第十話 勝負当日
その日の晩、俺はガルドの店の厨房を借りて、カレーの試作を重ねていた。
昼間に作ったカレーの完成度はかなり高かった。
太陽トマトの濃密な酸味と甘さを生かしたベースに、千年ニンニクと銀胡椒を加えて調整したルー、そこへヴァリアント・ボアのロースを合わせ、サフランライスと一緒に食べれば、文句のつけようがないほど美味い。
それでも、俺の心には一抹の不安が残っていた。
何かが足りないが何なのか、具体的にはまだ分からない。
けれど、このままではヴァリファリスには勝てない。
なぜそう思うのか、自分でも説明できない。ただ、料理人としての感覚が、どうしてもそう告げていた。
俺はルーの配合を変え、スパイスの種類や分量を調整し、太陽トマトを加える量も変えてみる。
肉の切り方や焼き方、煮込む時間まで試してみた。
それぞれの要素を一つずつ見直しながら何度も試作を繰り返したが、それでも胸の奥にある不安は消えてくれなかった。
気が付けば、かなり遅い時間になっていた。
鍋をかき混ぜながら考え込んでいると、背後から声がした。
「もう、こんな遅くまで頑張っちゃって、体壊しても知らないからね?」
振り返ると、そこにはミーナが立っていた。
ミーナは少し呆れたような顔をしながら、手に持っていた皿を俺の前へ差し出した。
「あまり根を詰めても仕方ないわよ。これでも食べて休憩しなさいよ」
皿の上に乗っていたのは、ミーナ特製のオレンジケーキだった。
ミーナの得意料理であり、ガルドの店でも人気の高い商品だ。
しっとりとした生地にオレンジの爽やかな香りが広がり、甘さの中には程よい酸味がある。
俺も、このオレンジケーキが大好物だった。
「ありがとう、頂くよ」
俺はフォークで一切れを口へ運んだ。
「うん、この甘酸っぱさ……やっぱり最高だな」
何度もカレーを試作しては味見を繰り返していたせいで、口の中にはスパイスや肉の旨味が残り、かなり重たくなっていた。
そこへオレンジケーキの爽やかな甘さと酸味が広がると、それまで口の中に残っていたカレーの風味が一度リセットされるような感覚があった。
「待てよ……?」
俺はフォークを止めた。
カレーを食べ続けていると、どれだけ美味しくても次第に口が重くなる。スパイスの刺激も、肉の旨味も、濃厚なルーも、食べ続ければ少しずつ舌に残っていく。
だが、オレンジケーキを食べた瞬間、その重さが消えた。
爽やかな甘さと酸味が口の中を洗い流し、もう一度カレーを食べたいと思わせてくれる。
そこまで気付いた瞬間、俺は目を見開いた。
「そうか……そうだったんだ!」
「どうしたの?」
ミーナが不思議そうに俺を見る。
俺は思わず立ち上がった。
「俺たちのカレーに足りないものは……これだったんだ!」
「カレーに足りないもの!? 一体何を言ってるの?」
ミーナが戸惑うのも当然だ。
俺たちは、カレーそのものを美味しくすることばかり考えていた。
ルーを改良し、肉を変え、スパイスを調整し、サフランライスまで用意した。
けれど、それだけでは駄目だったんだ。
その答えを、俺は今、ミーナのオレンジケーキから教えてもらった。
「ありがとうミーナ! これで……俺たちは勝てる!」
「だから、何がどうなったのよ!?」
ミーナの声を聞きながら、俺はもう一度カレーの鍋を見つめた。
ようやく見つけた。
ヴァリファリスに勝つために必要な、最後の一手を。
◆
そして、料理勝負当日。
アルヴェリア王国とグランディア王国の国境には、この日のために特設された巨大な会場が設けられていた。
会場を埋め尽くしているのは、両国から集まった大勢の観客だ。
アルヴェリア側からは自国の代表である俺たちを応援する声が響き、グランディア側からはヴァリファリスを称える歓声が上がる。
両国の声援がぶつかり合い、会場全体が凄まじい熱気に包まれていた。
その中央に設けられた調理台の前に、俺とレオンが並んで立っている。
そして、その向かい側には、あの男がいた。
「逃げずによくやってきたじゃねえか! まずは褒めてやるぜ!」
豪快な声を響かせたのは、グランディア王国の代表にして、神厨八師の一人、『雷獣』ヴァリファリスだ。
その巨体から放たれる威圧感だけで、こちらまで押し潰されそうなほどだった。
だが、俺が気になったのはヴァリファリスだけではない。
その隣には、小柄な若い女性が立っていた。
ヴァリファリスとはあまりにも対照的な姿で、小柄で穏やかな雰囲気すら感じられる。俺には、彼女がこの料理勝負に出てくるほどの実力者には見えなかった。
「あれが、ヴァリファリスの相棒なのか? 意外だな、全然凄そうに見えないけど」
「いや、あいつを侮らない方がいい……」
すると、隣にいたレオンが女性へ視線を向けた。
「レオンはあの子を知っているのか?」
「ああ、昔ちょっとな」
そのとき、女性がこちらへ視線を向けた。そしてレオンの姿に気付くと、少し驚いたように目を見開いた。
「あら? レオンじゃない、久しぶりね」
その声を聞いたヴァリファリスが、二人を見比べる。
「あん? 知り合いかよ?」
「はい、昔少しの間ですが一緒に働いてました」
女性はそう答えると、改めて俺たちへ向き直った。
「紹介が遅れましたね。私はユーリ、ヴァリファリス様の一番弟子をやらせてもらってます。今回、グランディア王国の代表としてヴァリファリス様と共に料理勝負へ参加しますので」
そう名乗った彼女を見て、俺は改めてその姿を眺めた。
「一緒に働いてたってことは……あいつの腕前は確かってことか?」
ヴァリファリスがユーリへ尋ねる。
「それは間違いないですね。まあ、私には叶いませんけど」
ユーリはそう答えた。
「相変わらずだな、あいつは……」
レオンがユーリの言葉を聞きながら苦笑している。
レオンが昔一緒に働いていたというだけでも気になるが、ヴァリファリスの一番弟子であり、グランディア王国を代表する料理人ともなれば、その実力は相当なものだろう。
相手は神厨八師の一人、『雷獣』ヴァリファリス。
そして、その一番弟子にしてグランディア王国屈指の料理人、ユーリ。
俺は改めて気を引き締めた。
やがて会場のざわめきが静まり、中央へ一人の老人が歩み出た。
世界厨子ギルド連合の重役にして、今回の料理勝負を取り仕切る審判、ウォーロッドだ。
ウォーロッドは両国の代表を見渡すと、ゆっくりと口を開いた。
「これより、アルヴェリア王国とグランディア王国による料理勝負を開始する」
会場から大きな歓声が上がった。
「今回の料理勝負、そのテーマは……これだ!」
ウォーロッドの言葉と同時に、魔道具に文字が表示される。
『辛い料理』
瞬間、会場が大きく沸いた。
俺は目の前に並べられた調理器具を見つめる。
いよいよ始まる。
俺たちがここまで積み重ねてきたすべてを、この一皿に込める。
俺は静かに息を吐き、調理台へと向き直った。
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