悪魔の女
いじめられるって、辛いですよね。
俺は中学生の時、嫌と言うほどいじめの地獄を味わいました。何度死のうとしたことか。結局はできなかったのだけれども。だって、家庭内では俺は普通の男子だったわけですよ。在りもしない友人の話を無理やり作って家族に話していました。可笑しいでしょう。教室内では、誰一人とて俺と会話してくれる人は居なかったのだから。
やっぱり何にも知らない親のことを思うと、命を絶つだなんて滅多なことはできないですよね。相談することもできなかった。頭ではわかっていても、「自分はいじめられている」と音にしてしまうと、何かもう、嵐みたいな気分になっちゃいそうで。
クラス全員が敵でした。何で俺が標的になったのか、未だにわかりません。しかも主犯格はなんと、女だったのです。なかなか可愛くて、運動や勉強もそこそこできる方だったと思います。社交的で友達の多いやつでした。
高校生になった今、いじめられることはなくなりました。あんまり中学の同級生と一緒にならないような高校を選んだためです。ちらほらといるけど、大体は「見て見ぬふりグループ」だったやつらなのでそこまで問題はないです。
それに俺って、案外見た目はいい方だったみたいで。何回か告白をしてもらいました。同じクラスや部活の子。因みに俺は弓道部です。胴着姿が何ともたまらんらしいのです。俺はテニス部のユニフォームが好きだったりします。ラケットを振る度翻るスカートが素敵です。
その話はどうでもいいのですが、とにかく俺が言いたいのは、中学校は最悪だけど高校になってからはだいぶマシになったと言うことです。かろうじてイケてる方のグループにも引っ掛かれていますので。
あともうひとつ、言いたいのは。
やはり傷つけられた人間って、傷つけることしか覚えられないのが運命なのでしょうか。
我がクラスに転校生が来るらしい。
朝から同級生は専らその話題で持ちきりだった。仲間の内の一人が鼻息を鳴らしながら俺に転校生のことを話すが、興味のないふりを決め込み素っ気なく相槌を打つ。本当は逸る気持ちを押し殺すのに必死だ。しかも聞けば、転校生は女であると言うじゃないか。
「H女学院から来る子らしいぜ!相当の美少女お嬢様とみた」
「いやいや…お嬢様ではあるだろうが美少女かどうかはわからんだろ」
とか言いつつ「来い!美少女来い!」と俺の心は咆哮している。猛り狂っている。たまには少女漫画のようなロマンスが俺だって欲しかった。
担任が教室の扉を開ければ、クラス中に緊張が走ったのがわかった。担任の背後に人らしき影を認め、俺は生唾を飲み込んだ。
「えー、HRを始める前に。耳に届いてるとは思うが、転校生を紹介する」
担任が教壇に立ち気だるい口調でそう言った頃には、俺たちは落胆していた。
担任の隣に、まるで自縛霊かのように彼女は立っていた。長いボサボサの髪を雑に二つにまとめ、瓶底眼鏡ごしの瞳は虚。唇も、何だあれは。荒れに荒れてしまって血だらけじゃないか。肌だって、こいつは本当に人間の食べ物を食べているのかと疑いたくなるほど、青白い。
「舞園姫架です…よろしくお願いします」
「ふはっ…!」
どこからか小さく笑いが起こった。わかるぞお前の気持ちは。「そのなりでヒメカて!」ってことだろう。
そう言えば俺をいじめていた主犯格の女もヒメカという名前だった。彼女には悪いが、雲泥の差だ。いじめられていた当時でも、羨ましいと思わずにいられないほど、奴を眩しく感じるときがあった。勿論9割は憎しみだ。
拍手などは起こらず、彼女もまた生徒たちを見ることはなく、ひたすら俯き教師に指定された席へ着いた。
こんなに盛り上がらないことが今まであっただろうか。何のイベントもなくたって、担任のくだらん親父ギャグにさえ大袈裟に反応していた俺らだぞ。一瞬にして場を静まり返らせることができたという点では、ある意味影響力があるということか。
「見ろよ皆!大倉のやつ、花のアンクレットなんてつけてやがる!」
歯茎を剥き出しにして同級生は俺を指差し笑った。俺の右足にはマーガレットの花を連ねたアンクレットがつけられていた。俺には別に花を愛でる趣味はないのだが、マーガレットだけは唯一好きだった。その可憐な姿は理屈でなく見るものを癒してくれる。
このアンクレットだって、店頭で一目惚れしてしまって購入せずにはいられなかったのだ。部屋に飾るだけでは飽き足らず、とうとう足につけてしまった。
体育がある日は外しているのだが、俺はすっかり外すのを忘れてしまった。何ともなしに更衣室で着替えていたところ、目敏くこいつの存在に同級生は気づいてしまったのだった。
「お前、オカマだったのかよ!?」
「学年一の色男橋本くーん。お前狙われてんじゃね?」
「やめろや、気持ち悪ぃ」
それはこっちの台詞である。誰がお前らのような人格破綻者を好きになるかっての。確かに男のくせに女物のアクセサリーをつける俺は、端から見たら気持ち悪いだろう。その気持ちはわからんでもないが。
マーガレットのアンクレットをつけていることはあっという間にクラス中に広まった。
「ヒメ!見てみろって。大倉の足」
同級生は俺を羽交い締めにし、二人がかりで両足を持ち上げた。ズボンの裾を無理やり捲られても、俺の貧弱な身体では抵抗することは到底叶わなかった。
例の主犯格であるクラモチヒメカは、澱のような瞳を俺に向けた。俺は目を逸らした。いつもそうだ。俺はまともに奴の目を見ることができない。怖いのだ。眼球から奴の腐敗した感情が流れて、身体中を毒されていきそうな気がして。
「…へぇ」
クラモチヒメカはにんまりと唇に弧を描いた。今思えばそれは恍惚の表情にも見えた。
それからバレンタインになると必ず、俺の机の中にはマーガレットの造花が添えられたチョコレートがひっそりと置かれるようになった。中学三年間、親以外に貰うチョコレートはそれだけだった。
きっとチョコレートを見つけた俺の反応を見て、笑っているやつらがいる。そんなことわかりきってはいたが、どういうわけか毎年チョコレートは美味かった。色んな種類の粒がジュエリーボックスみたいに並べられて、視覚的にも楽しめた。高そうだった。
結局卒業した今でも、誰がチョコレートをくれていたのかは謎だった。勿論気にはなるが、わからないままでも全然構わない。俺は嬉しかったのだ。いつもクソみたいな気分で登校していた俺にとって、それはほんのちょっとの高揚感を与えてくれた。
高校になってからは当たり前のようにチョコレートを沢山貰った。バレンタインでなくてもお菓子を貰ったりする。「ありがたい」という気持ちも段々麻痺してきているが、貰ったマーガレットは今も大切に取ってある。
「見ろよ大倉。転校生ちゃん、早速ぼっちだぜ」
昼休みになり賑わう教室。皆机をくっつけあって楽しく弁当を食べているのに対し、転校生は己の机で一人パンを口に運んでいた。
昔の自分を見ているようで胸が痛む。彼女が可哀想だとかでなく、思い出すのだ。独りぼっちで飯を食らうその時の心情を。
味などわかりゃしない。同級生の雑談が不快なBGMとして鼓膜を揺さぶる。今こうしているときも、きっと俺は笑われている。ここにいるやつら全員死ねばいい。
何たる暗い過去だろうか。思わずホロリと涙が溢れそうだった。
「どした大倉。気になんの?」
「いや、別に…」
あまり感情移入してしまうといらぬ詮索や誤解をされてしまう。関わらないことが一番だろう。俺は彼女から視線を外し、卵焼きを一つ摘まんだ。
「それよりさー。今日の合コンどうするよ?てか大倉も来いって。人数足りんのよ」
「お前女子ウケいいし!来てくれたら助かる」
「えー…めんどいよ」
俺は女にいじめられていたお陰か、未だに女性に対して若干恐怖心があるのだ。心の移ろいやすい生き物であるし、ちょっとしたことでの怨恨が凄まじそうだ。友人の紹介する女の子は皆、俺が苦手とするようなタイプどんぴしゃりの娘ばかりであるし。嫉妬深そうでそのくせ男とあらば手当たり次第に色目を使うような。
「そういやお前、部活の後輩に告られてたよな?その娘と付き合うん?」
「いやぁ…どうだろ。付き合わねーんじゃね」
「大倉ってもしかしてさぁ…こっちの人?」
怪しい手つきで示唆する友人の額に平手をかましてやった。鋭い痛みに悶える友人を尻目に、俺は改めて誘いを断った。
「俺不参加で。今は部活のが大事」
「けっ、つまんねー」
不服そうに天を仰ぐ友人に苦笑いを溢す。本当は殊更部活に力を入れているわけではない。こいつらの紹介する女の子は加えてもれなく面倒なのが多いのだ。相手のことを根掘り葉掘り知りたがる、束縛したがる、馴れ馴れしく触ってくる。
前述した通りまだ女性に対して恐怖心を抱いている今の俺には、ちと厳しい。
俺はきっと転校生に、期待していたのかも知れない。過去の苦くて辛い思い出を、女性に対するトラウマを払拭してくれるような娘に出会えることを期待していた。思ったよりも乙女脳な自分に吐き気がする。そんな女神のような女が現実にはいないことを、誰よりも知っているのは他でもない自分であるというのに。
「くせーんだけど。片付けろよ」
雫の滴る音は同級生の嗤い声にかき消された。
マーガレットを生けていた花瓶が俺の頭上でひっくり返された。いじめの主犯格であるクラモチヒメカによって。
窓際にそっと飾っておいたマーガレットだった。当時生き物係をしていた俺は、兎の世話だけでなく植物の世話も任されていたのだ。
好きな花を飾っていいと言われたので、俺は迷わずマーガレットを生けることに決めた。勿論からかわれたりもしたが、誰よりも早く学校に来てこの花を眺めているときは至福だった。今日も一日頑張ろうという気にさえさせてもらった。
それが今では無惨にも、目の前の女によって地べたに踏んづけられている。マーガレットは臭いが強い。俺も重々承知していた。でもそんなところも好きなのだ。可愛いだけじゃないのよ、私。と言いたげなツンツン加減が余計に愛らしい。
俺は泣きながら花壇にマーガレットを埋めた。大好きだったペットのハムスターのお墓を作るように、平たい石で墓石を建ててやった。
花を愛でてやる心もないから、あの女は人をいじめることに何の抵抗も持たないのだ。今でも思い出す。人を蔑む淀んだ瞳。まるでゴミを見るかのように。俺はあの視線を向けられ続けた。手を下さずとも胃に穴を空けられるほどに。
「優太くん!今日一緒に帰ろう」
「あ…ああうん。いいよ」
部員で同学年の鈴田美紀が、帰ろうとする俺に声をかけた。彼女は俺に告白してくれた女子のうちの一人だった。交際は断ったのだが、「振り向いてくれるまで諦めないから!」と力強く宣言され、何かと下校時誘ってくる。行きつけの書店で漫画を立ち読みするのが楽しみで、いつも一人で下校していたというのに。そんなささやかな癒しのときも奪われてしまった。
「ごめんねいつも付き合わせちゃって。迷惑だった?」
「や、そんなことないよ…」
お察しの通り迷惑で仕方がない。しかしそれを言葉にすると、俺を「最低な人間だ」と罵るのだろう?あんたらの秋の空な恋心なんて、そこまで重宝するべきものじゃないんだから。軽率に被害者ぶらないでほしいものだ。
と、心の中で悪態を吐きながらベラベラと滝のように流れる彼女の話に相槌を打てばいつの間にか別れ道に訪れる。彼女の家まで送ってやるなどという紳士なことはしない。余計な気は持たせないため。そして面倒くさいからだ!
「あーあ。もうお別れだね」
頬を膨らまして上目遣いで見つめられたって、俺は君の気持ちに応えるつもりはないからな。全然可愛いと思えないから困ったものだ。本当に俺はそっち側の人間なのだろうか。それはそれで困ったものだ。
「ねぇ優太くん。今度、二人きりで遊ばない?」
「へ?」
すっかり気を抜いていた俺は既に晩飯のことを考え始めていたので、不意な鈴田からの提案に間抜けな声を出してしまった。
それもできればお断りしたい内容だった。こうやって一緒に帰るだけでもかなりの労力を使うというのに、一日中二人きりでいるとなったら俺はもう朽ち果ててしまうのではなかろうか。
「うーん、でも…ほら、付き合ってると思われたらアレだし…誰かに見つかったらさ」
「えー。私は全然いいのに!」
俺がよくないんだよ畜生。俺にしては勇気を出して言ったと思ったのに、まるで気持ちが伝わっていない。俺は勘違いであっても、君とカップルに見られるのは嫌だと言っている。
鈴田は駄々をこねる子供のように俺の腕にすがりついた。邪険に振り払えないが人目は気になるし、いったいどうしたらいいのだ。デートを承諾するのだってできれば避けたい。
「あれー?大倉くんじゃーん!」
突然聞こえた間延びした声に、俺は振り返った。何故か腹にずんと重いものがのしかかるような感覚を覚えた。その理由は、声を発した人物を認めて理解した。
ああ。懐かしささえ感じる。その下卑た薄ら笑い。自ずと足が震え出した。
「倉持…」
奴の名前を呟くと、クラモチヒメカはにぃっと口角を上げた。
髪がだいぶ伸びていて化粧っ気もなかったため、中学の時の面影は若干薄れている。しかし忘れるはずがない。目に焼き付いて離れない、悪魔のようなその笑顔だけは。
「あなた…誰?」
「私?大倉くんのお友達だけど。あんたこそ誰だよ。彼女でもねーんだろ」
いったい誰と誰が友達だと言うのか。俺はお前との間に何かしらの繋がりがあるというだけでおぞましいのに。
クラモチヒメカはつかつかと俺らに歩み寄ると、俺の腕を掴んでいた鈴田の手を取った。蛇がゆっくりと獲物の身体を締め上げるように、クラモチヒメカは指に力を込めていった。
「いたっ…!」
鈴田の顔が苦痛に歪む。腕から彼女の手が離れた。俺はハッと我に返り、二人の間に割って入った。
「何してんだよ、離せ!」
そう叫んで奴を睨み付けると、クラモチヒメカは案外あっさりと鈴田を解放した。非常に面白くなさそうな表情で、俺の目を見据えている。
「鈴田ごめん…もう帰ってくれる?」
「で、でも…」
「俺こいつと話あるから…」
「…わか、った…」
鈴田は恐怖におののいた顔でクラモチヒメカを一瞥すると、足早に去っていった。
「んだよ…大倉のくせに随分かっこつけるようになったな」
男みたいに粗雑で荒っぽい口調。端整な顔立ちに似合わないほどのどす黒く濁った瞳。
今でも奴の目をまっすぐ見ると、足がすくむ。あまりにも突然の再会だったから、動揺していた俺には、奴が自分と同じ学校の制服を着用しているところまで気がつける余裕はなかった。
「あいつ1組の女だよな。言い寄られてんのか?」
「え?…な、何で知って…」
「何でって…隣のクラスだろ」
クラモチヒメカの言っていることがいまいち理解できずに、俺は瞬きを繰り返した。暫くお互い鏡合わせのようにポカンと口を開けたままだった。
「…っんとにおめーは、私に気づかねーな!マジ殺してー!」
下品な高笑いが谺する。物騒な物言いの後に狂ったように笑い続ける女に、いよいよ震えが止まらなくなってきた。
笑い疲れたのか奴は天を仰ぎ一つ息をついた。滲み出た涙を乱暴に袖で拭い、やおら鞄の中身をまさぐった。
「あったあった~ちょっと待っててね」
取り出した眼鏡をかけ、長い髪を二つに結わえた。そしてクラモチヒメカはピッと手を上に挙げた。
「舞園姫架です。転校生です。よろしくお願いしまーす」
マイゾノヒメカ?転校生?
知ってる。そうだ。H女学院から我がクラスに転校生が来た。明らかに根暗で俺の知ってるヒメカとは似ても似つかないような女で。
なのに、嘘だろ。同一人物なのか。あの悪魔の女と。
「ぎゃはは!びっくりしてやんの」
奴は鬱陶しそうにまた眼鏡とゴムを外した。確かに見覚えのある眼鏡だ。ここまで瓶底なのはそうそう見ないから。昭和のアニメくらいでしか。
「何で…」
聞きたいことが山程ありすぎて、何から手をつけていいのかわからない。クラモチヒメカは「歩きながら話そ?」と言って何故か俺の腕に引っ付いてきた。端から見ればカップルのそれだ。
慌てて払い除けようとしたら鋭い眼光で睨み付けられ、結局は好きなようにさせておく他できなかった。
「うふふ、久しぶりだね~大倉くんてば、すっかり高校生活エンジョイしてるみたいだし!超ぶち壊したい!」
口調こそ冗談ぽいが、こいつが言うと冗談に聞こえないから恐ろしい。ていうか多分わりと本気なのだ。
「お前、何でうちに転校してきたんだよ…」
「退学になったの。先輩と殴り合いの喧嘩して」
「殴り合い!?」
「そ。親が学校に莫大な寄付金やってるからってさー威張りくさってたからさー。ムカついちゃって」
クラモチヒメカはお茶目に舌を出した。清楚な子が集まるはずの学校で、そんな武勇伝を残していたとは。でもまぁこいつならあり得ないこともない。殴り合いというよりも、恐らくこいつが一方的に攻撃したのだろうなということは容易く想像がついた。
「それで…また俺をいじめるために、うちに来たのか」
「自意識過剰~別にてめーを追っかけてきたわけじゃねぇよ。親に指定された学校受けただけだ。偶然にしては随分できすぎだけどね!これって運命?」
こいつは俺に鳥肌を立たせるのが余程得意ならしい。いつの間にか恐怖心は薄れ、今はただただこいつの顔面に一発拳をかましたい気分だ。俺は漸く見えた自宅の数十メートル前で立ち止まり、乱暴に腕を振り払った。
「もう家着くし。ついてくんな」
「お家いーれて?」
「馬鹿じゃねぇの。誰がお前みたいな女上げるかよ」
「でも大倉くん、もっと私と話したいことあるでしょうに」
確かにまだ、全然聞きたいことが聞けていない。それでもこれ以上、家に招いてまでこいつと時間を共有するのはごめんだった。気持ちの整理が全然ついていないのだ。またあの地獄のような日々が戻ってくるかもしれない可能性を考えると、冷や汗が止まらない。
「心配しなくても…もう私、あんたをいじめるつもりないよ」
「は!?」
「怖いんだろー私が。今の学校ではぼっち貫くつもりだから。冴えない見た目にしてるのもその為だし」
おいそれと信用できる言葉ではなかった。こいつは俺にどんな仕打ちをしてきたのか、忘れているのだろうか。いや、そうなのだ。やられた方は鮮明に覚えていても、やった方にとってはどれも取るに足らないこと。俺の苦痛に歪んだ顔など、いちいち記憶しているわけがない。
それでも同じことの繰り返しは絶対に嫌だ。そんな俺の強すぎる思いが、ある一つの提案を思い浮かび上がらせた。
「…そうか。俺が、なればいいんだ」
いじめられるよりも先に。俺が、いじめる側の人間になればいいのだ。
「ん?何か言ったか?」
「おい倉持。俺はお前と違って事前に宣戦布告するぞ」
「何をよ」
「俺はこの学生生活で、お前に復讐する。今までされたこと全部、お前に返してやる」
「…全部?無理だろ」
鼻で笑ったクラモチヒメカを、俺は石垣に押し付けた。衝撃にむせ込む奴の首に、俺は遠慮なしに噛みついた。
「いってぇ!!っにしてんだ、離せ…!」
必死に抵抗するクラモチから徐々に力が抜けていく。当たり前だ。皮膚を突き破るくらいに歯を立てているのだから。
舌に鉄臭い味を感じて、俺は漸く口を離した。俺の唾液と自分の血で、奴の首は濡れていた。
「ちょっと勘弁してよぉ…私こんなことしてないじゃん」
「お前の取り巻きに、首に釘刺されたことあった。釘じゃ可哀想だからな」
「だからって噛む?野性的だね~。つうか、だったら私関係ないじゃん!」
「お前の手下がやったことはお前がやったこととカウントする」
「ひどいな…身体いくつあっても足りないよ」
クラモチの顔が少し青ざめたのを認め、非常に気分がよかった。いじめる側の快感に、早々から気を付けねばならないな。
「んふふ…でかい口叩いて、大倉くんだって顔色悪いよ?嫌いなやつの首に噛みつくのはさぞかし気持ち悪かったんだね」
「当たり前だろ…」
クラモチの薄汚い血を少し飲んでしまった。家に帰ったらまずうがいよりも先に、胃の中のものを全て吐き出すことから始めなければならない。
「やめといた方がいいのに。復讐に青春時代費やするほど虚しいことないよ」
まさかこの女から諭される日が来ようとはな。だがしかし勘違いしないでほしいのは、俺は青春を謳歌しつつもこいつに復讐をするのだ。俺はどちらも達成する。そうすることで、俺の暗黒時代はきっと取り返せる。
「やめてほしかったらまたどっかに転校しろ。それができないなら精々俺に食い潰されねぇようにしな」
「おーこわ…」
俺は踵を返し自宅に向かって悠然と歩いた。
玄関の扉を開けて完全に中へ入ると、骨を取り払われたかのように力の抜けた身体でその場にへたりこんだ。
「言った…言ったぞ俺は…!」
手が震えている。あの悪魔に宣戦布告をしたのだ。言い返すことも何もできなかった俺が、首に噛みつくことだってしてやった。
見たか、あいつの怯えを孕んだ目。この俺が、そうさせたのだ。なんて快感なのだろう。いい気味だ。
これから楽しみで仕方がない。あいつが「死んだ方がましだ」と思うくらいに、いたぶり尽くしてやる。




