第1話 婚約破棄と謎の侯爵
「リリアーナ・フォン・ヴェルナー! この場をもって貴様との婚約を破棄する!」
シャンデリアの輝きが降り注ぐ、王立学園の卒業記念夜会。
そのホールの中央で、私の長年の婚約者であるアルフレッド・フォン・ラングローブ公爵子息が、高らかにそう宣言した。
(あー……やっぱり、言った)
喧騒が、まるで波が引くように静まり返る。
周囲の視線が一斉に突き刺さるのを感じながら、私は内心、どこか冷めた頭でそんなことを考えていた。
「アルフレッド様……? それは、どういう……」
健気にも震える声で問いかける私。
完璧だ。これぞ悲劇のヒロイン。内心では欠片も動揺していないけれど。
私の演技(?)に応えるように、アルフレッドは隣に立つか弱い小動物のような令嬢――クラリッサ・マートン男爵令嬢の肩を力強く抱き寄せた。
「僕は、真実の愛を見つけたんだ! 僕の隣に立つべきは、この可憐で愛らしいクラリッサだけだ!」
「まぁ、アルフレッド様! わたくしのために……でも、リリアーナ様が可哀想ですわ……!」
潤んだ瞳で私を見上げるクラリッサ。
そのわざとらしい仕草に、私の心の中の私が、盛大に舌打ちをする。
(どの口が言うか、この腹黒マシュマロ女め。アンタが散々けしかけた結果でしょうが)
この数ヶ月、クラリッサがアルフレッドに熱烈なアプローチをかけていたことなんて、とうの昔に気づいていた。
アルフレッドが、私の淹れるお茶よりも、クラリッサが買ってきた甘い菓子を喜ぶようになった時から。
アルフレッドが、私が選んだ落ち着いた色のネクタイよりも、クラリッサが贈った派手な刺繍のそれを好んで着けるようになった時から。
予感は、とっくに確信に変わっていたのだ。
だから、驚きはない。
あるのはただ、呆れと……長年の努力が水泡に帰したことへの、底なしの虚しさだけ。
アルフレッドは、勝ち誇ったように私を見下ろす。
「分かったか、リリアーナ! 君は地味で、退屈で、何の面白みもない女だ! いつもいつも正しいことばかり。僕が欲しいのは、そんな息の詰まる女じゃない!」
(地味? あなたの「妻は夫より目立ってはいけない」というお言葉に従った結果ですけど?)
(退屈? あなたのつまらない武勇伝(ほぼ捏造)と自慢話を、相槌を打ちながら延々と聞いて差し上げていたのはどこの誰でしたっけ?)
(息が詰まる? それは結構。こっちもあなたの見栄とプライドで窒息寸前でしたので!)
喉元まで出かかった本音を、特製のはちみつレモンティーと一緒にぐっと飲み込む。
ここで感情的になったら、負けだ。
みっともない姿を晒して、彼らの思う壺になってやるものか。
私は、背筋をすっと伸ばし、淑女として教え込まれた完璧なカーテシーを、ゆっくりと優雅に披露してみせた。
「――お話は、よく分かりましたわ」
顔を上げた私の唇には、穏やかな微笑みさえ浮かんでいたはずだ。
「アルフレッド様、そしてクラリッサ嬢。お二人の真実の愛、心よりお祝い申し上げます」
私のあまりに冷静な反応が、逆に彼のプライドを傷つけたのかもしれない。
アルフレッドの顔が、みるみるうちに怒りで赤く染まっていく。
「なっ、なんだその態度は! 悔しくないのか!」
「悔しい、ですか? いいえ、全く。むしろ……清々した、と申しますか」
「なっ……!?」
「長年、あなた様のお好みに合わせるため、たくさんのことを我慢してまいりました。地味なドレス、控えめな言動、そして……あなた様のつまらないお話に、心にもない相槌を打つこと。それら全てから解放されるのですもの。感謝こそすれ、悔しがる理由がございませんわ」
私はにっこりと、花が綻ぶように笑ってみせた。
「つきましては、ラングローブ公爵家との婚約は、ただいまこの瞬間をもって、謹んで解消させていただきます。これまで、大変お世話になりました」
再び、完璧なカーテシー。
それは、長年にわたる公爵夫人教育の賜物。
皮肉にも、彼との婚約があったからこそ、今の私がある。
最後の感謝を込めて、私は彼らに背を向けた。
ホールに集まった人々が、モーゼの海割りのように私のために道を開ける。
同情、好奇心、そして、ほんの少しの賞賛。
様々な視線が背中に突き刺さるけれど、もうどうでもよかった。
(終わった)
やっと、終わったのだ。
夜会の喧騒を後にして、私は月の光が差し込む静かなテラスへと逃げ込んだ。
ひんやりとした大理石の手すりに体重を預け、大きく息を吐き出す。
と、その瞬間。
強がっていた心の糸が、ぷつりと切れた。
(なんだったんだろう、私の時間は)
アルフレッドにふさわしい妻になるために、必死で勉強した。
作法も、歴史も、ダンスも、全て彼のためだった。
彼の好きな紅茶の銘柄、好きな焼き菓子の硬さ、好きな会話のテンポ。
全てを覚えて、彼の心地よい空間であることだけを考えて生きてきた。
それら全てが、「地味で退屈」の一言で、塵のように消えてしまった。
虚しくて、馬鹿らしくて、そして何より、そんな男のために自分を殺し続けてきた自分が、悔しかった。
ぽろり、と。
堪えきれなかった一粒の涙が、頬を伝って落ちた。
一度溢れてしまえば、もう止まらない。
しゃがみ込んで、声を殺して泣いていると、不意に、背後から低く静かな声が降ってきた。
「――見事な振る舞いだった、ヴェルナー嬢」
びくりとして顔を上げる。
いつの間にそこにいたのか、月の光を背負って、一人の男性が立っていた。
艶やかな黒髪に、怜悧な美貌。
まるで夜の闇をそのまま切り取ったかのような、漆黒の軍服。
そして、全てを見透かすような、凍てつくほどに冷たいアイスブルーの瞳。
アシュトン・グレイフィールド侯爵。
王国北方の広大な辺境領を治め、その鉄壁の守りから「氷の侯爵」と畏れられる人。
社交界にはほとんど顔を出さず、その素顔を知る者は少ない。
私も、遠目に見かけたことがある程度だ。
そんな雲の上の人が、なぜここに?
なぜ、私の名前を?
混乱する私の前で、彼はゆっくりと片膝をつき、その凍てつくような瞳で、まっすぐに私を見つめた。
「無様に泣き崩れるか、あるいは狂ったように相手を罵るかと思っていたが……予想を裏切られた」
「……お見苦しいところを、お見せいたしました」
なんとか声を絞り出すと、彼はふ、とわずかに口元を緩めた。
氷の侯爵が笑うなんて、天変地異の前触れだろうか。
「いや。あれは、誇り高い者の涙だ。美しいとさえ思った」
差し出されたのは、美しい銀糸の刺繍が施された、上質な黒いハンカチ。
私は戸惑いながらも、それを受け取った。
「あの……」
「貴女が淹れた茶が飲みたい」
「え?」
あまりに唐突な言葉に、私は間の抜けた声を上げる。
婚約破棄をされたばかりの令嬢にかける言葉として、あまりにも脈絡がなさすぎる。
しかし、アシュトン侯爵の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
そのアイスブルーの奥に、何か……切実な色さえ浮かんでいるように感じたのは、きっと気のせいだろう。
「返事は、後日で構わない」
そう言うと、彼は静かに立ち上がり、私に一礼して闇の中へと去っていった。
手元には、彼のものと思われるハンカチだけが残された。
ほのかに香る、冬の森のような、澄み切った香り。
呆然とそれを見つめる。
涙は、いつの間にか止まっていた。
婚約破棄。絶望。
そして、謎めいた侯爵との出会い。
私の人生が、この夜を境に、大きく、そして予想もしない方向へと舵を切ったことを知るのは、もう少しだけ先のことである。
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