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ゴンッ、と鈍い音。続けて後頭部に激痛が走る。
何事かと驚いたが、目を開ける前に海雪は気づいた。また寝ぼけてベッドから落ちたな、と。案の定、重いまぶたを開けてみると、身体はタオルケットごと床に落ちていた。
後頭部をさすりながらのろのろと身体を起こし、そしてまたベッドに寝転がった。今日は日曜日。薄目で見た時計の針はまだ七時だ。もう一眠りできる。
目覚める直前まで見ていた夢のつづきをもう一度……と思ったが、そう簡単には夢の世界に旅立てそうにない。それどころか後頭部のズキズキとした痛みが、見ていた夢の名残まで消してしまいそうだ。
(直登とキス、直登とキス、直登とキス……)
懸命に夢の映像を思い出そうとするが、まぶたを貫く朝日のまぶしさに夢幻の世界は段々と薄れ遠のいてしまう。
徐々に高度を上げる真夏の太陽は、カーテン越しでもその暑苦しさを主張してくる。一度目覚めてしまうと薄いタオルケットですら暑く感じて、海雪はそれを乱暴に蹴飛ばした。
夢路は辿れずとも、せめてもう一眠り──だが無慈悲なお天道様はそれを許してはくれなさそうだ。
あまりの暑さに耐えかねて、海雪は仏頂面で身体を起こした。栗色のショートボブが汗で頬に張り付いている。
「ああっ、もうっ!」
羽根枕を壁に投げつけたのは、何も暑さのせいだけではない。
今日もまた直登の夢を見てしまった。高校時代の彼氏・高居直登。
別れてもう七年、高校を卒業してからは全く会っていない。なのに結婚が近づいた今になって、たびたび夢に出てきては海雪を悩ませているのだ。
高校二年の秋、直登とは仲間同士で遊ぶうちに自然と付き合いだした。その始まりは曖昧で、多分「好き」という言葉すら交わしていなかったと思う。けれども、お互いの気持ちはわかっていたつもりだったし、少なくとも海雪は直登と一緒にいられるだけで幸せだった。
二人でいる時間が本当に楽しくて、このままずっと一緒なんだと純粋に信じていたのに──
高三の夏、ある出来事をきっかけに二人の間に微妙な空気が漂うようになり、休みが明けた秋、直登から別れを切り出された。予感はしていたけれど、実際に別れを突きつけられてみると思いの外ショックが強く、今もトラウマとなって残っている。
夏が来るたび、あの時のことを思い出しては一人ブルーになって沈む夜を幾度となく繰り返してきた。
あれから七年。海雪は短大を出て、今は公務員として市役所勤めをしている。
いくつかの出会いと別れの後、良縁に恵まれて優しい結婚相手に巡り会えた。結婚式を三ヶ月後に控え、今はその準備に追われる毎日だ。
婚約者のことはもちろん愛しているし、直登のこともとうに吹っ切ったつもりだった。
それなのに──このところ直登が夢に現れては、海雪の心をめちゃめちゃにかき乱していく。心の奥底に残る想いの燃えさしを見つけてあざ笑うかのように、夢の中の直登は海雪に背徳的な行為を繰り返すのだ。
「……っんとに、もうっ!」
ベッドの上に座り、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回してみるものの、苛立ちが消えるわけではない。
夢の中で、直登に抱きしめられて心臓まで掴まれた──そんな気がした。今思い出しても、胸が騒いで熱いため息が漏れる。
吹っ切ったはずなのに、未練がましく直登を想っている自分に気がついて、海雪は夢から目覚めるたびに愕然となる。
(全部悠一が悪いんだ)
そうやって婚約者の悠一のせいにしておけば、少しは気が晴れる。
海雪はおもむろに立ち上がると、寝汗でべたついた身体を流そうと、バスルームへ向かった。
このところ、悠一と些細なことでケンカすることが多い。
今日だって、ジュエリーショップに結婚指輪を見に行こうと約束していたのに、昨日の夜になってドタキャンされてしまった。
『もういいよ! 私一人で行ってくるから!』
電話口で謝っている悠一の言い訳を遮り、携帯電話に捨て台詞を吐いて無碍に切ってしまった。
どうしても片付けなければならない仕事が入ったからで、そういう急な呼び出しがある彼の仕事については、海雪もある程度は許容している。それも含めてプロポーズを受けたのだ。
そう、彼のすべてを受け入れてプロポーズを受けた──はずなのに。
心にできた小さな黒い染みが、結婚式が迫るにつれて徐々に広がっているような気がする。じわじわとした重みを感じながら、それは次第に身体さえ蝕んでいくかのようだ。
自分以上に多忙な悠一の分まで、雑多な結婚式の準備を引き受けているからかもしれない。
正直、結婚式の準備がこんなに大変なものだとは思わなかった。披露宴の会場を決めるところから始まって、招待客のリスト作成や衣装合わせ、引出物を選んだり、新婚旅行の手配もある。新居のことも考えなければならない。
残り三ヶ月となり、海雪は自分の仕事も抱えながらこれらの準備をほぼ一手に引き受けて、パンク寸前なのは確かだった。
だからなのか、様々なものに対して抱いている漠然とした不安が、海雪の心に重くのしかかり始めている。そしてそれは結婚への迷いとなって海雪を苛むのだ。
(本当に、これでいいんだろうか……)
薄暗いバスルームでぬるいシャワーを頭からかぶりながら、もう何度目かわからない自問を海雪は繰り返した。
悠一に特別な不満があるわけでも落ち度があるわけでもない。強いて言えば彼が脱いだ服をその場に放置して片付けないところだろうか。
けれどそのくらいの不満は悠一だって海雪に対して持っているだろうし、何よりも年上である彼の包容力に惹かれたのだ。
悠一は何も悪くない。それはわかっているのに──
(本当に、このまま結婚してもいいのかな……もしかしたら)
単なる『マリッジブルー』で片付けてしまうには、夢見が悪すぎる。
直登を思い出すたびに、海雪は考えてしまう。
もし──直登と別れてなかったら?
直登とあのまま付き合っていたら、今の私はどうしてる?
過去は変えられないとわかっていても、どうしても考えずにはいられない。考えるだけムダとわかっていても、今の自分は妄執に囚われているのかもしれない。
どれだけシャワーを浴びても、迷いは洗い流せそうにない。海雪はバスルームを出て、服を着た。
廊下の窓から覗く青空は、腹が立つほど澄み渡って雲ひとつ見当たらない。肌を焦がすような日光が燦々と降り注ぎ、青々と茂った木々の葉に乱反射して緑色が眩しいくらいだ。
(そういやあの時も……こんな晴れて暑い日だったっけ)
夏休みに入る直前、遠くの空にむくむくと立ち上る入道雲を眺め、高校生活最後の夏を満喫しようと心弾ませていたあの日を思い出す。
海雪の口から、自然とため息が漏れ出ていた。
外のうだるような暑さを思い浮かべたからだけでなく、忘れたい思い出までもが脳裏をよぎったからだ。