第七章 ヘリオンコアと完全保管庫
1
終点はキンガノ山脈と呼ばれる連なりの中ほどにあった。
山脈と位置付けられてはいるが標高はさほどでもない。平地と分類するには些か性状が合わないというだけの、小規模な山地である。
この山脈にはキンガノ石という鉱物資源が豊富に埋蔵されている。蝋石に近い組成を有し、魔力を吸収しやすいという性質がある。
荷物の発破処理場としてキンガノ石の含まれた地質が選定されたことには理由があった。
一行が運ぶ産業廃棄物であるヘリオンコアは、魔力の残滓が臨界まで達して引き起こされるスペル・ダウンによって自壊させる。火薬や重量による衝撃とは異なり、高密度の魔力の拡散による波動は単に硬さを有する壁や覆いでは防ぐことができない。特異な波長によって分子間結合ごと破壊されてしまうためだ。
もう一点、大抵の物質は外部から与えられた魔力を基本的には受け入れない。地形に反射した魔力の衝撃波は爆発規模の見た目以上に遠方まで到達する。都市部の近傍はおろか、無人の荒野ですら自爆させることは憚られた。
意図的にスペル・ダウンを引き起こすのであれば、魔力を吸収しやすい材質で四方を囲まれた地形が望ましい。キンガノ石に富むこの一帯は適した環境と言えた。山中に観測された天然の窪地が軍部に指示された目的地である。
宿酒場セインクリフから出立して三日目の正午、アレックス一行は遂に所定の発破地点へ到達した。
事前に伝えられていた通り、まさにおあつらえ向きの光景が広がっている。
元々、龍か、それに匹敵する生物の根城として切り崩されたのであろう。平坦な大広間がざっと百メートルほどの円形に広がっていて、四方は切り立つ石壁で塞がれている。
一辺に縦に割かれた亀裂があり、一行はその隙間からホールへと入場した。大柄な男が二人並んで通過できるかできないかといった程度の裂け目だ。かつて住んでいた主はこの狭い入口ではなく、蓋のない上空からこの地に降下して寝床としていたのだろう。やはり前の持ち主は大空を飛翔できる龍の類に違いない。
「――……ここが目的地だ。荷物を降ろしてくれ」
「はいはいはい。そんじゃあ運賃の数え上げもここまでね」
チェリッシュのフードから這い出てきたナルが大広間の中央に陣取った。両の手を臍に差し込み、完全保管庫を開放する。奥からは記憶と寸分違わぬ形状のヘリオンコアが姿を現し、ずんと、砂粒を除けながら地に接した。
一行が荷物と完全に相対したのもまた三日ぶりであった。重量物は何食わぬ顔で鎮座している。あとはこの厄介者に施された細工を無効化し、自爆までの猶予時間内にこの場を離れるだけであった。
「追加の費用はこの段階で払えばいいのか」
「そう。想定分の前金を超えていればだけれど……おっと、お客サンは勘定が上手だね。不足も超過もなしでピッタリの運送距離だったよ」
「ちなみにだが、その実際の移動距離ってのはどうやって測っているんだ」
「この仕事を長く続けているとさ、荷物と一緒に揺られている時間でおおよその距離が感覚で分かっちゃうワケ。あぁ、勿論、無駄な寄り道だとか、変な足止め食らったりだとか、そういうイレギュラーにも対応してるから心配ご無用」
「なら、計測に自信が持てない時は少しマケてくれたりもするのか」
「仮にそんなことがあったらだけどね。まっ、今回は強く自信を込めて過不足無しだったって断言していいよ」
キミたちもそんな手応えだったでしょ、と、ナルは一行に尋ね返した。
道中、幾つかの面倒こそあれど、全員が五体満足に足を動かして目的地までたどり着くことができた。旅路は順調だったと総括して差し支えないだろう。
「ナっちゃんとはここでお別れ?」
「ん~、ここが面白味のあるところだったら現地解散でよかったんだけどさ、見渡す限りの殺風景だからねぇ」
「それじゃあ、一緒に町まで帰ろうよ」
「町まで? そうだなぁ、そうしようかな。あの宿酒場の酒臭親父にはできれば顔を合わせたくない気分だけど」
返事を受けたチェリッシュは嬉々としてフードを広げて、ナルの収まる席を再度設けた。
「話はまとまったか。なら、シールを剥がすぞ。理解しているな、猶予は……」
一時間です!と、チェリッシュが大きな声で確認した。
ヘリオンコアは臨界寸前まで魔力を蓄えている。ここにもう幾らか魔力を注ぎ込めばスペル・ダウンを引き起こし、一帯は魔力波によって崩壊するだろう。
円筒にはヘリオンコアとは別にもうひとつ魔石の欠片が納められており、円筒表面に貼り付けられたシールが容器越しに欠片の魔力を抑制している。シールを剥がせば魔力は欠片から本体へと徐々に流入し、やがてはスペル・ダウンを誘発する。臨界に達するまでの猶予は一時間に調整されていた。
この場から直ちに離れなければならない。
だが、過剰に憂慮するほどではなかった。それだけあれば十二分に距離をとることができる。併せて、周囲が天然の壁に囲まれているため衝撃波はほとんどが内部で反射して外界には溢れ出さない。余程の怠慢でもない限り被害圏内から脱することは容易い。
ただ、アレックスが人一倍心配性なだけであったと言える。
少し離れた背後のパーティメンバーを三度確認し、アレックスはシールを剥がした。
……一時間か。それまでに少なくとも麓までは降りたいところだな。
ヘリオンコアに背を向けながらアレックスは高い陽を仰いだ。
一同へ向けて二歩、三歩、四歩目を踏み出した直後、違和感が伝わった。
背に触れる寸前の爪を下から上へと撫でるかのような、悪寒。
首筋が粟立つ感覚。後頭部が戦慄く微震。氷水に触れたが如き緊張。
魔導剣士の本能として魔力検索を走らせた。
ヘリオンコアの魔力が一点へと集中している。
許容量を超え、臨界を迎えた証だ。
ここから先は不可逆的に魔力同士が接近し、際限なく密度を高め続ける。
凝縮の限界の果てに待つは……
「逃げろぉッ、スペル・ダ……――」
強い衝撃にアレックスの身体が包まれた。
2
身を突き崩す衝撃から、どれだけが経っただろうか。
強い圧迫感によりアレックスは徐々に現実へと復帰した。
酷い耳鳴りと眩暈による前後不覚が続く。だが、冷たい地に背を付けていることは分かった。そして、不格好ながらも胸にチェリッシュを抱え込むような形で仰向けに転がっているのだと判断がついた。
二人に覆いかぶさるように一回り以上大きな影が上から包む。タシュイィンだ。逆光に照らされ深い影が落ち、表情は窺えない。微動だにせず、無言を貫く。
やがて、はたはたと、熱い雫がアレックスの掌に落ちてきた。定まらない焦点を無理やり合わせながら視線を向けると、真っ赤な血に染められた左手がはっきりと認識できた。それが己の身体ではなく、タシュイィンの負った怪我からこぼれていることに少しずつ理解が及ぶに合わせて、尋常ならざる命の流出量に青褪めた。
「皆……おい、無事か……なぁ、誰か……クソっ……」
「お返事がないなら、安否確認の一人目が私でも……いいかな」
眼前のフードがもぞもぞと動き出し、聞き慣れた声が名乗りを上げた。
「ナル、あぁ……お前は無事か。どうなったんだ、何が……起きたんだ」
「さぁ、私にもサッパリ。でも、キミも気付いていたんでしょ。後ろで見ていたから雰囲気だけは感じ取れたよ」
「あぁ……スペル・ダウンだ、が、何故……こんな、ことが……」
「この至近距離で魔力波を食らって生きてるのは奇跡的だね。私はキミと魔法使いちゃんと竜人クンの三重防壁に囲まれてたから軽傷だけどサ……」
そうだ、タシュイィンが三人を庇ったのだ。
気を失う前、最後の光景が脳内を駆け巡った。
臨界反応が現実のものであると素直には受け止めることができなかった。
その場で足を止めたアレックスを、チェリッシュたちを抱えたタシュイィンが飛び出して、同様にして胸に押し抱き、その場に屈み込んだのだ。記憶している強い衝撃は組み伏せられたときのものだろう。
次の瞬間の「本命」に関しては何も覚えていなかった。
状況を把握する間もなく意識を手放さざるを得なかったのだ。
「チェリッシュ、起きろ……なぁ、起きてくれ」
「……ぅ……っ……」
「頼む、このままだと潰れちまう……それに、タシュイィンが負傷した。多分、重症だ」
「タシュ、が……? ん、っ……!」
二人に遅れること数分、チェリッシュも目覚めた。
固い岩盤に直接叩きつけられなかっただけアレックスよりは負担が小さく済んだらしく、覚醒してからの復調はどれだけか早い。前後を挟まれた状態から這うようにずれて身体を外へ追いやり、ふらつきながらも地に足を付けて立ち上がった。
そのチェリッシュがまたも倒れた。
足元はおぼつかない。顔色は病的なまでに蒼白し、歯を鳴らすほど口元が歪んでいる。瞼は裂けるのではないかと思わせるほど広げられ、一点を凝視して動かない。目尻に涙が膨れて積もり、やがて彼女の頬に筋を落とした。
チェリッシュが避けたことで動きやすくなったアレックスは、彼女より暫し遅れて立ち上がる。
そこで惨状を目の当たりにして、言葉を失った。
タシュイィンが抉れていた。
刃物で一寸四方切り抜かれたようなものではない。背面そのものがなくなっている。
首筋から尾骶骨にわたる背中がない。皮膚と筋肉が消し飛び、組織液と血に濡れた彼の骨格が外気に剥き出されている。肉は更に奥底まで穿たれ、周囲に支えるものがない背骨の様相はぶらりと宙に架かる橋のそれだ。
一本走る背骨越しに、タシュイィンの内臓がこれ以上ないまでによく見える。何が壊れて、何が残っているのか、医者ではないアレックスにも漠然とながら判別がついた。
同時に、今ここに座る竜人が生者なのか、それとも死者なのか、分からなくさせた。
崩れた身体の奥、背骨の裏手でどくどくと脈動を続ける心臓が窺える。弱りに弱りながらも、微かな拡縮を繰り返している。そこから送り出された血液が全身に行き渡ろうとしているが、身体の中心から外れるにつれて無事な血管は少なくなり、そこかしこから漏水している。こぼれた血がタシュイィンのがらんどうに溜まり、溢れて、背の大穴からぴちゃぴちゃと音を立てて外の岩盤に垂れていた。
まだ、タシュイィンは生きている。
生きているはずだが、それを信じられない己もいた。
誰がどう見てもこれは死体のそれだと思わせる。
死にゆく友を、信じたくない己もいた。
アレックスは喉から声を絞り出すように、叫んだ。
「回復魔法だ、チェリッシュ! 早く!!」
「やってます! ししょぉ!!」
涙と汗でぐしゃぐしゃの顔でチェリッシュが返す。
優れた練度による回復魔法も、命の流出速度に追いつけるかは分からなかった。自己治癒を加速させて肉を生やし、血管を繋ぎ、それが間に合うのか。タシュイィンの怪我はあまりに甚大で、深い。
体重が半分になるほど肉体を削ぎ落されてなお脈があるというだけで奇跡と呼べた。
紙紐一本で大岩を吊り下げているかのような、風前の灯火。
何かのきっかけがあろうとも、なかろうとも、終わりの刻は目前に迫る。
はたして回復魔法で蘇生できるのか。
いや、タシュイィンの苦痛を長引かせるだけの延命にしかならないのか。
分からないが、すがる他にないのも事実だった。
地響きがした。
現状、傍観しかできない立場のアレックスがまず異変を感じ取った。
泣きながら一心不乱に回復魔法を詠唱し続けるチェリッシュと、彼女の傍で宙に浮くナルは気付いていないらしい。
魔力波による眩暈が未だに続いているのかと考えたが、違う。
大地が揺れている。震源は間近だ。
アレックスが振り返る先にはスペル・ダウンの爆心地があった。ヘリオンコアは跡形もなく消滅し、岩盤には同心円状にひび割れが走る。一枚岩のようにも見えるが、ほとんど隙間なく敷き詰められた、大量の大小瓦礫のようだ。
地鳴りに合わせて大地の破片ががたがたと擦れ、音を立てる。
やがて、ごとりと、一片が地表に乗り上がった。
瓦礫はごろごろと転がりながら爆心地の一点へと吸い寄せられ、そこでぴたりと動きを止めた。
大地のひび割れパズルが一欠片抜けたことで、全ての瓦礫の前後左右に余裕が生まれた。岩を砕かれたそれぞれがごとりごとりと蠢き、同様にして地表に乗り上げたものから順次爆心地へと集合する。
その内に岩盤の欠片のみならず、四方の岩壁からもスペル・ダウンによって脆くなった部分から逐次岩の塊が剥がれ落ち、やはり同じ一所を目掛けて転がってゆく。
単なる吸引ではない。
もし、そうであればアレックス一行も吸い込まれなければ道理に合わない。
魔力を帯びた特定の物質同士が引き寄せあっている。
物質に魔力が宿り、互いに引き合い、ひとつの個体のように振舞う。
これは、……
「ナル……追加プランだ、頼めるか」
「んっ? ……あぁ~~~っ、ちゃ~~~っ……コレはまぁ……どうしてご立派な、」
岩の巨塊じゃあないの、と、ナルが総括した。
その巨塊は常軌を逸する規模であった。
コノテラの森で出逢った水の巨塊などとは比にならない。
否、これまでに報告が上がり記録として残されてきたどの例とも並ばない。
キンガノ石を含有する岩盤や岩壁の瓦礫同士が引き寄せ合い、おおまかな人型に構築された「岩の巨塊」は、十メートルを優に越す身の丈を有し、今なお新たに瓦礫を吸い集めることに腐心している。身体中からがたごとと音を立てつつ大きくなり、腕や脚をより長く、より太いものに鍛え上げている。
自然発生する巨塊の様相ではなかった。
それは当然ながら、岩の巨塊の発生がヘリオンコアの自壊に伴うスペル・ダウン由来であるからだ。莫大な魔力の放出があり、砕けた同一素材が多数生み出される環境があった。キンガノ石を含む天然の壁が魔力波を反射し、魔力が長期間滞留して素材へと定着し易い状況下にあった。巨塊の発生には十分すぎる条件が揃っていた。
そして目の前の脅威が産声を上げた。
岩の巨塊は成長を続けている。一帯の瓦礫を全て身に纏ったとき、どれほどまでに巨大で、どれほどまでに猛威を振るいながら活動できるのか、誰にも知りようがない。
「二人を安全なところまで運んでくれ」
「荷物じゃあなくて人を運ぶときは安くない割増料金になるよ。命を預かるからね」
一理あるな、と、この状況下ながらナルの商魂に感心が勝った。
「それで構わない。チェリッシュ、聞いたか。タシュイィンと一緒にナルの胎内に入れ」
「でもっ、それじゃあ……」
「ここじゃあ話にならない。完全保管庫内は時間が進まない、だったよな。治療は安全な場所を確保して、外に出てからやれ」
「ししょぉはどうするんです?」
「俺か。俺は、」
コイツの足止めだ、と、アレックスは続けた。
腰の鞘から触媒剣を抜刀し、握り込む。
掌が熱い。こんな日をずっと待っていた。
「ムチャですっ! ししょぉも、全員で退きましょう!!」
「無理は承知だ。だが、これは承知の上でやらなきゃあいけない」
「なんでですっ?!」
「巨塊は魔力を帯びた生命体を取り込もうとする。本能で。水の巨塊のときに経験しただろう。俺達が一塊になったらコイツの狙いも一点に絞られる。ナルが潰されたら、それで全滅だ」
もうひとつ、と、アレックスは憂慮を明かした。
「ここから離れるとして、どこへ逃げる。コノテラの森か、ヴァルハ平原か、それとも宿酒場があった町か。これほどまでの規模の巨塊だとどれほど長く活動できるか想像もつかないが……町まで引き返す俺達を追ってきたコイツがそれでもまだ活動できるようだったなら、住民はどうなる」
「それ、は……」
「コイツはここで消耗させなければならない。少なくとも、町まで降れないくらいまで削らなければならない」
「『少なくとも』なんて言わないでくださいっ」
「……分かった。コイツをここで倒さなければならない、何が何でも」
残るのは俺一人でいい、と、アレックスが告げた。
タシュイィンを治せるのは優れた技量の回復魔法を行使できる魔導士だけだ。
知り得る限り、チェリッシュよりも卓越した回復専属魔導士を、アレックスはこれまで見たことがない。
「タシュイィンを……先生を頼んだ、チェリッシュ」
「だったら……せめて、これをっ」
チェリッシュの詠唱により魔間欠泉が発動する。
大地が薄く輝き、青白い魔力の奔流がアレックスの足元を包むように広がった。
「五分だけ……眠るから、ナっちゃん……安全なところを見つけたら、タシュより先に出して……起こして、ね……」
魔間欠泉詠唱の反動により、チェリッシュの頭がぐらぐらと傾ぐ。
ナルがいそいそと飛び回り、まずはタシュイィンを完全保管庫に納めた。これで、少なくとも今すぐに事切れることはない。毒鶏蛇の息からナルを庇った、彼女のかつての相棒がそうであるように。
次いで、チェリッシュが倒れ込む。ナルが下敷きになるかのように潜り込むと、開け放しの完全保管庫にずるずるとチェリッシュが吸い込まれてゆく。
全身が格納される寸前、「皆で、帰ろう、ね……――」と、呟きが残された。
「さて、どうする? 今なら大サービスで三人目の運賃をタダにしてあげるけど」
「なんだ。らしくないんじゃあないか。自発的に値切るだなんて」
「出立前の料金表、ちゃんと読んだ? さっきも言ったけど、ウチは生き物を運ぶときはかなりお高い額をとらせてもらってる」
「あぁ、念のため頭に入れているよ。たしか、非生物貨物の運賃の五百パーセント増しだったか」
「そ。払えそう?」
「知ってるだろ、俺たちは龍殺しの勇者サマ御一行らしくてね。我が家は食費が凄くて蓄えはあまりないが、それでも全く無いワケでもない」
アレックスは懐から小さな鍵を取り出した。ルナキアの宿舎で三人一所で暮らす部屋の鍵だ。それをナルへと投げて渡す。
「俺が戻らなかったら二人を連れて帰って、それで入れ。部屋中の硬貨を掻き集めれば、払えるくらいはあるはずだ」
「ふぅ~ん。そう」
「これで取りっぱぐれはないだろ。だから俺を連れて行く必要はない。それともわざわざ取り立てに行くのは手間だからイヤか」
「まさか。お金を回収できるなら西へ東へ大移動なんて苦に入らないよ。移動途中でまた新しい顧客が見つかるかもだからね。そうじゃあなくてさ」
「まだ、何か」
「貯蓄の切り崩しが第一選択肢なんだ、ってね。どうあれ発破処理はしたんだから軍から貰える報酬で払えるだろうに」
「…………」
「つまり、キミもそう思ってるワケだ。心のどこかで。じゃあさ、別にいいんじゃあない?」
これ以上頑張らなくてもさ、と、ナルが諭した。
おそらく、アレックスの考えとナルのそれは、同じだ。
だからこそ提案しているのだろう。
それがもっとも妥当で、合理的で、当然の選択だと。
「ダメだ。ここに残る」
「どうして」
「言ったろ。このデカブツが町まで降りたら一大事だ。人里まで引き連れてしまってからどうこうなるくらいなら、初めからここで相手する方が余程気がラクだ」
「どうしても」
「どうしてもだ」
「あぁ。やっぱりキミは、」
アイツとよく似てる、と、ナルが呟き、その場を離れた。
3
「――……さぁて、しかし、どうしたものかな……」
岩の巨塊と一対一で面を合わせ、アレックスは無謀とも向き合うこととなった。
怪物は刻一刻とその全体像を重厚なものへと成している。成長に集中しているためか、その場から寸とも動かずにいるが、だからといって次の瞬きをするまで活動を始めないとも限らない。がらがらと転がり、ぶつかり、擦れ合う岩石の音が絶えず響いている。
アレックスがその場に屈んだ。チェリッシュが残した魔間欠泉の真上に片膝を付く。地脈から汲み上げられた魔力を膝越しに身体へ、溜められる限度まで補充する。
……掴まれたらまず命はないものと考えた方がいい。
……耐えられるかも分からない強盾魔法で足を遅くするくらいなら。
……一撃も喰らわないように立ち回るほうが正解だ。
強速魔法が詠唱された。
神経系が昂り、身の周りの全てが一段と遅くなったように感じられる。風向きの微かな移ろいも、漂い舞う塵埃の濃度変化も、まるで目に映るかの如く鮮明に判断できる。
そして、この強化は痛覚をも鋭敏に発揮させる。
一度でも傷をつけられたならば起き上がることは叶わないだろう。
被弾は死を意味している。
……ぶつかればどのみちタダでは済まないさ。
……なら、避けるに徹した方がずっと良い。
問題は突破口である。
如何にして、この巨大な岩人形を沈黙させるか。
巨塊の姿を保てなくなるまで身体の端から少しずつ削り取るか。
触媒剣の刃渡りで事を成すには気が遠くなりそうな作業だ。
それともただひたすらに周辺を逃げ回り魔力切れを待つか。
相手の底が分からない現状、先の見えない方法は選び難い。
思考を断ち切る音がした。
これまでとは異質な、振動混じりの重厚な響き。
眼前の山が背を起こしている。ゆっくりと、されど着実に。
十分すぎる嵩の岩石を結集させ、今まさに、岩の巨塊が立ち上がる。その頭頂部が陽を遮り、長い影が決闘場の地を覆う。
完全に起き上がると、天を突く人型は一旦静止した。
小さな破片が節々からがらがらと滑り落ちる。
その中でも一際大きなものが外れ、がたりと、地に転がると、
猛然と剛腕が振り抜かれた。
巨塊の左腕が地表を削りながら転がり寄る。
巨体から繰り出されたとは思えぬ速度で大質量が迫る。
キンガノ石が集まり育った一本は、腕というよりも、もはや壁だ。
アレックスにはこの動きが読めていた。
強速魔法により磨かれた感覚と観察眼が、巨塊の次の一手を、耳元で囁くように明らかにする。
魔間欠泉の噴出孔から数歩退がる。
暴力の指先が鼻先を掠めるも、何物にもぶつかることなく空を切る。巨塊の腕は本体へ巻きつくかのようにしなり、接触箇所同士で身を打ち欠き合いながら、そこでようやく勢いを殺した。
反撃の好機ではあるが、まだ足りない。
闇雲に手を出しても有効打には成り得ない。
最小限の動きで、的確に、弱点を突く。
そうでなければとてもではないが生き残れない。
……生き残れない、か。何を今更……
己の内にまだ生への執着が垣間見えたことで、アレックスはこの状況下ながらひとつ、自虐を含む笑みを浮かべた。
岩の巨塊が再び腕を振るう。今度は内から外へと、先とは真逆の動作。
アレックスは一転、巨塊へと踏み込むに合わせて跳躍した。
目測で導き出した、足先が捉われない境目の高度を保ち、直下を剛腕が通り過ぎ去る間際、身を翻す。
灰燼ノ焔を纏わせた触媒剣が一閃、巨塊の左手首に走る。
物理的な損傷は全く与えられなかったことだろう。
だが、魔力を糧にする炎が着火した。魔力を原動力とする巨塊にとって、この消えない炎は相当堪えることだろう。時間はかかれど灰燼ノ焔は着実に巨塊のリソースを奪い、やがては形を維持できなくなるまで喰らい尽くすはずだ。
しかし、そのまま全身に引火して燃え上がってはくれないかという、アレックスの淡い期待については否定された。
巨塊の左手首には赤々とした炎が滾り、目論見通りその身の魔力を燃料として盛っている。が、その影響は局所的なものに留まっており、腕へ肩へ胸へ、そして全身へと拡散する様子ではない。爆熱は一際激しく輝いた直後、掌を切断してどさりと落下させ、そこで鎮火した。
……やはり核が分散している、か。
巨塊は魔力を帯びることで生成された核に向けて、同一材質の物体が引き寄せられる事で発生する。
この、さながら磁力のような性質こそ、一定以上の大きさの巨塊が発生しない理由でもある。核から物理的に離れるほど引き寄せる力も弱化する。景気良く素材が集結し続けて、末端が離れれば離れるほど、集める力は失われてゆく。
故に、大規模な巨塊が発生することは「基本的には」ない。それほどまでに強大な吸引力を有する核が自然発生し得ないためだ。
だが、この岩の巨塊に関しては自然発生した核ではなく、ヘリオンコアとそこから導かれたスペル・ダウンという膨大な魔力の介入がある。その尋常ならざる魔力を元に強大な核がひとつ生成され、埋まっているのではないかという推測ではあったが、どうやらそうではなさそうである。左手首の核らしき部分を燃やし尽くしたにもかかわらず、岩の巨塊は相変わらず二足で立ち上がっていることから、これは明白である。
つまり、素材を引き付ける核が複数存在していて、その核同士が更に引き合い、全体として規格外の一個体が在ると考えるべきであった。
……関節毎に核があるくらいに見た方がいいか。
引き寄せられた素材が核の魔力を伝搬し、さながら準・核のように振る舞うことで吸引力はある程度の範囲を作り出す。
しかし、キンガノ石は魔力を反射する性質がある。そもそも巨塊を成立させるには不向きであると言えた。そのような性状を有してなお巨大な体躯を構築するという事は、核が数多く存在して、各部位を分散担当しているのであろう。ある程度大きな関節単位で核が埋まっていると考えた方が都合がつく。
魔力を推し量ることに長けたアレックスが不確定な推察でしか核の数や位置を読み取れなかったことにも、前述したキンガノ石の性質が関与していた。岩の巨塊へ向けて魔力検索を走らせても、核を覆う無数のキンガノ石が受け流すように阻む。さながらジャミングが施されているかのようだ。
……考えれば考えるほど、どれもこれも、そうとしか思えないな。
それは今、考えることではなかった。
ないはずだが、集中を途切れさせるかのように、脳内を散らかしてならない。
そうであったとして、だからどうなるというのか。
目の前の脅威が大小するわけでもなく、やることが変わるわけでもない。
生死の狭間にいるんだ。意識を逸らすな。
……またか、また生きることを……
生きたくないわけではなかった。
死にたいわけでもなかった。
ただ、既に死体なのだという、それだけであった。
あの日、アレックスは死んだ。
赤熱龍と対峙して炎の息を突きつけられ、地に目を伏したあの時、魂が死んだのだ。
策に全てを賭けて身を粉にしたチェリッシュの献身からも、窮地にてなおも仲間を逃そうとするタシュイィンの捨身からも目を逸らし、独り諦めを受け入れようとしていた。
あの瞬間が日を、月を、年を経ても薄れることなく、色濃く折り重なり心を塗り潰す。
この創は決して癒えない。
治ることを自らが拒んでいる。
己を赦すことができずにいる。
二人に赦されるきっかけを探し続けている。
左手を切断されて狼狽えたらしい岩の巨塊が身を捩る。
短くなった腕を三度振り回すも、極限まで洞察力を高めたアレックスには及ばない。
速やかに安全地帯を見出し、やはり最小限の動きで身体を退ける。
核が幾つあろうと関係ない。端から順に燃やして落とし続けるだけだ。
まずは驚異である握撃を排除するために、右の手首を最優先で切り離してやる。
再び左腕が迫る。これも回避した。
……早く右腕で攻撃してこい。
……いや、何故……左腕しか使わない。
……そもそも……奴はさっき……焦ったのか?
巨塊には感情などない。魔力が偶然にも一種の回路を成し、生物のように動いているというだけの存在だ。至極単純な動作以外は備わっていない。感情など最たるものだ。
だが、この岩の巨塊は……左手を切断された折……狼狽したような態度を見せた。
主観でそう窺えたというだけかもしれない。勘違いかもしれない。
しかしながら、岩の巨塊は今、左の腕のみを武器として振り回している。
残された右手を庇っているのだとしたら。
仮にその場合、何故、右手を温存しなければならないのか。
なにかしらの策があるのだとしたら。
アレックスは己の立ち位置に気が至った。
巨塊の左腕を受け流しつつ遠ざかるように避けるため、方向は無意識に左後方を選択して
いた……いや、させられていた。
誘導されている。
巨塊の次なる選択は左腕で薙ぎ払うことではなかった。
これまで飾りのように生えていただけの脚が動き出す。片側が持ち上がり、すぐさま振り下ろされる。足元に強い衝撃を与える目的が一目瞭然だ。
大質量の衝突により岩盤には新たな亀裂が走る。しかし、ただ割れるだけではない。まるでそうなることが必然かのように、通常考えられるよりも遥かに速く、広範囲にひび割れが侵食する。その広がりはアレックスの予想を上回り、彼の現在位置まで瞬く間に呑み込んでゆく。
……スペル・ダウンで脆弱化した地面に……意図的に衝撃を……
巨塊の意図が理解できた頃には手遅れであった。
足場が安定を欠き、姿勢が崩れる。
ほんの僅かな隙。されど致命的な一瞬。
ここにきて巨塊の右腕が襲う。左へ、左へと立ち位置を寄せられていたところに迫る逆側からの猛追。アレックスが今か今かと待ち構えていたはずの一撃は最悪のタイミングで実行された。
「――……ごッ、がァっ……!!」
組まれた岩の壁がアレックスを掴み、宙へと攫った。
鉄道列車にはねられたかのような……あるいは、倒壊する家屋の残骸に押し流されるような……形容し難い濁流に呑まれる。抵抗しようとも思わせない絶大な威力。強速魔法により鋭敏に研ぎ澄まされた痛覚の上から与えられた破壊の力は人族ひとりを無力化するに十分過ぎる。
一方で別の考えもできる。生身の上に更にデバフを抱え込んだ状態でありながらも、アレックスはまだ生きていた。それは岩の巨塊が掌を払うのではなく、握るように掴み上げたからによる。
単純な殴打であればとてもではないがアレックスは耐えられなかったことだろう。叩き潰された蠅のように赤い染みが広がっていたはずだ。
しかし、岩の巨塊は敵を手中に収める方法を選択した。万が一……例えば、強盾魔法やそれ以外の何かしらの防衛手段が用意されていて、殴打では仕留めきれなかった場合、勢いに吹き飛ばされた獲物を見失うかもしれない。掴み、握り込み、潰して、圧殺する。
確実に殺すという意思が透けて見えた。
無機物の集合体でしかないはずの、巨塊から。
……間違いない、これは……こいつは……
……人為的な介入が、ある……
アレックスの抱えていた疑惑は確信へと成った。
巨塊は魔力を帯びた物質から生まれる。換言すれば、外部から魔力を供給して人為的に生み出すこともできる。
生成リソースは言わずもがな、ヘリオンコアだ。スペル・ダウンにより放出される莫大な魔力。そして、仮の話だが、放出される魔力にある程度の指向性を持たせるとして、物質内に刻まれる魔力の回路もまた意図した形状で描くことができる。ただの岩の寄せ集めではなく、より複雑な思考と判断ができる殺人機械を作ることができる。それは文字通りの神業だが、原理としては不可能ではない。
そうまでして怪物を生み出す必要性とは何か。
間違いなく、アレックス一行を始末するために他ならない。
軍部は遂に直接的な手段を以て、厄介払いを敢行したのだ。
表向きはヘリオンコアの発破処理失敗による事故として。
実体は事故ではなく、早発を用いた暗殺として。
巨塊の遠隔生成は保険だ。この離れ業ができる者が軍部に協力しているか、あるいは協力を申し込まれたのかは定かではないが、もはやどちらでも構わない。
パトロンの不満を解消するための生贄。
発破処理計画の始まりから全てが、周到に用意されていた、死の旅路だ。
骨が軋む音がした。
体内で反響する嫌な音を強速魔法で増幅された感度が拾う。
折れているわけではない。これから折れるのだ。巨塊の握力で潰され、粉になる。
抗う気力すら起こさせない捕縛に対し、選択は少ない。
ひとつは、強盾魔法を施してひたすらに耐えること。
だが、期待はできない。身体強化にも限度があり、アレックスの虚弱な肉体を補強したとして、はたしてどれほど持ち堪えるだろうか。否、そもそも孤軍奮闘の今、救援などない。守りに徹したとて先はない。生来の魔力と、魔間欠泉からの蓄えを使い果たした直後、跡形もなく磨り潰されるという結果は変わらない。
ならばと、最期の足掻きを選んだ。
岩石の指で絞められると同時に、灰燼ノ焔の詠唱が成立する。
触媒剣の孔から噴いた炎が巨塊の指先を掠めると、帯びた魔力を伝うように火が遡上し、右手首の核まで到達する。逆側の手首がそうなったように、同じく、核のひとつに引火した炎は勢力を増し、激しく燃え上がった。
次いで、身体が小さくなる感覚があった。捕らわれた両腕がこれ以上寄せられない位置から更に内側へとめり込む。一旦そうなってからは、早い。抵抗力が急激に消失し、筋肉が潰れ始める。骨が軋む耳障りな不快音は、砕ける明瞭なものへと変わり、アレックスの全身に響き渡った。
直後の、解放。
持ち得る全ての魔力を込めた灰燼ノ焔の火の手が、巨塊の右手首を燃やし尽くした。
核を失い、先端が切り離される。力の供給が断たれ、握力はこれ以上増大しなくなる。
岩の掌は大地に激突するとばらばらの石片へ戻る。拘束から解かれたアレックスは転がるように投げ出され、全身と、頭部を固い岩盤に強く打ち付けた。
戦力を削る目的は果たしたが、手遅れでもあった。
岩の巨塊が両手を失ったように、アレックスの両腕も原形を留めていない。家畜に踏み荒らされた藁屑かのように、真っ直ぐなところが見つからない。少し前までは内側から肉と骨で支えられていたとは到底思えぬ赤いぼろ切れが二本、肩から辛うじてぶら下がっているだけであった。
神経が壊されたのか、両腕全ての指一本たりとも動かせない。右手に握っていた触媒剣が自然と弛緩する指先から溢れて転がってゆく。
否、壊されたのは腕だけではないことは誰もが認めるところだ。
増幅された激痛が体内で暴れ回り、正気では居られない。
一刻も早く意識を手放してしまいたい。
ラクになりたい。
だが、そうはならなかった。
そうさせなかったのは、同じ過ちをかつて犯していて、その苦しみを知っているからだ。
胸に詰まる苦痛が永劫晴れないものになることを知っているからだ。
故に、アレックスは目を伏せなかった。
まだ生きていると強調し、立ち直った巨塊がこのまま立ち去らないようにする。
とどめをさすまでの数十秒を費やさせる。
目を伏せなかったからこそ、アレックスは気付くことができた。
思いもよらない第三者が頭上から見下ろしていることに。
「おわぁ〜〜〜っ、ドえらい重症だね」
「……お、前……なん、で……」
「キミさ、自分の腕の有様分かってる? ひぃ〜〜〜っ……何かしらの筋一本だけで繋が
ってるって感じなんだけど」
「なんで……ここに、いる……」
「ん〜〜〜……もともと、あのまま町まで降るつもりだったんだけどね。大事な大事なお客を二名サマ運搬中だしさ、安全第一ってことで」
でもさ、と、今なおこの場に離れずにいた理由をナルが続けた。
「クライアントの要望は可能な限り叶えるのが我が社のモットーなんだよね」
「な、ら……さっさと……」
「分かってるよ、わかってる。二人を連れて逃げろってんでしょ。だけど、それだともうひとつのお願いを果たせそうにない状況だったからさ。ギリギリまで様子見してたワケ」
「……なんの……こと、を……」
「魔法使いちゃんが言ってたじゃん、『皆で帰ろうね』ってさ」
それを実現しなきゃいけない気がするんだよな〜、と、ナルが語る。
「つきましては、お客サマ御一行に提案がありまして」
「……な、んだ……」
「モスボール・エクスプレスでは旅の道中をより快適なものにするために、追加オプションの適宜御利用を推奨しております」
「……それ……は……」
「通常利用ではオプションの適用により戦闘補佐まで介入致しますが、お客様に生命の危機やその他重大な問題が差し迫る場合に限り、特例として直接戦闘代行を承っております」
「……な ……、が……」
「おっ、マズいな。意識がトびそうだね……手短に、要点だけ伝えるよ。普通はやんないんだけどさ、特別サービスで私が代わりに戦ってあげるよってこと」
「……、 ……」
「これでもお仕事だからオプション料金はしっかり頂くけどね。さっ、どうする?」
頭部の強打と失血により気を失う間際、使わせてもらう……と、アレックスが呟いた。
「まいどあり〜。そんじゃあ、とりあえず……うぉっ、とぉ!」
気絶したアレックスを完全保管庫に格納した直後、巨大な脚が作る影がその場に落とされた。巨塊が態勢を持ち直して追撃を狙っている。ナルが速やかに飛び上がってストンプの範囲から離れ、踏み潰される心配のない位置まで高度を上げた。
目線の高さを合わされた巨塊は、脚ではなく腕で撃墜しようと試みる。
岩の鞭がしなり、空を切る。
「わァ、そのおててカワイイね! 球体関節人形みたいでさ」
再び剛腕が振るわれる。大質量で気流が乱れ、ナルの全身がふらふらと宙を舞う。
だが、飛ぶことが生活の一環であるナルにとって、風の流れを読むことはともすれば息を吸って吐くよりも慣れたことだ。
巨塊の腕が迫る風圧は、腕の周りから押し出されて離れる流れでもある。あえて逆らわずに身を任せると、かえって攻撃は当たらなかった。それは、落ちてくる葉や綿毛を掴もうとしてもするりと逃げてしまう光景そのものだ。
「……町に降りようとしたのはホントのことだけどね。だって、巨塊っておっかないしさ」
岩の巨塊による何度目かの振り下ろし。
だが、ナルには当たらない。
特別なことはせずとも、風切りが勝手に身体を退けてくれる。
「デカいからってんじゃあないよ。勿論、人族から見た大きさの更に十数倍はデカく見えるってはあるけど、そうじゃあなくて」
巨塊が腕を振り回すことをやめた。
やりたいことが出来ずにほぞを噛むような表情が窺える。
鬱陶しい羽虫を潰すための、次の手を考えている。
「結局のところさ、掴まれるのがマズいんだよね。囲まれて全方位から寄ってこられたら避けようがないし。だから、小さくったって、例えば不定形な水の塊みたいなのは怖いかな。逆に、ごりごりの固体の集合体なんかは案外そうでもなかったり」
巨塊の行動が変化した。
腕を振り回していては埒が開かない。
より正確で、より効果的な一手を求めている。
その答えを導き出したらしい。
「魔力を糧に燃える炎を使えるって聞いて、もしかしたらできるかもなぁとは思ってたけど、まさかホントに両手首を切断できるなんて驚いたよ。おかげで、唯一警戒しなきゃいけなかった掴みが封じられたしさ。表に出て戦闘代行を受けてあげてもいいかなって気になったよ」
巨塊の半身が仰け反る。
右腕を引き、後方へと大きく振りかぶる。
上下左右ではなく、前後の軌跡。
「私みたいな小さくて軽い浮遊物に面を振るっても当たらないよ。できるだけ余計な風や流れを作らないように攻めないと。で、その可愛くなった腕で点攻撃をするにはたったひとつの手段しかない」
引き絞られた腕先が跳ね飛ぶ。
先窄みに切断された最小限の面積を押し出す、猛烈な打突。
「独り言が多すぎるって? ヤだなぁ、わざわざ教えてあげてるんだよ、巨塊クン」
……自分の敗因くらいは最後に聞いておきたいでしょ?
鋭い突きに合わせて、ナルが臍をこじ開け、完全保管庫を露出した。
開かれた漆黒の闇に、巨塊の腕先が激突する、その間際。
剛腕がナルに触れることは決してない。
開口部に近付く端から巨塊の右腕は溶けるように吸い込まれてゆく。
全力を込めた渾身の一撃は止められない。あるものだと信じ込んでいた階段の一歩を踏み外すように、壁があると思い込んで手をつこうと寄りかかったときのように、異変を察知できたとしても、動きを御することなどできはしない。
巨塊がナルが内包する虚空へと喰われる。
右腕を飲み込んでも終わらない。
腕から肩を、胴を、頭を、脚を。
暗闇の崖下に飛び込むように、抵抗なく、初速を維持したまま、どこまでも落ちてゆく。
時間にして数秒後。
キンガノ石の決闘場にはただ一人、ナルだけが浮かんでいた。
都市ひとつ崩壊させかねない大爆発があったことも、史上最大規模の巨塊が居たことも、全てが白昼夢だったのではないかと思わせる静寂。陽は僅かに傾いたか。それでも、頭上から注ぐ日光は眩しく、穏やかであることに変わりない。
「さっ、帰るかぁ。あの酒臭親父の宿酒場にでも。一度おちょくった手前、気乗りしないけどサ……――」




