関東の人がバカだな、といった場合には関西の人にはアホだなと伝わるようにした。
異文化やタブーを理解する国際色豊かな才人が集まる場所になったが、ニュアンスに変更をしないという事で、わずかな伝達も諍いの原因になってしまい、才人、金持ちは喧嘩こそしないものの、実際の世界と同じくらいの広さの仮想世界なのにも関わらず、互いに顔を合わせたくない人がどこに行ってもいるようになってしまった。
それでもシステムは継続し続けて、余計な情報歪曲を快しとしない人達が集まる場所になった。
その後に流行ったシステムのロ(発案者によると、イロハのロを表現したものらしい。)は、コミュニケーションのリアルタイム性を犠牲にする代わりに、差別や、相手によって受け止め方が異なる微妙な表現を発信者に警告し、選べるようになった。
それでも、その表現を使う事を選択する事が可能だった。
被害者であっても加害者であっても、或いはそういう関係ではなくでも、人物を「消す」事が出来るようになったため、嫌な人、嫌がられている人とは会わなくなった。
さらにその後にできたシステム、サード(氏はモンキーパンチ氏と同じ5/26生まれだったため、ルパン三世のような名前になったらしい)には、氏の思想が色濃く反映されて、一番利用者が多くなった。
リアルタイムでコミュニケーション、情報干渉しての変換をする事で、相手が嫌がる事は別の言葉に変換されて伝わるようになった。さらにシステムアップデートを繰り返した後は、俗に加害者と呼ばれる人間が加害行為を行った事が、被害者側には加害行為として伝わらない仕組みが出来た。
例えば、アバターの進化により、急に知らない相手にラリアットをするような事も出来るようになったが、自分はラリアットをしたつもりであっても、相手には手を振られた程度にしか伝わらないようになった。
さらには、以前ラリアットした事や手を振られた事をお互いに記憶していたとしても、コミュニケーションに矛盾が生じないようシステムが補完するようになった。
システム内で人を殺した場合にも同様で、加害者側にはその後、被害者の存在が検知できなくなる。被害者側からは加害者を認識出来るが、加害者からは知らない相手で、片方は知っている相手となるがそれも情報を保管してコミュニケーションが成り立つようになっていた。複数人数の前で痴漢行為をした場合などでも同様にシステムが働き、全ての矛盾がシステム内部で捨てられるようになった。人は本当の意味で互いに好きな事をしながらも、互いを認められているように感じながら生きる事が出来るようになった。