シーン12「便利! 抑速ブレーキ」
シーン12「便利! 抑速ブレーキ」
海を渡る橋の上で僕たちは危機に陥っていた。
真下の海に、巨大な影が広がっている。貨物列車の全長より、なお巨大な影――
クラーケンだ。
おそらく蝕腕の一本が、この列車と同じ大きさはあるだろう。
ファナが言うにはクラーケンは音に反応する。
気づかれるな! 気づかれちゃいけない。
そう、これは──。
スニーキング・ミッションだ!
「救世主さまっ、救世主さまっ」
「なんだ、大佐」
「たいさ?」
おっと、いけない。某ステルスゲームの主人公の気分になっていた。
そうやって茶化さないと、やってられないってことだけど。
いつ海から巨大な蝕腕が伸びてくるかわからないのである。
すげー怖い。
だけど、びびっていたってどうにもならないのだ。
できることで精一杯やるしかない。
しかし、……どうしよう。
マズイ状況だ。
橋の上を貨物が走ると、地上を走るより大きな音が出てしまう。
僕は頭の中の記憶をさらった。
どこかでこれと似た状況があったような……。
僕の頭がひとつの記憶を拾い上げた。
現実世界の、だ。
そう、瀬戸大橋!
元の世界でも、騒音を避けるために貨物列車には速度制限があった。
瀬戸大橋では本州から櫃石島までが、終日45㎞/hである。深夜帯になると、与島までの区間で45㎞/hの速度制限となる。
また、瀬戸大橋では回復運転が禁止されていた。
回復運転とは、遅れ時分を取り戻すために、制限速度の範囲内で遅れを取り戻すために速度を出して運転することだ。
それが禁止されているということは、遅れていても一定の速度で走るということである。
速く走行して騒音を出さないためだ。
今の状況は、それと似ている気がした。
クラーケンは、動きの緩慢だった巨人とは違って、橋の下をぴったりついてきている。
速度を上げたところで、引き離せるとは思えない。
つまり、このピンチを切り抜けるには、いかにクラーケンを刺激しないようにするかってことだ。
そのために瀬戸大橋での運転の仕方は、役に立ちそうだった。
「それで、えっと、どうしたの? ファナ」
「あのあの、どんどん速くなっていってるんです!」
「あー、うん。下りこう配だからね」
先ほどまでは上りこう配だったのが、下りこう配になっていた。
線路図表ではここから5‰(パーミル)の下りこう配がしばらく続く。
ようするに坂道をずっと下るわけで、速度がどんどんついてくる。
「速くなると音が大きくなっちゃいますよ!?」
「大丈夫。落ち着いて」
「で、でも……」
僕はファナを安心させるように笑ってみせた。
「いま、抑速ブレーキを使うから」
ガチッ。
僕は運転台の一番右にあるレバー――レバーサーと呼ばれるそれを奥へと押し込んだ。
その位置には『抑速』と表示されている。
「……なにをするんですか?」
「見てて」
続いてマスコンに手をかける。
まず1ノッチに入れた。
「加速するんですか!? だめですよ逃げられないです!」
マスコンを入れると速度が上がると思っているファナが慌てて言ってきた。
「違うよ。これでブレーキがかかるんだ」
「ブレーキ、ですか?」
「速度を抑えることができるんだ」
僕はさらにノッチを上げていった。
40㎞/hを維持するために――
15ノッチまで、ノッチを進める。
「あつ」
「わかった?」
「ホントです……スゴいです救世主さま! くだっているのに速度が抑えられて……!」
ファナは僕を見て、瞳をキラキラさせた。
ノッチを進めたことで、ブレーキ効果がはっきりと現れ、体感できるようになっていた。
「いやまあ、そういう機能なんだから、できるのは当たり前なんだけどね」
「キィーンって頭に響く音もしないです!」
「うん」
通常使うブレーキは、制輪子でタイヤを押さえることにより摩擦力で速度を抑えるものだ。だからどうしても摩擦音が響いてしまう。
抑速ブレーキは違う。
まあ、抑速ブレーキというか、この機関車のものは正確には発電ブレーキである。
モーターを発電機として使用し、発生した電力を抵抗器で熱エネルギーに変換することでブレーキ力を得ることができる。
貨物列車の運転士としては、下りこう配で速度を一定に保つことが容易にできるため、たいへん重宝する。
ちなみに、EF65など従来形式と呼ばれる機関車には、この機能はない。あと65は冷房もロクなのがついてないので夏は地獄である。
それはともかく――
話を戻すと、発電ブレーキは摩擦音がないので静かだということだ。
「さすが救世主さま! これならクラーケンをやりすごせますよ! あっ」
大声ではしゃいだことに気づいて、ファナが慌てて自分の口を手で塞いでいた。
速度を抑えていても、列車からは話し声よりも大きな音は出ているので、あまり意味はないのだが……
可愛いなぁ。
たいへん微笑ましいと思いました。
しかし、そんなファナを見て、いつまでも和んでいる場合でもないのだった。
以前、危機的状況に変わらない。
抑速ブレーキは速度が40㎞/hにならないと使えない。速度が40㎞/hを下回り、20㎞/h以下となると完全に失効してしまう。
これ以上、静かに走ることはできないのだ。
いや――そもそもブレーキ力が足りない。
比較的緩やかなこう配なので、40㎞/hという速度を保てているが、後ろの貨車の重量からして、これ以上速度を落とすことはできそうになかった。
無理に速度を落とそうとノッチを上げれば、抑速ブレーキ自体が強制的に失効してしまう。そうなると通常のブレーキを使わなければいけなくなり、大きな音を出す結果になる。
万策は尽くした。
あとはもう、橋を渡りきるまで、クラーケンが見逃してくれることを祈るしかなかった。
つづく
次回更新も二日後の予定です。
※24日22時17分。前半がもっさりしてたので、修正いたしました。