札束で人をはたく彼女と、金の亡者な俺の話
思い返せば、小さい頃の俺の夢は札束で人の頬を殴りつけながら悠々自適に生活するという、大層可愛げの無いものだった。
そんな野心も成長すると共に薄れ、頭も育ちも悪い無気力な俺は高校卒業以降、定職に就かずにフラフラと生きてきていた。
あの頃は高校を出れただけで奇跡だ、日本の教育の成果だ、と涙を流して喜んだ大人に反発していたような気もする。
反抗心からあれこれと手を出しては逃げ、足を突っ込んでは殴り飛ばし、と何年も過ごしている内に立派な道を踏み外した人間の出来上がり。
かつての馬鹿な自分ならかっけーと言うような外見も、今の糞生意気なガキに言わせれば唯の馬鹿でしかありゃしない。
真っ当に働く人間を目指すのが当たり前の世の中だから、当たり前の話なのだが。
でもまあ、楽しく幸せに生きられるならそれでもいいかと考えていた。
しかしある時―――男の頭を踏みつけ入念に仕事をしていた時、ふと、このままでは幸せな人生を送るのは難しいのではないかと考えが頭を過る。
その頃の俺は、幼い頃のように札束で人を殴れる人間になりたいだなんて大層な夢は抱いていなかったが、人並みに幸せを掴みたいとは思っていたのだ。
周りを見渡して見れば、高校時代の悪友達はなんやかんやと職にあり付き普通に働いて、嫁さんを貰って子供の世話に右往左往しながら楽しそうに暮らしている。
俺だっておしとやかで恥ずかしがり屋な可愛い嫁さんと、可愛い娘・息子と、幸せな家庭を作りたい。
こんな生活・仕事をしていたら幸せな家庭どころか恥ずかしがりやな嫁さんすら手に入らない!
そんな考えが頭の中に駆け巡り、収拾がつかなくなって仕事を途中で放り投げた。
そうして、俺は足を洗って無駄にあった金を引っ掴んで高飛びした。
行動力と決断力だけは、俺の長所だったのだ。
全国各地を逃げ回る間に溜め込んだ金は使い切り、ようやく一段落ついた頃に就職活動というものを始めて見た。
高卒、無資格、あるにはあるが書けない為空欄のままの職歴。
色々とやったおかげで色々とアレな技術も身に付いて、正直どこに行っても潰しのきく人間だという自己評価ではあったのだが、社会人としての信頼など全くもって得られない人間が出来上がっていたのである。
そんな人間を雇ってくれる、普通の会社はまずないだろう。
人並みの幸せを手に入れるって何て難しいのだろうかと思い悩んでいた頃、俺は一人の女の子のボディーガードとして雇われた。
それから三年―――最近しみじみと思うのだが、どうやら俺はあのまま【人には言えない仕事場】で、ふらふらと働いていた方がまだマシだったのではないだろうか。
ぱらり、ぱらり、とカタログを捲る指は白魚のように美しく。
伏せた睫毛は、薄色の瞳に影を差して。
開かれた艶やかな唇が言葉を口にするまでは、凄く絵になる少女がそこには居る。
美人も三日で飽きるとは言うが、まだ成長途中の完成されていない美貌は日々纏う空気を変えていっており、目を離す事が出来ない――――なんてクサい台詞を吐いたのは彼女の許嫁だっただろうか。
俺としては正直若返ってほしい。これ以上成長して欲しくない。本当にこれ以上は勘弁して欲しい。
見た目こそ完璧な美少女ではあるが、この雇い主は年々中身が酷い方向に成長しており、手におえないのだ。
例えば、そう。こんな風に。
「ねえ綾瀬。白レースと黒の紐、どちらが似合うかしら」
「俺的にはお嬢さんには白レースが似合うと思うんですけど、……って、お嬢さん。何のカタログですかね、それ」
声を掛けられたのは、先日のパーティーに着て行ったドレスがクリーニングから返ってきた為に、クローゼットを行き来している時の事だ。
雇い主に服装についての意見を求められる事はいつもの事だったので、何となくおざなりに答えようとして―――違和感を覚えた。
最近お気に入りだと言っていたそのブランドのコンセプトから、白レースは何となく分かる。でも紐ってなんだ。ワンピースに紐?
「相変わらず清純派好みね。……まあ良いわ。これ買ってきて頂戴」
鈴を鳴らすような声に不穏な空気を感じ取って振り向くと、カタログを見下ろしていた雇い主がゆっくりと顔を上げて。
満面の笑みで白魚の指が指示したのは、グラマラスな女性が身に着けた清純な下着。
「………お嬢さん。頼むからもう少し恥じらいを持ってください。っていうか、男に下着を選ばせるとかヤメてください!」
「貴方しか見ないんだから、貴方に選ばせるのが道理でしょう」
「洗濯する為にな!変な言い方しないでくれ、俺まだ逮捕歴だけはないんだから!」
「あれだけ散っ々やらかしといて、初めてのお縄が青少年保護条例ってどんな気分になるなのかしらね」
豪奢なソファの上で脚を組み替えながらニヤニヤと嗜虐的な笑みを浮かべる様子は、正に悪魔。
小悪魔だなんて可愛げのある奴ではないのだ。この雇い主は。
こんな趣味の悪い遊びはスルーに限る、と心の中の憤慨を抑え込みながら、クリーニングされたばかりのドレスをクローゼットに仕舞い込む作業に戻るとからかい甲斐の無い奴ね、と呟く声が遠くで聞こえた。
おいこの野郎、聞こえてんだぞ!
「あ。そうだ。暫くサイズを測ってなかったわね。――――綾瀬」
けれど。
お嬢さんの前を通り過ぎるタイミングで、徐に制服の裾を持ち上げ、脱ごうとしだして。
反射的にお嬢さんの腕を掴んで止めたものの、心拍数は一気に上昇した。
あっぶねええええええ!間一髪!間一髪で下着までは見えてない!
オーケーオーケー。傍目には俺が脱がせようとしているように見えるかもしれない。というかそうとしか見えない。
でも、一応まだ脇腹しか見えてない状態で固まってるから大丈夫。
冷や汗を垂らしながらお嬢さんの顔を覗き込むと、勝ち誇ったように鼻で笑った。
「……いや本当ごめんなさいすみません。それだけは許してください」
「じゃあさっさと買ってきて。今すぐに」
常識的に考えて。
現役女子高生の下着を二十代も半ばの男が買いに行くとかあってはならないと思う。
俺達は家族でもないし、親戚でもないし、ましてや近所の幼馴染でもないのだ。
……いや、家族であっても多少問題はあると思うが。
良識を持った大人としては、店に選びに行くのが面倒臭いだとか、年上の男が困ってる様子を堪能したいだとか、この少女のそういうちょっと人間としてマイナスなところを指導しなければならないのだ。
断固として!
「ほら、さっさと買って来なさい」
ニヤニヤとした人を見下すような顔をした雇い主に、特別報酬な札束で頬をべしべしと叩かれて――――俺の良識は直ぐにその矛を納め、理性はジャンピング土下座をし、手は恭しく札束を頂戴した。
そう。俺は金の亡者だ。
金で何でも出来ると信じているからこそ、金の為ならなんだってする。
だから良識なんか、金の前には塵芥なのだ。
*
「ねえ、綾瀬。ビキニとパレオどっちがいいかしら」
「もう好きにしてください……俺はどっちも好みです……どっちかっていうともっと恥らいながら見せてくる水着が好きです……」
「あら、そう。じゃあビキニにするわ」
最初から聞いちゃいねえ。
嬉々として露出度の高い方を店の人に預ける姿は、まさしく悪魔だ。
婚約者様の目は腐っている。もしも結婚してしまったら、一生涯下僕として扱われるに違いないというのにお嬢さんに恋をしているのだ。
これだけ聞くとマゾヒストだとしか思えないが、このお嬢さんは俺の前以外では猫被ってやがるから性質が悪い。
「今年もスクール水着を要求されるのかと冷や冷やしてたんだけど、良かったわ」
「待ってお嬢さん待って。それ二年前の話だし、お嬢さん中学生だったからおかしくないよね?」
中学生はスクール水着で問題ないだろう。
俺がそれぐらいだった頃はスクール水着しかなかったし、プールなんて夏休みに学校が公開してるのくらいしか無かった。
俺に意見を求めてきた以上、それを考慮して頂きたいものだ。
というか、そもそも色気づいて大してありもしない胸を見せつけられたところで嬉しくも何ともない。
俺の好みはもっとメリハリのあるグラマラスな体型であって、発展途上の身体ではない。
そんな思いが籠ってしまっていたのに気づいたのだろうか。
お嬢さんは小さく首を振りながら目を伏せ、弱々しく自分の身体を抱きしめて、声を震わして―――あ、やばい。こいつ嗜虐スイッチ入った。
「ビキニとスクール水着を前に、迷わずスクール水着を選んだ辺りが怖かった……っ」
小柄な美少女が怯えるように呟いた内容に、店に居た客や店員達がざわつき始めた。
通報、だとか変態、だとかな言葉も聞こえて来る。
やばいやばいやばい!
俺はそういう趣味は持ってない!
中学生に興奮するような趣味はない!
場が盛り上がったのを見て、ギャラリーに見えない角度でにんまりと笑う姿は清楚とは程遠い。
続けて何かを口にしようとしているのを見て、慌ててお嬢さんの口を押さえに手を伸ばしたところで、別の高い声がお嬢さんを静止してくれた。
「鶴橋さん!綾瀬さん嫌がってるじゃない。いくら雇い主だからって、そんな風にからかったら駄目だよ!」
振り返るとお嬢さんの級友の少女が、顔を真っ赤にしながら訴えてくれていて。
………何だこの天使。本当にお嬢さんと同い年なのか。
あの隠れ人見知りなお嬢さんが今日の買い物にわざわざ連れてくるなんて随分と珍しい事もあるものだなんて思っていたのだが、こういう純真な感じの子だったとはますます不思議さを感じる。
だってお嬢さんのお友達ですし。もっとアクの強いのが来ると思ってた。
今時の女子高生は、お嬢さんは特別アレにしても、皆こんな風に嗜虐心溢れるバイオレンスな生き物とばかり思っていたのだがどうやらそうでもないらしい。
「綾瀬には労働に見合った給与を出してるわ。これくらいのお遊びも込みに出来る程度にはね」
対するお嬢さんはどこ吹く風、といった体で何の反省もしていない。
けろりとした表情で自らの胸に手を当てながら、にっこりとよそ行きの笑顔を口にする。
「それに役得でしょう?自分好みの色やらデザインやらで飾り立てられる見目の良い女子高生がここにいるのよ。自分色に染めたいって願望も叶えてあげてるのだから、これくらい良いじゃない」
発想が、オヤジ臭い。
少年向けの美少女ゲームにでも手を出していたのだろうか。
ちょっと後でカードの履歴調べてみよう……あんまりな内容なら没収してやろう。
「中身がお嬢さんでなけりゃ、俺だってもうちょっと嬉しいですよ……」
「あら、人は見た目が八割って言うじゃない。中身なんて気にする方が馬鹿なのよ」
「人は外見じゃないってば鶴橋さん!」
きゃんきゃんと顔を赤くしながらお嬢さんに噛みつく級友さんは、その動きからもどうも犬っぽい。
その反応を面白がって、わざとよそ行きの【優等生】の性格を外して会話するもんだからまた級友さんが一人で盛り上がってしまう。
ああ……なんていうか、可愛いなあ、この人。
「あーその、大丈夫ですよ。きちんとお給料は貰ってますし、いつもの事ですし……」
「綾瀬さん。そんな風にプライドを捨てていたら駄目です。もっと毅然と生きていきましょう?―――綾瀬さんの夢はなんですか?」
夢さえあれば何でもできる!と言わんばかりの勢いで詰め寄ってくる様は、未来に溢れる若さそのものだ。
あー若いなー、といつもなら生暖かく言葉を濁すとおころではあるのだが、その時だけは何故か違った。
級友さんが純粋に心配そうな顔をしていたからかも知れないし、その後ろのお嬢さんがほんの少しだけ真剣な顔をしていたからかもしれない。
その時、ふと頭に過ったのは。
かつて夢見た可愛い嫁さんと、可愛い娘息子、そしてその隣できりっとしたスーツを着た俺の姿で。
そうだ。真っ当な生活といえば。
「正社員になりたいかな…?」
一瞬だけ、店内に沈黙が降りた。
「え、ええええ!お弁当作って毎日の送り迎えしてボディーガードして掃除洗濯して鶴橋さんのお洋服見繕ってヘアセットしたりマッサージしたり体調管理までしてるのに、正社員じゃない!?」
「わあ……改めて聞くと何でも屋ですね、俺」
そこまで知ってるなら、本当にこの人はお嬢さんの友達なんだろうな。
普通の級友とかに俺を紹介するときなんて、ボディーガードだとしか言わねえもん。
級友さんが驚きのあまり振り返って視線で確認ととろうとすると、お嬢さんはふむ、と腕を組んで。
「そうね。綾瀬は私の……所謂ポケットマネー?、で個人的に雇ってるわ」
「個人的に!?」
「だってこんな住所不定のフリーターな不審者、鶴橋の家で雇う訳にはいかないし」
「住所不定!!」
「色々揉み消したり捏造したり大変だったわ」
思い出したようにうんざりとした様子で、先程とは違う意味で身震いするお嬢さんにほんの少し。ほんの少しだけざまあみろや!と思わないでもない。
消しても消しても出るわ出るわな悪行の数々に、流石のお嬢さんもお手上げしそうになった事を思い出した。
鶴橋家に頼る事だけは避けたいと考えを巡らした結果、俺の名前は【綾瀬】というものに変わった。
具体的にどうやったのかは藪蛇だろうから聞かなかったが、元々の俺の名前は一文字も被らない。
お嬢さん一個人がやった事のはずなのに、なんで戸籍とか用意出来てるんですかねえ……?
「まあそんな訳ありな男だから、私以外にこんな奴を雇う酔狂な人間はいないのよ」
「だからって、こういう公の場でねえ!」
そうだいいぞいいぞ!お友達の視点から言ってやってください!矯正してやってください!
俺には無理なんで、頑張れ級友さん!
しかしながらお嬢さんと口喧嘩は長引き、店の中は怪しい空気に満ちてきた。
店員のお姉さんの冷たい視線が突き刺さるが、俺、何もしてないんですよ……。
確かに女子高生の言い争いの原因は俺なんですけども。
十分程の言い合いを経て、急に級友さんがこちらを振り向いてガッシリと俺の手を握り締めて。
「綾瀬さんが望むなら、普通のお仕事も紹介します。いきなり正社員からは無理かもしれないけど、頑張っていればきっと道は開けてきます」
全く話を聞いていなかったから、何がどうなってその結論に至ったのか全く分からないが、いきなり手を握られてほんのちょっと。
ほんのちょっとばかり胸がどきっとした。
真摯な瞳で、温かな手で、面と向かって普通な人生の道を示されたら、胸が多少ときめいてしまっても仕方がないのではないだろうか。
俺は金の亡者であるが、それ以前に真っ当な人生を歩んで幸せな家庭を持ちたいという希望も持っている。
そんな俺にこの誘いだ。くらっときても仕方がなかろう。
つい、うっかり、お嬢さんが居る事も忘れて頷きかけたところで、氷のように冷たい声が背後から浴びせかけられた。
「ふーん。良かったじゃない、【綾瀬】」
振り返ってお嬢さんの顔を見て、あ、やべ、なんて思う暇もなく。
お嬢さんはぴっと指を振って。
「貴方、今日で解雇よ」
お嬢さんは、店から出て行った。
*
突然のリストラに遭ってしまった俺は、意気消沈した。
普通の企業勤めならば、こんなに簡単に解雇される事はないだろう。
だがしかし。俺に支払われていた異常なほどの給与には、こういった時に備えての迷惑代が多大に含まれていた、のだと思う。
そもそも雇用形態自体謎だったし。
「綾瀬さん。今、店長に連絡をしました。是非一度会ってみたい、だそうです」
電話先に頭をぺこりと下げながら振り向いた級友さん―――盛岡さんというらしい―――は、ぐっと親指を立ててそう言った。
ほんわり、と笑う盛岡嬢は、正に清心な女子高生そのものだ。
ああ、そうですこれです。理想の女子高生とはこれなのです。
「それにしても、本当に何から何まですみません」
「いえいえ!こちらこそすみませんでした。私が綾瀬さんを無理やり引き抜いてしまったようなものですから」
自分のバイト先だというパン屋の店長に、明日からフルタイムで働ける人がいるからどうか面接をしてやってくれないか、と電話を掛けてくれたのは、お嬢さんに解雇を言い渡されて十分もしない内だった。
最近の女子高生は行動力あるよなあ。
俺の時は、何の種を畑に植えるかの議論で一週間以上話し合ってるような女しかクラスには居なかったのだが。
「お嬢さんと仲が悪くなってしまったんじゃないかと」
「ああ!大丈夫ですよー。鶴橋さんとはいつもあんな感じで喧嘩ばっかりしちゃってて。まあちょっと今回は派手にやらかしちゃいましたけど」
そういってからからと笑う盛岡嬢ではあるが、電話中も、電話が終わった後も、ちらちらと先程お嬢さんが去ってしまった方向へと視線を向けてばかりいる。
あの猫を何重にも被ったお嬢さんと喧嘩が出来るなんて、本当に分け隔てなく良い人なのだろう。
そんな人がお嬢さんの事を思って心配している――――しかもその原因は俺だ。
心が痛む。いや、痛むとか痛まないとかのレベルではない。
あのきっついお嬢さんの友達が出来て、俺のようなフリーターの世話を一手に担うような天使に、友情の悩みまで背負わせてしまう事になるだなんて思いもよらなかった。
かくなる上は、受けた恩をしっかりと返せるよう全身全霊で働いて、期待にそうしかないではないか!
「俺、真っ当な社会人になれるよう、死ぬ気で、いいえ死んでも頑張ります」
「え……あの、綾瀬さん。無理だけはしないでくださいね?私、相談に乗りますから」
がっしりと手を掴み、死ぬ死ぬ連呼しながら決意表明をしてみせると、盛岡嬢は若干引いた。
引きつるような笑顔でかけられた言葉に、盛り上がっていた気持ちが沈む。
そうだ。こんな天使になんて失礼な真似をしているのだろうか。まだ、偽名を名乗ったままだ。
けれど―――俺、本当は綾瀬じゃないんですよ、と言おうとしてやっぱり止めた。
一月後、俺は盛岡嬢を近所の喫茶店に呼んだ。
何か悩み事でもあるのか、と心配げに学校帰りにとんで来た彼女に、俺は土下座の謝罪を繰り出した。
ざわつく店内やら、顔を青くさせたり赤くさせたりで忙しい盛岡嬢の声は、全て俺の耳を素通りする。
もう本当に申し訳ない。本当に申し訳なさ過ぎて心が折れる。
しかし、この恥を謝らないでどうするべきか!
大きく息を吸って、
俺、正社員の道、諦めます!
「え………ええええっ綾瀬さんどうしちゃったんですか!そんなにお仕事が辛かったなら、シフト減らしてもらいましょう?えーと、店長に言いにくいのでしたら私が間に立ちますから」
慌てたように腕を引いて俺を席に座らせると、顔を近づけさせて泣きそうな顔で俺の様子を窺った。
ああ、なんて自分は馬鹿なのか!盛岡嬢がこんなにも手を尽くしてくれて、あんなにも優しい人達とめぐり合わせてくださったというのに!
何故基本的な事を確認していなかったのだろう!
意気消沈しながら目も合わせられずにぼそぼそと、もう手を回している事を告げる。
「店長には、もう辞めるとお伝えさせて頂きました」
「そんな……まさかパワハラがあったんですか、それともどこからか圧力が!?」
驚愕で仰け反りながら、大声で盛岡嬢が叫ぶと、店内に居た客が一斉にこちらを振り返った。
いやいやいやまさかまさか。あのパン屋の人達はあまりにも優しかった。
食費を節約していると知れば余り物のパンを山ほど持たせてくれたし、疲れてないか、と頻繁に声をかけてくれた。
お嬢さんのところで働いていた時のことを考えると、あまりにもホワイトな職場だった。それは間違いがない。
それに、まだ昔の関係のところから圧力が掛けられただとか、嫌がらせをされたとかという事もない。
本当に情けないことに、純粋に自分の確認不足だったのだ。
「その……」
「はい。何でも言ってください」
「足りないんです……!時給九百四十円で朝九時から夕方六時まで働いたって、月に十五万円!朝番の仕事が時給千円で、月に六万円!深夜の仕事が時給千二百四十円で、月に十万円程!ここから家賃で三万が引かれて食費が一万五千引かれて水道光熱が一万引かれて通信費が交通費が税金が社会保障がうわあああああああああああ!!」
店内に、沈黙が降りた。
固唾を飲んで話の展開を見守っていた客も、ちらちらとこちらを窺っていた店員も、真正面で心配げに目を潤ましていた盛岡嬢も、皆。
―――その沈黙を真っ先に破ったのは、盛岡嬢だった。
「え、あの、それって十分にありませんか……?っていうかバイト掛け持ちしてたんですか!?そんなに働いてたら死んじゃいます!」
「死ぬほど金が欲しいんです、俺は!」
金の亡者の名前は伊達ではない。
捕まって時間をロスしてしまうような事でなければ、おはようからおやすみなさいまで表から裏までどんな仕事だってこなしてみせる。
それにお嬢さんのところに戻る事は出来ないから、こうなったらもう一度日の目を見れない世界に潜るしかない。
あそこは確かに死ぬほどキツイ。死ぬほどキツイが金はそれなりに稼げる。お嬢さんのところ程ではないが。
「どうしてそんなにお金に執着するんですか?綾瀬さん、豪遊してるって感じじゃないのに」
「どうしてもやりたい事があるんです……制限時間があるんです…」
正社員、は魅力的な言葉だ。
真っ当な社会人感が半端ない。
夢の幸せな家庭と、可愛い嫁さん、可愛い子供を抱える未来への一番の近道だ。
―――けれどその称号では金は稼げない。
それに気づいたのは、先日給与明細を貰ってからだった。
「でもそれだけ稼いでいるなら」
「お嬢さんのところで頂いてたお給料の十分の一以下、です」
「………」
「無茶振り臨時ボーナスの分とか考えるともっと割合が減るんです……」
店内で聞き耳を立てていた客は、ぼそぼそと話し始めた。
借金だの、身売りだの、犯罪だの……って、おいこら勝手に話を展開すんな。
カラン、と鳴る扉の音がそんな雑音に掻き消されていたが、自分はそれに気づくことが出来なくて。
そうしたギャラリーの声もどこ吹く風で腕を組んでうんうんと考え始めた盛岡嬢は、ひとしきり唸った後で素朴な疑問に首を傾げた。
「でも……ボディーガードにそんなにお給料を出すだなんて、聞いたことないけどなあ」
「そ。【綾瀬】ににこれだけの価値を見出すのは、世界に私ただ一人。お分かりになって?盛岡さん」
ひょい、とテーブルの上に諭吉を一枚載せながら、美貌の少女は軽やかに笑って―――。
「鶴橋さん!」
「お嬢さん……」
盛岡嬢の前に座っていた俺を押しのけるとその場に座り、一転して真剣な表情で語りかける。
あ、はい。俺邪魔ですね。ちょっとアイスティー注文します。
「御覧の通り、貴女じゃ手におえないような男なの」
「でも、」
「後ろ暗い経歴ばっかりで、頭も無いし財も無い。社会に出ればたかだか時給九百四十円の価値しか見出されない男なのよ」
「そんな言い方……」
「駄目よ、盛岡さん。貴女は優しすぎていつ変な男に引っかかってしまうのかっていつも心配してるの。この前だって…」
盛岡嬢の目を見つめながら真摯に訴える様子は、ダメ男と別れるように忠告するような様子さえ呈していて、美しい友情の一場面だ。
確かに盛岡嬢の【頼られたら何とかしてあげたくなっちゃう】っぷりには色々と心配になってしまうところがあるのは確かだ。
でも……もしかして、この場合のダメ男は俺になるのだろうか。
夕日を背景に如何に俺がダメな男なのか、もっと見る目を養わなくては駄目なのか、友達だからとても心配してるのか、なんて小一時間二人の世界に浸りきって話し合っていた。
お嬢さんがこんなに入れ込んでるなんて本当に珍しいなあ、と途中まで聞いていたのだが、途中から俺への攻撃が始まったため速やかに耳を塞いだ。
もうやめて!俺のライフはマイナスだ!
しかしながら耳を塞ごうとも、話が進むにつれてあんなに優しげだった盛岡嬢の俺を見る目が冷たくなっていくのには耐えられなかった。
お嬢さんが嘘を吐かないのは知ってるが、まさかなんか余計な事吹き込んでいるんじゃないですね……。
話に決着がついたのか、盛岡嬢は席を立つ際に俺に「これからも鶴橋さんのところでがんばってくださいね」と根気良く言い聞かせてくれた。
ああ、俺の天使様……!貴女もこの悪女の手に堕ちたんですね……!
ぱん、と手を叩くと、にっこりと笑ったお嬢さんがこれで全部解決した、と言わんばかりに微笑んでいて。
「さ。幾らでも仕事は溜まってるの。帰るわよ、綾瀬」
「……まだ俺の仕事あんの」
「そりゃあ、【綾瀬】の仕事は貴方にしかできないでしょう」
貴方の為に用意した仕事を無駄にしないでくれるかしら、と言いながら鞄を押し付けてくる手はほんの少しだけ震えていた。
―――ああ、もうこれだからこの人は。
断れるのが怖いなら、怖いと素直にそう言ってくれれば分かり易いのに。
「本当、お嬢さんって変わった趣味してるよな」
気付いて欲しいのなら、たまには顔を赤らめるとか、可愛い反応してみろってんだ。
そう思ってかけた言葉に、彼女はきょとん、としたように一瞬だけ呆けて――――にんまりと笑った。
「分かってるならさっさと働きなさい。ボーナスは弾んであげるけど、卒業まであと一年も無いわよ」
可愛い口から出てくるのは、相変わらずの高飛車な言葉ばかり。
人の気を引くのにからかうフリして俺色に染めさせてやるだの、服を脱いで見せようとするだの、どこかずれたやり方ばかり。
勢いで突き放してしまえば、後から悔やんで調査会社に頼んで俺の生活を毎日チェックしてみたり、盛岡嬢に探りをいれてみたり。
人の顔を札束でべしべしと叩いてくるような女なのに、普段は可愛げなんて見た目以外には全くないのにちょっとだけ。本当にちょっとだけ、魅力的に見えてしまう自分は相当な馬鹿だ。
―――――ああ。やっぱり金の力って偉大。
「あー、はいはい。待ってろよ、お嬢さん」
大財閥の鶴橋家の末娘と駆け落ち出来るだけの貯金まで、あともう少し。
そして、かつて夢見たような恥ずかしがり屋で可愛い嫁さんは手に入らなくとも、えらく姿かたちがすぐれてて、ちょっとずれた高飛車の嫁さんを手に入れるまでもうあと何年か。