表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

拝啓 旦那様、私の妹と妻の座を交代してあげるので感謝してくださいね

作者: 葵一樹

あらすじ、ルイ―サ→ルイーサ【1 黒装束の淑女は正しく脱走したい】


 ラスコーン侯爵領にある当主の屋敷は、その有り余るほどの財力を誇示するように広い農園を見渡せる高台にたつ白亜の宮殿であった。

 豪奢で繊細な彫刻がほどこされた壁面は朝日を浴びると神々しく輝きまるで神殿のようだとされながらも、侯爵自身の人柄から寒々しい氷の城だと揶揄されることもあるらしい。

 十九になるや否や申し込まれた婚約を経て半年前に輿入れして以来、いわゆる白い結婚をしている私にはピッタリの城だと思う。

 強引な政略結婚をさせられたが夫と顔を合せることも稀だし、生活自体は気楽で住み心地も悪くない。

 けれど、私ことルイーサ・バレリア・セレナは心に決めている。

 セレナ伯爵家の双子姫の姉であり、ラスコーン侯爵夫人である私は、今夜こそこの屋敷から脱走するのだ。


「……今夜こそ」


 目を閉じれば瞼の裏に双子の妹の顔が浮かぶ。あの子が恋をしているのであれば、全力で応援してあげたい。

 背に流れた黒髪を一束ねにした私は窓下に寄せた椅子に上った。

 音がせぬように明かり取りの窓を開けると、冷たい夜風が流れ込む。新月に近い今宵の空は暗く、城の白壁もおそらくどんよりと灰色がかっているだろう。

 逃げるには好都合だ。

 私は椅子の上に一通の手紙を置き、割いて長く結んだシーツを窓の外に垂らした。反対側は重たいベッドの足に括り付けてある。体にシーツをひと巻きし何度か引っ張って緩む気配がないことを確かめ、私は窓枠に足をかけた。


「多少緩くても、三階くらいからなら大丈夫でしょ」


 そのために動きやすさ重視の男装をしているのだ。

 何処に引っかかるとも知れないいつものスカートとパニエを脱ぎひざ下丈のキュロットに長いブーツを履いているし、上着だって袖や襟の装飾もない男性物の黒コートを着ている。窮屈なコルセットがない今なら、息も大きく吸えるし体を曲げても痛くない。

 胸ポケットには厩番のヒルへ渡す口止め料もしっかり入れた。

 よし。

 私は窓から身を乗り出した。外の壁の突起へ足をかけ、ゆっくりとシーツへ体重をかけて壁を伝い降りる。

 雲がかかっているのか外は闇夜と言ってよく、地面までの距離感がつかめない。何度か壁から足が離れそうになるが堪え、慎重に体に巻いたシーツを滑らせる。

 やっとの思いで地面に足が付いた私は、ほうっと細く息を吐くとすぐに木陰に身を隠した。

 いくら辺りが暗いとはいえ、開けた場所に長くいては見つかってしまうかもしれない。

 数回深呼吸をし息を整えると、私は木の影を伝いながら裏門近くにあるはずの厩を目指した。そこには伯爵家から連れてきた愛馬プリシラがいるはずだ。

 プリシラはセレナ伯爵家きっての駿馬である。嫁入りの際に持参金の一部として連れてきてからも、ずっと私の心を癒してくれた親友だった。

 城を出たらちょっと強行軍になると考え無理をさせたくなくて今までプリシラで逃げようとはしなかったけれど、やっぱり一番信頼できるのは彼女の脚だ。これまで厩を経由したことがないから、こちらへの警戒は薄いだろう。

 脱走が成功したらその足で母から相続した領地へ行こう。ほとんど手つかずの小さな屋敷もあるし、自分で狩りをしたり畑を耕したりしてひっそりと暮らす分には問題ない。

 逸る心を抑えつつ木の影を縫うように裏庭を進むと、雲が切れたのか辺りがほんのりと明るくなった。細いとはいえ月明かりがあると随分と違うものだな、なんて思いながら視線を上げると木々の向こうに厩の屋根がぼんやりと見える。

 この木を避ければ厩だ、と私が一歩足を踏み出したときだった。

 ざっという音とともに私の足首に何かが絡みついた感触がした。悲鳴を上げなかったのは奇跡に近い。

 しかし蛇かなにかかと思った次の瞬間、ものすごい力で足を引かれた私の視界はぐるりと回転したのだ。


 ――罠か。


 そう思ったけれどもう遅い。縄に片足を取られた私は既に逆さに吊り上げられてしまっている。

 しまったと歯噛みしながらなんとか足に絡みついた縄をほどこうともがくが、宙吊りにされていては満足に身動きすら取れない。くそう、と侯爵夫人という身分にはそぐわない言葉が口から洩れる。

 できるだけ身軽にと思って準備した軽装が仇になった。縄を切るような刃物もなく、動けば動くほど足首がきつく締めあげられていく。

 そして人間、逆さに吊られていると頭に血が上っていくものだ。コルセットもしていないのに息が上がり耳鳴りまでしてくるではないか。

 このままではまずい。なんとかしなければともがけばもがくほどに苦しくなる。

 思考能力が低下し、痛みに我慢しきれなくなったころだった。


「……やはりこちらにも仕掛けて置いて正解だったか」


 ざりざりとした耳鳴りの隙間を縫うように、静かな男の声が聞こえた。

 ぎりっと歯噛みをして不自由な態勢ながら首だけ振り返れば、そこには夜着の上にマントを羽織った銀髪の男が立っているではないか。そしてその隣には黒髪の男が一人、目を丸くして腰に下げた剣に手をやっている。


「奥様!」


 そう言うと黒髪の男は剣を抜き私を吊るしていた縄を一閃した。待ってと声をかける間もない。あ、と彼が間抜けな声を出すのと、私が地面に落ちるのはほぼ同時であった。


「っつぅ……!」

「お、奥様! 失礼いたしました! ご無事で!?」

「助けてくれたのはありがたいけど状況見て剣抜きなさいよ」

「し、失礼を……! お怪我があれば医師を呼びます!」

「ちょっとぶつけただけだからいいけれど、でも何なのよこの原始的な罠! こんなのに引っかかったなんて、恥ずかしくて誰にも言えないじゃない」

「いや、私どもも初手でこんなにあっさり引っかかってくださるとは夢にも思わず……他にもいくつか仕掛けてあったんですが、これは保険のようなもので一番、無いなと思った罠にかかっておられたので私も驚いてしまって」


 猪突猛進気味な従僕の青年は私の脚に絡まった縄をほどくと、その場に這いつくばった。悪気があったわけではないのだろうけれど、もう少しお手柔らかに願いたい。

 しかしこの二人が現れたことは今夜の脱走も失敗に終わったということだ。通算五回目。いつもは選ばない経路だったというのに罠を仕掛けられ、あっさりつかまってしまって悔しいことこの上ない。

 私がぶつぶつ言いながら首や肩を回して痛みが無いことを確認していると、下草を無造作に踏みつけながら近寄ってくるマントの裾が目に入った。

 赤地のベルベッドに金糸の刺繍が施されたそれはわずかな月明かりさえ反射し、暗がりで見てもいかにも高価な一品だと分かる。つまり、それを羽織った人物こそこのラスコーン侯爵家の主という訳だ。

 ――ロカ・アンブロシオ・ラスコーン侯爵。

 戦場で名を馳せた苛烈な武力と彫刻のように整った顔と、そして水流のごとく滑らかな銀髪のおかげでついた二つ名は「炎の氷帝」。マントを羽織っていれば目立たないが、恵まれた体躯による剛腕で大きな戦斧を小枝のように振り回しながら敵をせん滅する、いわゆる国の英雄である。

 と、妻である私は使用人達の噂で聞いたことがある。実体なんて知らない。

 だって政略結婚を申し込まれて輿入れしたというのに、夫である侯爵とはほとんど話したことがないのだから。そもそも寝室も別だし、屋敷にいついるのかも分からないほど私達に接点はない。

 しかしどういう訳か私が脱走を企て始めると、それを阻止するだけでなく決まって姿を現すようになったのだ。

 近づいてきた侯爵は、私のすぐ近くまでくると立ち止まった。特に言葉をかけられるわけではないので顔を上げずに自分の手足を確認していると、不意に視界が暗くなった。

 ただでさえ月が細く暗い夜だ。手元すら見えなくなる。すると、冷たいものが手首に当たった。いや、掴まれた。ぎゅっと力を籠められ引き上げられる。


「ひ……!」

「っ……!」


 つい今しがた縄の罠にかかって吊り上げられた感覚を思い出し、咄嗟に手を引くと頭上で息を飲む声がした。

 はっとして顔を上げると、思いのほか近くに人の顔があった。弱い月明かりとはいえ逆光になっているが、マントを羽織っているということはラスコーン侯爵か。

 夫に触れられるとは想像もしていなかった私は、思わず彼の顔を凝視したまま固まってしまった。

 改めて間近に見る夫の顔は、噂にたがわぬ美しさだった。

 影になっているのに鼻梁を縁取る月光のおかげで彼の鼻筋がすっきりとしていることも分かるし、反射したわずかな光が薄い色の瞳に映り込み宝石のように輝いていることも分かる。

 こんなきれいな男性が戦場では武勇の誉れ高いというのは嘘ではないかと思ってしまう。そしてそんな男性が胸に恋心を秘めているという事実も信じがたい。

 その想い人が、私の妹だということも――。

 私と瓜二つと言われる妹、マリナの顔が脳裏を掠める。ちくりとした胸の痛みは、彼女を差し置いて侯爵と見つめ合ってしまっている罪悪感によるものだろうか。


「な、何故邪魔をするのですか……」


 輝く瞳に吸い込まれるように私の口からは問いが漏れた。極小さな声ではあったものの、至近距離にいる侯爵の耳に届かなかったはずはない。しかし私の夫はただ無言で目を逸らした。


「あなた方のため、私は潔く離縁して身を引くと言っているのです。それもこっそりと姿を消すと。この婚姻が何らかの手違いであったことはお察しします。妹は私と瓜二つ。すぐに呼び寄せれば、きっと領民にも世間にも気づかれずに入れ替わりができるのです。何故邪魔を――」


 そう。きっとこの婚姻はどこかで連絡が行き違ってしまった結果なのだろう。彼が望んでいたのは私の妹だったのに、勘違いしたのか姉の結婚を先にと父母が焦ったのかでもしたかもしれない。

 ただ、その手違いによって生じる不都合が侯爵だけのものであれば黙殺した。白い結婚で気ままな暮らしが手に入るのであればそれでもいいと思った。しかし妹の気持ちが分かった今、姉である私は彼女の恋を応援したい気持ちでいっぱいなのだ。

 ひと月前の夜会で目にした、あの子の熱を帯びた視線。それが向けられる先にラスコーン侯爵がいてピンときた。あの子は私の夫に恋をしている。そしてその視線を逸らすことなくまっすぐ受け止めていた侯爵の姿に、私の心は決まった。

 しかしだ。用意した離縁状には世間体まで考えてこっそり入れ替わる作戦もしたためているというのに、なぜこの朴念仁は想い人と一緒になることをせず私の邪魔ばかりするのだろう。

 焦れた私が一気にまくし立てると、一瞬の後に侯爵は細くため息を吐いて私の手首を放した。そしてかがめていた身を起こし、マントを翻して背を向ける。


「離縁はしない。明朝、医師を手配する。行くぞ、マルシオ」


 肩越しにこちらを見るでもなく、たった一言そう告げると侯爵は振り返りもせずに屋敷の方へと歩き出してしまった。

 滅多に私に声をかけることがない夫なのに、と私が呆気に取られているうちにその背中はどんどんと遠ざかって行ってしまう。


「あ、おいロカ! いや、ロカ様! 奥様どうするんだよ!」


 あとに残された黒髪の従僕が私と主を交互に見ながらおろおろしだす。怪我もないからほっといてもらっていいと言えば、マルシオはこちらを気にしながらも主を追いかけて行ってしまった。


「……このまま逃げる手も……というのは無しね。罠があるって言ってたし。今夜のところは諦めるか」


 今夜計画した脱走がバレてそれを阻止された以上、重ねての行動はさすがによろしくない。従僕にも見つかってしまったのだから、こっそりと入れ替わる作戦のためには出直すしかないだろう。

 私は立ちあがって足に痛みが無いことを確認すると、次回の作戦を練るため仕方なしに屋敷へと戻ったのだった。


【2  武勇に長けた貴公子は概して口下手である】


「っはああああああ!」


 ロカ・アンブロシオ・ラスコーン侯爵はマントを翻して屋敷に戻り、従僕マルシオとともに自室へ入った途端に膝から崩れ落ちた。

 雄叫びのような声を少しでも抑えようと大きな両手で顔を覆い、床に額をこすりつけんばかりになったロカの顔は耳まで真っ赤である。

 事情を知らぬものが見れば、湧き上がる憤怒に身を震わせているようであろう。行き場のない怒りをまき散らしているようにしか見えない。そんなことは十分わかっていたが、ロカ自身あふれんばかりの感動を抑えることに必死だった。

 口から手を放したらもっと大きな声が漏れてしまうに違いない。こんな醜態を側近であるマルシオ以外には見せられない。けれど我慢できない。

 唇を噛みながら感情を爆発させている主に、マルシオは呆れたように肩を竦めるだけだった。こうなったら長いということを彼は良く知っていたのだ。

 しばしの間嗚咽を漏らすようにうめき声をあげていたロカは、顔を上げるとばっとマルシオを振り返った。


「くっっっっそカワ!!!!」


 氷帝と言われるほどに整ったロカの口から飛び出した言葉は、なんともそぐわない一言だった。ロカがマルシオの襟首をねじり上げん勢いで詰め寄ると、幼馴染でもある従僕はどうどうと主を宥めるように肩を叩いた。


「声を抑えなさいよ、ロカ。それじゃ他の使用人が起きてくるだろ?」

「これが抑えてられるか! 見たか? あの男装。ぶかぶかのキュロットに細いブーツ! 髪をまとめていたからか? 小動物にしか見えん! おまけに肌も白いし艶々してるし、目もくりくりしていて淑女らしくなく窓から飛び降りるわちょこまかと動くわ、あの生き物、端的に言って可愛すぎるだろう!」

「わーかった、分かったから落ち着けって」

「これが落ち着いていられるか! 彼女の顔をあんなに近くで見たのも初めてなんだぞ。し、しかも……」


 言葉を切ると、ロカは自分の右手を開き目を落とした。子どもの頃から剣を握り、斧を振るった手の表面は固く、節くれだった関節が目立つ。そんな武骨な手のひらで妻の手首に触れた感触を思い出すと、またロカの頭が沸騰した。


「さ、触っちゃったじゃないか! なんだあの細さ! いや細さより柔らかさ! き、傷でもつけていたらどうしたらいいんだ!」

「いや、いくらロカでも素手で触れたくらいで人間の皮膚は傷つかないでしょ」

「ちょっと力を籠めたら折れそうなほど細かったんだぞ! いや待てマルシオ。お前あんなに乱暴に彼女を落として、怪我どころじゃすまなかったかもしれないじゃないか! 心臓が止まるかと思ったぞ!」

「それは悪かったって。でも奥様って意外と頑丈そう……」

「俺たちと一緒にするな!」


 はあ、とマルシオが盛大なため息を放った。


「炎の氷帝様ともあろう方が、ちょっと取り乱しすぎですよ。いくら焦がれてやまない奥様を間近に見ちゃったからって言っても、もう少し落ち着けって」

「くっ……!」


 自身に最も近しく信頼している男からの指摘に、ロカは奥歯を噛み締めた。望んだわけでもなくつけられた恥ずかしい二つ名で呼ばれれば、沸騰しきっている頭がわずかに冷える。

 そうだ。自分は冷静沈着を旨とする王国最強の武人である。どれほどの混戦であっても、苛烈な戦であっても狼狽えるような真似はしなかった。

 ロカは二度、三度とゆっくり、深く息を吐いた。ぐつぐつと煮えたぎった脳や腹が幾分落ち着き、熱く火照った顔や耳が次第に落ち着きを取り戻していく。


「……すまん、マルシオ」

「まあまあ。こんなロカを見ることができるのが従僕の特権と言えば特権なんだけどね」

「主の失態を喜ぶな」

「少しは落ち着いてくれたようで助かったよ。でもそんなに奥様を可愛く思っていて好きでたまらないならちゃんと言ってさし上げればいいだろう。結婚してからずっと、公務だなんだと早朝から深夜まで仕事して食事もともにしていない上、寝室も別のままなんて、一体何をやってるんだ」

「う、うるさい……!」

「全く、ほんっとうに君は口下手なんだから。たまたま行った夜会で一目惚れしたって、女性にしてみたら悪くない口説き文句だと思うけど?」

「言うな! は、恥ずかしいに決まってるだろ!」

「はいはい。君が奥様に自分で伝えるまでは黙っとくさ」


 ふふ、とマルシオは小さく笑いを漏らした。従者が主を笑うなど、普通の貴族の屋敷ではこんなことは許されないだろう。しかし主と従僕という関係ながら幼馴染という気さくな部分がロカの心を癒していることは間違いない。

 柔らかなマルシオの笑みを見て、ロカは自分の肩から力が抜けるのを感じていた。一仕事を終え、高ぶった気持ちを静めるのは従僕との語らいと一杯の酒である。

 醜態をさらしてしまった今日は詫びの代わりに少しいい酒を開けようかとロカが棚に向かうと、マルシオは腕組みをしながら首を傾げた。


「しかし、今月五回目か……」

「何がだ」

「奥様の脱走だよ。嫁いでいらしてから半年、静かに暮らしていたはずの方がなぜこんなに頻繁に脱走を計画するようになったんだろう」

「それなんだがな……」


 ロカは棚から出した瓶からグラスへ酒を注ぐと、マルシオに一つ差し出した。


「どうやら彼女は自分の妹と立場を入れ替えたいと思っているらしいんだ」

「はあ? なんでまた」

「自分がこっそり脱走して身を隠すから離縁してくれ、その代わり妹を送るから自分だということにして妻に迎えろと」

「奥様の妹君と言えば、双子姫の妹の方ってことか。確かに奥様に瓜二つという噂だけど……」


 訝し気にマルシオは首を捻った。妻の謎めいた言い分に戸惑うのも仕方ない。自分の代わりに妹をと言われた当のロカさえ、どうして妻がそんなことを言い出したのか分からないのだ。

 しかも今夜はあなた方のためなどと言ってはいなかったか。一体どんな思惑があるのか、はっきりさせなければいけない。

 ただそれをはっきりさせるには妻と話し合いが必要なのだが、ロカにはその決心がつかなかった。

 何せ恥ずかしいやら照れくさいやらで結婚以来一度もちゃんと顔を合せたことがないのである。ロカ自身、自分の口下手は自覚している。動揺し、狼狽え、赤面し、ルイーサを前にすると思うように言葉が出てこないことが容易に想像でき、どうしても踏ん切りがつかないのだ。

 そんなことを考えているだけで、ロカの脳裏には初めて出会ったときのルイーサの顔が浮かんできた。

 濡れたように艶やかな黒髪に大ぶりの真珠をいくつも挿し、凛とした立ち姿を披露したルイーサはまさしく伯爵家という身分にふさわしい姫君だった。美しいと単純に思った。しかしそれだけだったら求婚することはなかっただろう。

 父親に連れられて諸侯に挨拶をして回っていたルイーサがロカの前に来た時、配膳係のメイドが小さなミスをした。正確に言えば近づいてくるルイーサに見惚れたメイドが彼女を避けきれず、盆を揺らして飲み物をこぼしてしまったのだ。

 普通の姫君であればたとえ汚れが付着せずとも、メイドの粗相に怒りを露わにするだろう。それなのにルイーサはよろけたメイドを助け起こし、自分がぶつかったからだと謝罪したのだ。その些細な配慮にロカの心は射貫かれた。

 確かにルイーサは美しい。しかし自分は決して彼女の顔や家柄の良さに惹かれたのではない。彼女の後ろにいたはずの妹姫のことなぞ覚えてもいない。

 ぽそりとロカの口から本音がこぼれる。


「……妹じゃ、だめなんだよなぁ」

「じゃあそれをちゃんと奥様に言ってあげなよ」

「それができれば苦労しない……」


 ロカが手に持ったグラスを勢いよく煽る。何言っているんだ、とマルシオがぴしゃりと言い放った。


「どんなに訓練した兵たちにだって命令は言葉にしなきゃ伝わらないんだよ。知り合ってたいした関係も作ってない男女ならなおさらだ。このままじゃ本当に奥様に逃げられるぞ」

「ぐ……」


 良い酒で唇を湿らせた従僕から投げつけられた正論に、ロカはぐったりと項垂れたのだった。

挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございました。

2025年7月22日にこちらの短編を改題、加筆修正した中編の連載を開始します。


侯爵夫人は離縁したい〜拝啓旦那様、妹が貴方のこと好きらしいのですが〜


となります。そちらもぜひよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
続きが気になる。
続きはよ。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ