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悪女として死の森に捨てられた

悪女として死の森に捨てられたら、異形の男に拾われました。一方、私を陥れた者たちは報いを受けているようです

作者: 春樹凜
掲載日:2026/08/22

森に捨てられた悪女その1です。



「この性悪女め! お前のような毒婦は、人間不可侵の『死の森』がお似合いだ!」


 元婚約者である王子の声が響き渡った夜会から数日。


 私は今、隣国との国境近くにある鬱蒼とした森の入り口に、たった一人で放り出されていた。

 まだ日も高いというのに、そこだけがまるで世界から切り取られた空間のように暗く、異質な空気を放っている。


 罪状は、王子の浮気相手である男爵令嬢への非道な嫌がらせと、彼女の毒殺未遂。

 もちろんすべて濡れ衣だが、二人によって周到に用意された偽の証拠を前に、私の無実を信じる者は誰一人いなかった。


 いや――正確には、信じようとしてくれる人間が一人もいなかったのだ。


 家でも、私はずっとそんな扱いだった。

 母を早くに亡くした私のもとへ後妻がやって来て、愛らしい妹が生まれてから、父の関心はすべてそちらへ向いた。


 妹が花瓶を割ればそばにいた私が責められ、妹が家庭教師に叱られて泣けば「姉なのだから慰めてやれ」と命じられる。

 私の誕生日に用意されたドレスを妹が欲しがった時も、父は困ったように笑って「お前は姉なのだから、譲ってやりなさい」と言った。

 だから譲った。

 それからも、ずっと。


 王子の婚約者になってからも、私の立ち位置は同じだった。

 彼が好む話題を学び、隣に立って恥をかかせないよう礼儀作法も政治も歴史も必死で身につけた。

  けれど、王子は一度たりとも私を見てくれなかったし、愛されることもなかった。

 笑えば媚びているとあしらわれ、黙っていれば愛想がないと疎まれ、意見を述べれば生意気だと叱責される。


 男爵令嬢が現れてからはもっと扱いはひどくなった。

 彼女が泣けば私が悪くなり、転べば私が突き飛ばしたことにされる。

 そんなことはしていないと何度訴えても、王子は決まって苛立った顔で「また言い訳か」と吐き捨てるだけだった。


 最後の夜、私は父に、一度だけ尋ねた。

 本当に私が人を毒殺しようとしたと思っているのですか、と。

 

 父は私の目を見ず、ただ疲れたように、


「これ以上、家に迷惑をかけるな」


 それだけ言った。


 妹も義理の母も、切り捨てられる私を見て、ドアの陰から笑って見ていた。


 その瞬間、何かが完全に切れたんだと思う。


 夜会で王子に断罪され、婚約を破棄され、王都を追われ、人ならざるものが棲むと噂される死の森に捨てられたというのに、不思議と涙は出なかった。


 ……やっと、一人になれた。


 死の森は、古くから罪人の追放や死体の遺棄に使われてきた場所だ。

 そこへ入った者は二度と戻らず、いつしかそう呼ばれるようになった。

 凶暴な獣も多々おり、半日も経たずに食い殺されるという。


 そして、獣以外にもここには『ナニカ』がいるらしい。


 夜ごと奇妙な声が聞こえ、木々の隙間に巨大な影を見た者は叫び続け、数日以内に正気を失うという。


 けれど、私に絶望はなかった。

 裏切りと悪意に満ちた人間の社会に、私はもう疲れ果てていたからだ。


 誰かの顔色を窺い、ありもしない罪を着せられ、正しくあろうとしても都合よく踏みにじられる。

 そんな場所へ戻るくらいなら、ここで静かに朽ちていく方がずっといい。


 そう思って冷たい木の根元に座り込み、目を閉じた時だった。


 ――ぎ、ぃ……。


 奇妙な音が、深い森の奥から近づいてくる。

 鳥の鳴き声でも、獣の唸り声でもない。

 重たい何かが、無理やり人間の喉を使って息をしているような音。


 ふと顔を上げると、そこには見上げるほど巨大な男が立っていた。


 私より頭二つどころではないほどに大きく、異様に長い手足と、死人のように白い肌を持っている。

 ぼろぼろではあるが、はるか昔には上等な仕立てだったのだろうと思わせる、黒い衣服を纏っていた。


 何より恐ろしいのはその目だった。

 白目も、瞳孔も、虹彩もない。

 ただ、底のない穴のような黒だけが顔の中に二つ存在し、光すら飲み込んでしまいそうな瞳で私をじっと見下ろしていた。


 顔立ちそのものは不思議なくらい整っているからこそ、余計に恐ろしい。


 人に似ているが、人ではない。

 そう本能で理解できるナニカがそこにいた。


「…………」


 私は逃げようともせず、ただナニカを見上げていた。

 ナニカもまた、長い間私を見ていたが、やがて掠れた低い声が落ちてきた。


「……オ、前」

「はい」

「……泣いテ、いル」

「え?」


 自分の頬にそっと触れると、濡れていた。


 いつから泣いていたのだろう。

 森へ捨てられた時か、父の顔を思い出した時か。


 それとも――もっと前からずっと泣きたかったのかもしれない。


「……そうみたいですね」


 私が答えると、ナニカはぎこちなく首を傾げた。


「……なゼ?」

「なんでなんでしょうね」


 乾いた笑いが零れた。


「ただ……もう、人間には関わりたくないだけです」


 黒い瞳が、わずかに揺れたような気がした。


 それからナニカは、大きな手を伸ばす。

 冷たい指先が私の頬に触れた。


 爪は長く、手のひらは私の頭など簡単に握り潰せそうなほど大きいのに、その手つきはひどく慎重だった。

 壊さないように、傷つけないように……。

 まるで初めて硝子細工に触れる子どものように。


「……人間、嫌イ?」

「ええ。今は嫌いです」

「……俺モ。人、ウルサイ」

「そうですか」


 妙な話だ。

 人ならざるものに人間嫌いだと告白され、私は少しだけ安心してしまっていた。


「……ここは、静かでいいですね」


 何の雑音も入ってこない。

 妹の笑い声も、王子の罵声も、観衆の心ない声も。


 ナニカはしばらく私を見つめた後、問うた。


「……オ前。ここニ、いル?」

「そうですね。行くあてもありませんし」

「……ソレ、ナら」


 言葉が途切れる。

 上手く人間の言葉を扱えないのか、長い沈黙のあと、ナニカは続けた。


「殺さナ、い。……おまエ、気に……イッた」


 予想外の言葉に、思わず目を瞬く。


「え……っと、どうして」

「……オ前、ウルサく、なイ。俺ヲ、怖ガらなイ」

「怖くないわけではありませんよ」


 正直に答えた。


「でも、人間よりは怖くありません」


 すると、黒い瞳がわずかに細くなる。

 その時の私はまだ知らなかったが、それは、彼が嬉しい時に見せる表情だった。


 ――これが、私とナニカとの出会いだった。







「私の名前はアンリです。あなたは?」


 ナニカには、名前がないらしかった。

 彼にとって他者から呼ばれるための名前など必要なかったらしい。


 だから、その白い肌を見て、私が勝手にハクと呼ぶことにした。


「アンリの、好キに、呼んデいい」


 そう言って、彼はそれを受け入れた。


 森の奥には、古い石造りの小屋があった。

 半分ほど苔に覆われ屋根の一部は崩れかけていたが、壁も暖炉も残っており、ハクは昔からそこを寝床にしていたらしい。

 もっとも、人ではない彼に寝台も食器も必要なかったようだが。


 最初の夜。

 炎のついてない暖炉をぼんやりと眺めていると、ハクが肩に大きな獣を乗せて戻ってきた。


「……食ウ」


 足元にどさりと獣が置かれる。


「ええと……」


 ハクは獣と私を交互に見た。


「……足リ、ナい?」

「いえ、そんな! むしろ多いくらいで……。ただ、その、どうやって食べたらいいか分からなくて」


 獣の解体なんてやったことがない。

 けれどハクの好意もむげにはできない。

 

 どうすればいいのかと悩んでいると、ハクは小屋のどこからか古びたナイフを探し出してきた。

 そして獣をひょいと持ち上げて外へ出ると、しばらくして綺麗に切り分けた赤い肉の塊を持って戻ってきたのだ。


 差し出されたのは、もちろん生の肉だ。


「ありがとう。でも、このままでは食べられないから焼きたいのだけど……」


 私がそう言うと、ハクは暖炉を見つめ、ポンと軽く手を叩いた。

 そしてまた外に行って枝を集めて、暖炉に放り込むと、火を起こしてくれた。


 私は余っていた枝に肉を刺し、暖炉の前に並べてじっくりと焼いた。

 やがて脂が落ちていい匂いが漂い始める。


 熱々の肉にかぶりつくと、王都で食べていた料理に比べればずっと生々しくて、獣特有の匂いもある。

 けれど、その血肉の味が、死んだように冷え切っていた私の身体に、生きているという感覚をじんわりと呼び覚ましてくれた。


「美味しい……」


 ふと視線を感じて横を見ると、生のまま肉をかじっていたハクが、じっと私の手元を見つめていた。


「……ソレ、旨いノカ?」

「ええ。ハクも食べてみますか?」


 私が差し出した串を受け取る時、ハクはほんのわずかに姿勢を正す。


 ただ肉を受け取っただけなのに、その手の動きには妙な落ち着きがある。

 荒々しい見た目には似つかわしくない、どこか品のある仕草だった。


「……?」


 一瞬だけ違和感を覚えたけれど、ハクは何事もなかったように串焼きの肉を口に運んだ。

 もぐもぐと咀嚼し、やがて黒い瞳がわずかに細められる。


「……温かイ」


 それが彼なりの、美味しいの表現なのかもしれない。

 なんだかおかしくなって私は小さく笑った。


 食事の後、硬い床の上に体を横たえる。

 ふかふかのベッドよりも寝心地はよくないけれど、私は気にしなかった。


 だけど、寝にくそうに身じろぎした私を見たハクは、なぜか外へと出て行った。


 そして戻ってきた彼が両腕に抱えていたのは、大量の乾いた草と柔らかな苔だった。

 それを私の横に無造作に積み上げ、指を差す。


「……アンリ。ここデ、寝ル」

「ハクが私に集めてきてくれたの? ありがとう」


 素直にお礼を言ってそこに体を横たえると、冷たい床とは比べ物にならないほど柔らかくて温かかった。


 眠気が訪れるまで、私は何となく小さな声で歌を口ずさんだ。


 途中、うろ覚えだった旋律が途切れる。

 

 すると。


「……――♪」


 暗がりから、掠れた低い声がその続きを拾った。


 なぜその歌を知っているのか聞きたかった。

 けれどハクの声を聞いているうちに、私はいつの間にか、泥のように深い眠りへと落ちていた。







 死の森での暮らしは、思いのほか穏やかだった。


 恐ろしい獣たちはハクの姿を見ると逃げていく。

 森には食べられる木の実や茸があり、清らかな泉もある。

 ハクが狩りをし、私が料理をする。

 壊れかけていた小屋も二人で少しずつ直した。


 ハクは、何をするにも極端だった。


「薪が必要」と言えば小屋が埋まりそうなほど持ってくるし、「果実が欲しい」と言えば木ごと倒して引きずって持ってこようとする。


 私が慌てて止めると本気で不思議そうにするので、私はそのたびに笑った。


 ある日、木の実と蜂蜜で簡単な焼き菓子を作り、ハクに勧めた。


「どうですか?」

「…………甘イ、コレ、好キ」

「よかった」


 私が微笑むと、ハクは自分の分には手をつけず、残りをすべて私の前へ押しやった。


「食べないんですか?」

「……アンリ、食ウ」

「ハクも好きなんでしょう?」

「……アンリ、笑ウ。食ベルと、笑ウ。ソノ顔、好キ」

「っ……」


 その言葉に、胸の奥が小さく痛んだ。


 王都にいた頃、私の笑顔はいつだって誰かに評価されるためにあった。

 王子に嫌われないため、両親の機嫌を損ねないため、使用人に侮られないため。

 常に笑顔を絶やさない完璧な淑女――それが私に求められた役割だった。


 でもハクは違う。

 ただ、感情のままに私が笑うだけで満足してくれる。

 正しさも淑女らしさも求めず、私が笑うことを喜んでくれる。


「……ハク。私、ここにいてもいいんですね」

「……イイ」

「でも私は、悪女と呼ばれた女ですよ。毒婦とも、性悪女とも。本当は違うと何度も訴えたけど、結局、その評価は覆せませんでした」


 ハクはしばらく考え、あっさりと言った。


「ドウでモ、いい」


 大きな手が、私の頭にそっと置かれた。


「……アンリは、アンリ。アンリの、ままデ、イイ」


 息が止まりそうになった。

 誰も、ただの私を欲しがったことなどなかったのに。


 私は唇を噛む。

 涙がゆっくりと零れ落ちる。


 ハクが困ったように私の頬を撫でる。


「……痛イ?  苦シい?」

「違うんです。少しだけ、っ、嬉しいんです」


 ハクには意味が分からなかったようだが、私が泣き止むまでずっと隣に座っていてくれた。


 私はそこで、ハクに、何があったのか全てを話した。

 無実の罪を着せられたこと。

 婚約者であった王子に切り捨てられたこと。

 父の関心はすべて後妻が産んだ愛らしい妹へ向いていて、私が実家から見放されていたこと。


 ハクにとってみれば、人間の複雑な事情など半分も分からなかったかもしれない。

 けれどハクは、私から視線を逸らすことなく黙って聞いていた。


 ただ時折、妙なことがあった。

 私が「王子」や「妹」、あるいは「裏切られた」という言葉を口にするたび――暖炉の炎が作る小屋の影が、一瞬だけぐにゃりと不気味に歪むのだ。


「ハク……?」


 私が声をかけると、ハクはゆっくりと首を横に振った。


「……何デモ、ナイ。……続ケテ」


 静かな低い声でそう言い、彼は瞬きをする。

 

 ……気のせいだったんだろうか。


 けれどその時のハクの黒い瞳は、普段の光を飲み込むような黒よりもいっそう深く、底知れない泥のような闇を帯びていた気がした。







 最近、王都ではある奇妙な噂が流れていた。


 いつの頃からか――深夜になると、巨大な黒い影が窓から部屋を覗き込み、閉ざしたはずのガラス越しに低い声が聞こえるのだという。


『……許さナイ、裏切リハ、ユルサナイ――!』



 ――最初にその影と目を合わせ、声を聞いたのは、アンリの元婚約者の王子だった。


 彼の私室は王宮の三階にある。

 常識で考えれば、窓の外に人が立てるはずなどない。


 それなのに、闇夜に浮かぶ底知れない黒い瞳と目が合った瞬間、王子は悲鳴を上げて衛兵を呼んだ。

 しかし、急いで窓を開けさせても、そこには冷たい夜風が吹いているだけで何もいなかった。


 気のせいだ。

 そう自分に言い聞かせて眠りにつこうとするが、動悸が収まらない。

 

 それでも無理やり目を閉じると、夢を見た。


 そこは、鬱蒼とした『死の森』の入り口だった。

 無実の罪を着せ、あのアンリを追いやった地。


 真っ暗な木々の間から、巨大で青白い手が何本も這い出してくる。


「やめろ、離せっ……!」


 足首を掴まれ、どろどろの暗闇の中へ引きずり込まれる。

 抗うことはできず、息が詰まる――そうして、はっとして目を覚ますと、全身が冷や汗でびっしょりと濡れていた。


 それは一度では終わらない。

 毎晩、いや、たとえ日中であっても、眠るたびに少しずつ森の奥へと引きずり込まれていく恐怖に、王子は徐々に正気を失っていった。


 ――次の犠牲者は、王子の浮気相手である男爵令嬢だった。


 夢の中で彼女は森の入り口に立たされ、闇から伸びる無数の白い腕に羽交い締めにされる。

 そして無理やり口をこじ開けられ、毒を流し込まれるのだ。


 それは、彼女が自分で用意し、アンリのせいにして偽造したあの毒薬だった。


 喉が焼け爛れ、胃の腑が溶けるような激痛にのたうち回りながら目が覚める。

 夢だと分かっていても、眠りに落ちれば必ずまた猛毒の苦しみが待っている。


 彼女はついに、自らが用意した毒瓶の幻影に怯えて泣き叫ぶようになった。


 ――狂気は、王宮の外にいるアンリの家族にも伝染した。


 今までアンリからすべてを奪ってきた愛らしい妹。

 彼女の夢には、彼女が姉から奪ったドレス、宝石、両親からの寵愛、そのすべてが並んでいる。

 

 しかし手を伸ばそうとした瞬間、闇から無数の白い手が這い出てきて、彼女の宝物を次々と暗闇へ引きずり込んでいく。


 やがてその白い手は彼女自身の美しい髪や肌までも掴み、それらすらも姉から奪ったものだといわんばかりに、すべてを剥ぎ取っていく。

 妹は毎朝、自分の髪を掻きむしりながら絶叫して目覚めた。


 父と後妻である母も例外ではない。

 

 彼らが見る夢は、見えないバケモノがひたひたと迫ってくる暗闇の中で、「助けてくれ」と叫び続ける夢だった。


 しかし、どれだけ叫んでも、すがりついても、周囲の人間は誰一人として振り返らない。

 かつて彼らがアンリの絶望を無視し、冷酷に切り捨てたように。


 誰にも助けてもらえない絶対的な孤独と恐怖に、二人は憔悴し、屋敷の隅でただ怯えて震えるだけになった。


 次々と狂っていく彼らに共通しているのはただ一つ。


 ――死の森へ捨てたはずの、あの公爵令嬢アンリだ。


 報告を受けた国王は、ある恐ろしい可能性に行き当たり、さっと血の気を失った。


 彼は側近すら遠ざけ、王城の地下深くにある隠された書庫へと一人で向かった。


 そこにあるのは、王位を継承したあとに、次代の王にのみ口伝で場所が受け継がれる忌まわしき書物――初代国王が遺した古い手記。


 震える手で紐解いた分厚い羊皮紙には、王族の誰も知らない、王の過去の罪が記されていた。


 自分が王になるため、誰よりも自分を可愛がり、信じていた兄に濡れ衣を着せ、暗殺したこと。


 そして、その骸を『死の森』へと遺棄したこと。


『――死んだ兄が、窓の外にいる。今夜も、私を森へ呼んでいる』


 日記の最後のページには、恐怖に乱れた文字で、そう綴られていた。


 国王はへたり込み、絶望に顔を覆った。


 にわかには信じがたい話だが、この日記に書かれていたことは、紛れもない事実だったのだ。


 あの森に捨てられた公爵令嬢の存在が、王家に封印されていたかつての悪夢を、完全に目覚めさせてしまったのだと、ようやく気付いたのである。


 そして――ソレに捕まったら最後、精神がこちらに二度と戻ってこられないのは、初代国王が発狂して亡くなったという事実が証明していた。







 季節がひとつ巡った頃。

 私は森の入り口近くで、一人で薬草を摘んでいた。


 この死の森は凶暴な獣が出ると恐れられているが、今の私には一切の危険がない。

 ハクと一緒に暮らすうちに、どうやら私にも彼特有の得体の知れない気配――あるいは匂いのようなものが染み付いたらしい。

 森の奥深くまで歩いても、獣たちは私を避けていくようになっていた。


 ふと、街道を通る国境警備の兵士たちの会話が風に乗って聞こえてきた。


「……夜ごと悪夢にうなされて、王太子殿下はとうとう廃嫡。弟王子が後を継ぐんだと」

「お相手の男爵令嬢も、似たような悪夢見て狂ってきてるんだろ? 例の公爵家も酷い有様だそうだ。当主も夫人も、それに妹君も、夜な夜な『奪われる』と狂乱して、完全に気が触れてしまったとか」

「あの公爵令嬢、アンリ様の呪いだという専らの噂だ。無実の罪で死の森に捨てられた怨念が、王都に災いをなしているんだと……」


 アンリの呪い……。

 自分が恐ろしい災厄の元凶として噂されていると聞いても、不思議と私の心はひどく凪いでいた。


 よく分からないけど、私が無実だったとは証明されたらしい。


 けれど別に、王都の人間たちからどう言われようと構わない。

 無実だろうが、私はもう二度と王都に戻ることはないし、森の外へも出るつもりはないのだから。


 ただ、私を陥れた者たちがこぞって破滅しているというその事実は、単なる偶然と言うにはあまりにも奇妙だった。


 小屋へ戻ると、ハクが待っていた。


「……オカ、えリ」


 私を見るなりすぐに立ち上がり、薬草の籠を受け取って嬉しそうに黒い瞳を細める。

 夕食の準備をしている間、ふと気になって口を開いた。


「ハク。今日、森の入り口で王都の噂を聞いたんです」

「……?」

「私を陥れた人たちが、恐ろしい悪夢を見て正気を失っていると。……ハクが、何かしたんですか?」


 背後に立っていたハクの気配が、ぴたりと止まった。

 振り返ると、彼はじっと私を見つめたまま、肯定も否定もしない。

 

 やがて、大きな手がひどく慎重な手つきで私の髪に触れた。


「……怖イモの。見なクて、イイ。汚イのモ」

「人間のことですか?」


 ハクは答えなかったが、否定もしなかった。


「……俺ガ、守ル。ずっと、ココ」

「ええ、ずっとここにいます」


 私がその大きな手に自分の指を重ねると、ハクの黒い瞳がゆっくりと細められた。


「だって私、分かったんです。人間の国より、あなたのいる森の方が、ずっと息がしやすいって」


 ハクは私を背後からそっと包み込んだ。

 冷たい身体に、異様に長い腕。

 人ではない気配。


 なのに、過去のどんな人間の抱擁より、ずっと安心できた。







 さらに数カ月が過ぎた頃。

 かつて実家であった公爵家に仕えていた老執事が、森の入り口まで私を探しにやって来た。


 彼は森の中へ一歩も入ろうとはせず、境界線の外からただ必死に私の名を呼び続けていた。


 私が一人で境界まで出向くと、すっかりやつれ果てた老執事は私を見て縋るように泣き崩れた。


「おお、アンリお嬢様……! 生きておいでだったのですね。どうか、どうかお戻りください。旦那様も奥様も、妹君も、毎晩恐ろしい悪夢に苛まれてすっかり正気を失ってしまわれたのです!」

「……そうですか」

「今は皆様、王都の療養施設におります。悪夢に怯えて衰弱し、医師からも長くはないだろうと……。王太子殿下も、あの男爵令嬢も同じです。どうか皆様をお許しになり、呪いを解いてやってください……!」


 地面に額を擦りつけて懇願する彼を見下ろしながら、私は自分の心がひどく静かなことに気づいていた。


 胸が痛むことも、ざまあみろと嘲笑う気持ちも湧かない。

 

 父が怯えていると聞いても。

 妹が狂ってしまったと聞いても。


 もう、本当にどうでもよかった。


 それにどうすれば呪いが解けるのかなんて分からない。

 私自身が何かしたわけじゃない。

 ハクに言えばもしかしたら……けれど、私はその選択肢は選ばない。


 私は彼らを許さないから。

 けれど、憎み続けるつもりもない。

 ただ、もう私の人生には必要のない人間なのだ。


「申し訳ありませんが、戻るつもりはありません。呪いを解く方法も知りません」

「お嬢様……!」

「どうか皆様、お元気で」


 背を向けて森へ戻ろうとした私を追って、老執事が縋るように、森の境界へ一歩、足を踏み入れた瞬間だった。


 ――ごぉっ、と。

 突如として、森中の木々が怒り狂ったようにざわめき、冷たい突風が吹き荒れた。

 木々の奥、深い暗闇の底から、無数の這いずるような音が聞こえる。

 枝の隙間から、赤や黄色に濁った人ならざる目がいくつもこちらを睨みつけていた。


 老執事は悲鳴すら上げられず、真っ青になって腰を抜かす。

 

 私は振り返り、静かに告げた。


「ここから先は、来ない方がいいですよ」


 自分でも驚くほど、穏やかな声だった。


「この森は、人間には優しくありませんから」


 私は怯える彼を残し、一人、深い森の奥へと歩き出した。


 小屋へ帰ると、ハクは入り口のそばにある大きな倒木に座っていた。


 長い足を子どものようにぶらぶらと揺らしながら、低い声で何かを口ずさんでいる。


 私は、はっとして足を止めた。

 ひどく掠れた声だったが、その旋律にははっきりと聞き覚えがあった。


 王宮で王子妃教育を受けていた頃。

 今の王妃から直々に教えられた、王家に伝わる古い古い子守唄だ。


『建国よりはるか昔。初代国王がまだ幼かった頃、彼を誰よりも愛していた兄君が、よく歌って聞かせていたという曲です』


 王妃は当時、誇らしげにそう語っていた。

 

 私に気づいたハクは歌を止め、すとんと地面に降り立った。


「……人間、来タ」

「ええ。昔の知り合いでした」

「……帰ル?」


 私を見下ろす漆黒の瞳が、ほんの少しだけ不安そうに揺らいでいる。

 私は迷わず首を振った。


「いいえ。私はここにいますよ」


 答えると、ハクの異様に大きな肩から、ふっと安堵したように力が抜けた。


「ハク。今の歌……どこで覚えたんですか?」


 ハクは不思議そうに首を傾げた。


「……分カラ、ナイ」

「分からない?」

「……知らナイ。ただ、何トナク」


 今、目の前でハクが口ずさんでいたのは、確かにここに来た初めての夜に聞いたのと、同じ旋律だった。

 あれは、夢ではなかったのだ。


 私はハクを黙って見つめる。


 ぼろぼろだが、かつては上等な仕立てだったと分かる黒い衣服。

 時折見せる、洗練された所作。

「王子」「妹」「裏切り」という言葉への異常な反応。

 そして、初めて会った夜からなぜか知っていた、初代国王の兄が歌っていたという古い子守唄。


 


 ――歴史書によれば、初代国王の兄は『反逆の罪』で処刑されたと記されている。


 そして、その死体が遺棄された場所は、確か……。





「……アンリ?」


 黙り込んだ私を覗き込むように、ハクがさらに首を傾げる。


 光すら飲み込む、底なしの暗闇のような瞳。

 けれどそこには、私を害する気配は微塵もない。


「なんでもありません。ただ、綺麗な歌だと思っただけです」


 私は微笑んで、彼の冷たい手を取った。

 

 過去がどうであれ、彼が何者であれ。

 今、私の目の前にいるのは、私を傷つけることのないハクなのだ。

 

 それ以上のことは、詮索する気もなかった。




 死の森は暗く、深く、どこまでも人間を拒んでいる。


 その森の奥深く。

 かつて毒婦と呼ばれた私は、得体の知れない彼に大切に守られながら、今日も穏やかに暮らしている。



シリーズにしてみました。

もしよければその2もあります。

設定同じの別性格ヒロインです。

『悪女として死の森に捨てられましたが、悲劇のヒロインになる気はありません。一方、私を陥れた者たちは報いを受けているようです』

https://ncode.syosetu.com/n6484mq/

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― 新着の感想 ―
HUNTER×HUNTERかと思ったらジブリだった。 AIなのかな?と思うような矛盾がチラホラ。 お話はとても面白かったです。
ここは一族郎党皆殺しでいいのでは
色々感想はあれど、まず最大なやつ。 異形が異形のままで良かった!!!!! こういうのって大体本来の美形な姿を取り戻すのが多いから、異形のままで心底安心ましたw
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