夏のカゲロウ
-プロローグ-
寝ぼけた状態で目を開けると夢と現実の間を見ることができる。もしくは、現実に夢の内容が投影され、起きていながら夢を見ていられる。
ある少女は、暗がりの中でこもった声が聞こえた。それは聞きなじみのある、とても見知った人で、親しい人の声。世界に一人しかいない人の声。
だが、その内容はあまりいいものではなかった。
「――、また、来るわね」
少し目を開けると、遠くには両親の背中が見える。いつも、この言葉を言って去っていく。
「どうして、向こうに行くの? お母さん、お父さん」
-1-
ある夏の物語。それはどこにでもあって、毎年来る特別な物語。誰もが望んでいるが、決して訪れることのない日常。そのどれでもあって、決して体験することができず、触れることもできないお話。
夏の一節として、ここに記しておきたい。
これを話のネタとして記すのではなく、単純に記録しておきたいのだ。毎年訪れるある一週間のことを。どうしても心残りで、どうしようもなく背負ってしまっているその短い日々のことを。
いつからか私の手からこぼれ、喪失し、諦め、立ち直った。一度こぼれた水はどんなに懸命に拾ったところで、元の状態に戻ることはない。新たな水を注ぐか、諦めるかの二択しか存在しない。
だがもし、その選択肢以外の選択が存在していたとしたら、私は必ずそれを選ぶだろう。どんな結果であれ、わかりきっている二択どちらかを選ぶことがもうしたくない。答えの視える選択肢に翻弄されることはもうやめたい。そう願っていても現実は非情である。
ある日を境に変わった。確実に変化した。立ち上がったはずの足をもう一度折り曲げて、選べなかった第三の選択肢を提示された。しかし、それを知るのは遅すぎた。手遅れだった。確実に存在した三択目を。
私はどれだけ愚かなのだろうか。立ち直ったはずの私は、立ち直れていなかった。幻想を信じることができなかった。私が……私が一番信じなければならなかったのにもかかわらず、目を背け、自分を殺し、否定し続けていた。その行為を振り返れば、いかに残虐なことをしてしまったのだろうかと自責の念に揉まれている。
最後のチャンスを逃したのだ。あれだけ望んでいたもう一つの選択肢が眼前にあったのにもかかわらずだ。これを愚かだとせずして何になる。
切望し、渇望し、どんな代償を払ってでも選びたかった選択肢を逃し、自分と周りを信じられなかった。
もうあれから3年は経っているが、未だにこの一週間が訪れるたびに後悔の波が押し寄せてくる。
今後どれだけの時間が経とうと、あの夏の経験だけは忘れたくても忘れることができないだろう。
あの日がもう一度訪れるのなら、私は・・・・・・
-2-
どこでも聞くようなありきたりなセミの合唱と鼻を撫でる磯の香り。その両方を肌で感じながら、青空のもとを自転車でさっそうと坂を下る。どこにでもある住宅地を割いて伸びる坂。立派な一軒家の横を凪ぐようにぐんぐんと速度を上げながら下っていく。
道の終わりが差し迫ると、汗ばんだ両手でブレーキを掛け、自転車を減速させる。
青く澄んだ空には綿あめのような巨大な入道雲と眩く熱い視線を注ぎ続けている太陽が仲良く並んでいる。その下で額に手のひらで影を作りながら、遠目に見える学校を眺める。
今日は夏休みに入ってからながらく休止されていた学校のプールが解禁される日。炎天下かつほぼ無風のこの日にプール開きが行われ、太陽によって熱せられた体を冷やしに多くの生徒がやってくる。
この少女もその一人。自転車の前かごには可愛らしい花柄の入った透明のビニールバッグとそこから透けているゴーグルやこの日のために新調した水着などのプール用品。
今日来てくれるであろう友達に見せつけて自慢するために持ってきた。
学校のプールには先生らしき人が二人見える。青のジャージを着ている先生と赤い短パンと白のTシャツを着ている先生だ。顔は遠すぎて見えないものの、身長やいつも体育の先生が着ている青のジャージが目立っている。
何やらプールの端っこで二人してしゃがんで何かを見ている。
プール開きをするあたって、いくつかの条件があると夏休み前に先生から説明を受けていたことを思い出した。
1.なんとかかんとかの基準値が1以下
2.気温と水温を足した時に65度を超えない
3.ぺーはー?が7ぐらいより上
4.プールの水温が25ぐらいだった気がする
5.わすれた
をすべてクリアしていたらプール開きをすると言っていた。
細かい部分は覚えられないので、なんとなくこんな感じだっただろう。ということは先生たちは今まさにその問題をクリアしているのかを調べている状態。
ドキドキしながら再び自転車のペダルに足をかけ、体重を乗せて走り始める。
少女がいる場所から下り坂を通っておよそ3分で到着できる。
プールに入ること自体久しぶりなため、期待に胸が踊って仕方ないという表情で額のキラリと光る汗を乱雑に拭う。
自転車の速度はどんどん早くなり、それに比例して薄ピンクのワンピースは風になびく。可憐な少女が着用することによってその初々しさをより一層引き立たせている。加えて小麦色でワンポイントとしてコスモスの花が飾られたサンダルを履いている。いかにも夏らしく涼しい服装であるかは想像に固くない。
学校に到着し、指定されている駐輪場に自転車を止め、バッグを前かごからひったくった勢いそのままに走り出し、目的地へと向かっていく。
駐輪場から校舎を分断している渡り廊下を横切り、1~3学年用の教室棟と4~6年用の教室棟の間を抜けると、待望のプールが見える。両校舎の日陰を進むと校舎の間を冷たい風が通り過ぎた。汗ばんだ肌を冷まし、急激な体温低下によって鳥肌が立つ。
呼吸を落ち着かせることなくプールの入口へと到着すると、そこには、鬼のように深い堀の入った強面ながらも伸び悩んだ身長と華奢な体躯に青のジャージという異色な組み合わせをした体育教師―――進藤先生が立っていた。
先生が赴任して最初の挨拶の際に、笑い転げるようなものでもシーンと静まり返るようなものでもない一発ギャグをしたことで、学校内で一躍有名になった。その中途半端さは授業でも現れるようで、テストをするたびに模範解答外の答えが提出された際に△の評価をしながら◯とほぼ同じ点数をつけているという噂だ。
「おはよう。その様子じゃよっぽどプールに入りたいと見えるな。親からの許可はもらったのか?」
親からの印鑑を確認するだけだというのに妙なプレッシャーを感じる。しかし、顔の彫りの深さに反して声は非常に柔和で親しみやすい。
「はい! これが親からのサインです」
進藤先生に手渡されたのは、厚紙にA4のプリントが糊付けされている夏休み期間のプール利用の許可書―――いわゆるプールカードだ。
親からのサインと何月何日にプールの利用をしたいのか、体調はどうなのか、体温などの項目が記載されており、基本的に両親にそれらの項目を記入してもらい、先生へと提出する。これのどれか一つでも記入されていない状態であれば、原則としてプールに入ることは禁止されている。
プールには楽しいこともたくさんあるが、それ以上に危険なことも潜んでいる。どれだけ対策を施しても、毎年この時期の水難事故は亡くなっていない。そのため、この学校でもかなり厳しく夏休み感のプール利用を取り締まり、親御様の不安をできるだけ少なくするとともに子どもたちの体調やその日の動向を確認するための手段としてもプールカードの利用をしている。
夏休みともなれば、平日から友達と何処かへ遊びに行くということが多くなる。すると必然的に子供の様子をしっかり見ることができなくなり、ちょっとしたことでも見逃しかねない。そういったことが夏休みでの事故につながる可能性がある。学校側としてもそういったことは避けたい。
渡されたカードに親のサインや諸項目が埋められていることを確認し、大きく頷いた。
「よし、入っていいぞ。ただし、プールに入る前にしっかりシャワーを浴びるように」
「やったー!!」
門番の様に入口の横に経っている先生が、重たい銀色の扉をスライドさせ、楽園への階段を露わにさせる。その階段を登ればその先には待ちに待ったプールがある。
ダダダと階段を駆け上がり、サンダルを下駄箱に入れて足早に更衣室へと向かった。
更衣室で着替え終えると、プールサイドでのルールを半分無視した早足でシャワーへと向かう。
冷水シャワー。殆どの生徒が嫌いだと口を揃えて言うシャワーがプールサイドには備え付けられている。
その目的はプールに入る前にホコリや砂などのゴミを洗い流し、プールが汚れるのを防ぐとともにいきなり冷水に入ると体が驚くためあらかじめ水に慣らしておくなどの効果が期待されている。
何十人と同じ水の中に入るのだから、できるだけ清潔でなければならない。そうでなくては、色々と問題が起こってしまう。
少女がシャワーに着くと同時に用具室からもう一人の先生が姿を表した。
青のストライプが入った赤い短パンと純白の半袖Tシャツを着た、顔なじみのない先生だった。
「おっ、もう来たのかい? 早いねぇ、プール開きの時間ぴったりじゃないか」
驚いた表情でこちらを見つめる先生。太腕に巻いている時計に目を移して更に驚いていた。
10時に開くことになっているプールに10時ピッタリにいることに驚いていたのだ。
「こ、こんにちは!」
「こんにちは」
少女が挨拶をすると少しつり上がった目尻を下げながら優しそうな表情で挨拶が返された。
片手にキャップとゴーグルを握りしめながら肩が少し上がり、強張らせている様子を見て悪名高いシャワーを浴びようとしているのだと気づく。
「シャワーを浴びようとしていたんだね、ちょっとまってて」
先生はそう言うと再び用具室の中に入り、壁に備え付けられているシャワーの制御装置のスイッチを入れた。
「今スイッチを入れたから水が出るのはもうちょっと後だね」
「わかりました」
「君は何年生?」
「私は、3年生です。3年1組です」
「おお、3年生か。今日は友だちと泳ぐの?」
「そうです! だから今日は新しい水着を買ってもらって、友だちに見せてあげたいなって」
そう言って新調した水着を先生に見せるためにその場で回る。
紺色に白の水玉が散りばめられたセパレートの水着。下はサーキュラースカートとショートパンツ型の二重構造になっており、くるりと回るとふんわりとスカートが浮き上がり可愛らしさに磨きがかかる。
「可愛い水着だね。きっと友達も驚いてくれるよ」
「先生もそう思う? よかったー」
少々照れて頬をピンクに染めながら安堵と屈託のない笑顔を浮かべた。
「それにしても、学校に来るまでは相当暑かったんじゃないのかい? 友達と沢山泳ぐことはいいことだけど、水分は持ってきたか?」
「大丈夫!私のお家、坂の上にあるから学校に来るまでは下り坂で風があって気持ちいいんだ。水筒は……あっ、忘れちゃった」
直前で見た自転車の前かごの様子が思い出され、そこには水着の入ったバッグしか入れていないことを思い出した。水着を友だちに見せたいあまりにそちらにばかり気が行って、水筒を忘れてしまっていた。
ハッとした表情で先生の方を見る。すると、先生は、やれやれと眉尻を下げてため息をついた。
「水分補給は大事だよ。今日は先生が買ってきてあげるから、次からは持ってきてね」
「うん!先生ありがとう!」
先生はプールの入口へと歩いていき、「進藤先生を呼んでくるから待ってて」と少女に言った。
重い扉が開く音がした後、外で先生同士の話し合いの声が聞こえた。
内容までは流石に聞こえなかったが、ところどころ笑い声のようなものが聞こえたためあまり重要な会話ではないようだった。
その後、入れ替わるようにして強烈な青いジャージの進藤先生がプールへとやってきた。
プールサイドを歩いてこちらに向かってくる。この天気でそのジャージは、どうにも暑苦しそうに見えた。
「先生はその服暑くないの?」
夏も本番だというこの時期に長袖長ズボンの青ジャージを着ている。季節感が冬のそれと同じである。
少女に質問された進藤先生は少し考えて、
「そりゃめちゃくちゃ暑いな。でもこの服を着てたら先生だってわかりやすいだろ?」
「確かに! 先生いつも青い服着てるからわかりやすい」
進藤先生は堀の深いことも知られているが、それ以上に青いジャージの服装の先生は進藤先生ということが学校中で知られていることから、非常にわかりやすい。それも、この学校に来たときからすでにその服装をしていたため、どの新任の先生よりも早くに名前を覚えてもらえていた。
そんな新たな気づきを発見し、少し楽しい気持ちになっている。
「ところで準備体操は終わったのか?」
「あ、まだやってない」
「まだシャワーも出てこないし、一緒にやるか」
そう言って先生といっしょに別の広い日陰へと移動し、進藤先生を目の前にしていつものプール前の体操のを始める。非常に柔軟な体を折り曲げたり伸ばしたりしてしっかり準備体操をした。
先生たちと話したり準備運動をしたりして時間を潰していると、シャワーからポタポタと徐々に水が出てきた。しばらくすると勢いはどんどん強まっていく。
「さぁ、10数え終わるまでは浴びるんだぞ」
「はーい」
軽く返事をしてシャワーを浴びる。ゆっくりと先生が10を数え始め、終わると同時にシャワーからは飛び出した。
プールサイドへと歩いて行き、帽子とゴーグルを装着していざ入水。
ドボンと勢いよく飛び込み、白い泡たちが水面へと消えていく。その先には透き通るほど蒼い蒼い水景が広がっていた。
手足をばたつかせながら、青い空と対比する蒼い水にその体を沈めて……
十数秒後、自分の鼓動がいつもよりゆっくりになっていることを感じながら、水鏡に映る自分の顔を眺める。
頬を膨らませ、懸命に息を止める自分の顔に、思わず笑ってしまう。
徐々に息が苦しくなり、急いで水面から顔を出す。
ぷはぁと肺から大きく空気を押し出し、暑く乾燥し夏の熱気を再び冷えた体に取り込む。微量ながら磯の香りを含んだ夏の空気は不思議と甘さを感じる。
その後しばらくは体を大の字にして水面を無気力に漂わせ、大きな入道雲を眺める。その時、ちょうど上空に飛行機が飛んでいるのが見えた。
水に触れている体は冷たいが、日光にあたる体の前面はジリジリと焼けるように熱い。
呼吸を整えた後、くるりと体を反転させ、再び水中の景色へと目を移す。何のことない、水色の床により濃い青いラインが引かれているだけのつまらない景色だ。しかし、この広いプールで1人遊ぶというのはどこかさみしい。
再び仰向けになり、過ぎ去った飛行機の軌跡を眺める。1本の細くまっすぐな線。それも徐々に綻び、柔らかな線へと変わっていく。
バシャバシャと手足を無造作に動かし、蒼々しい空に水滴を飾ると乱反射する光によって七色の輪郭を彩る水玉が出来上がり、青と白のキャンバスに彩色の一滴が注がれ、また違う景色を完成させる。
夏のこの空の景色が好きだ。プールから覘くこの一幕が。
空の景色を楽しんでいると、入口の方でまた先生と誰かの話し声が聞こえる。先ほどと違うのは先生と話しているのがとても明るい女の子の声だった。
ガラガラと入口の扉が大きな音を立てながら開くと、ショートパンツと水色の半袖を着たボーイッシュな女の子が入ってきた。
水面にぷかぷか浮いている少女を見つけるとあっと声を漏らして、プールサイドから大きく手を振ってきた。
それに気づいた少女も「あー!!やっと来たー!!待ってたよーーー!!」と大きな声と大きく手を振り返した。
ボーイッシュな少女は「ちょっと遅くなってごめんね!」と謝ってから更衣室へと足を運んだ。
彼女が更衣室で着替えをしている間に、バシャバシャとぎこちないバタ足をしながら更衣室に近いプールサイドへと移動する。彼女が着替え終わってシャワーを浴びるのをプールサイドに座って待つ。
暑い日差しを浴びながら冷たい水に足をつけると、どうにも気持ちがいい。
すると突然後ろから声をかけられた。
「はい、水分補給をしながら泳いでね」
「あっ、先生ありがとう!」
声をかけてきたのは飲み物を買いに行ってくれた見慣れない先生だった。
「プールは楽しい?」
「うん!! とっても!!」
「怪我しないようにね」
飲み物を受け取り、お礼を言うと先生はいそいそと用具室へと入っていった。
再び出てきたときには、手にバインダーを持って日陰へと移動し、もともと用意してあった椅子に座ってプールの様子を見ている。おそらく、生徒が危ない行動をしないように監視をしているのだろう。
数分後、プールサイドで待っている少女のもとに、着替え終わったボーイッシュ少女が少し険しい表情で歩いて向かって来ていた。
その少女は、白色のフリルが付いた水色の涼し気な水着を着て、頭には白色のキャップを被っている。手にはうすピンクのゴーグルが握られ、太陽の熱で温められたプールサイドの床を避けるようにして華麗なステップを披露している。
「おまたせー。寝坊しちゃった」
「全然いいよーみんなも遅刻してるみたいだしね」
小さく舌を出して申し訳なさそうに笑う彼女に、プールの水をかけながら応えた。
「冷たいっ! 全然大丈夫じゃないじゃん!」
「あははー。ごめんごめん」
少女の横にボーイッシュ少女が腰を下ろした。同じようにプールに足をつけて手で体を支えながら空を見上げる。
先ほど通った飛行機の軌跡は綻びだし、飛び去った方向には延々と続くまっすぐな線が見える。
「プールの水、気持ちいいね」
「でしょ! 一緒に一番乗りできなかったから、先に入っちゃったんだけどすごく気持ちいいの」
「誰かに先を越されてなかったから安心したー」
バシャバシャと足をせわしなく動かしながら二人は会話をしている。
水面から弾かれる水しぶきは二人の周辺に飛び散りながら、可愛らしい水着を濡らしていく。
しばらく足だけでプールを堪能してから、体を入水させた。思いの外冷たい水に驚き、軽く身震いをしながら二人は顔を合わせてはにかんだ。
もうすぐお昼時だ。太陽も二人の頭上から鋭い光を浴びせる時間帯だ。
大きなプールに二人だけのはしゃいだ声が響いている。
少女たちは25mをクロールで競争したり、持ってきた浮き輪やボールで遊んだり、どちらが息を長く止めていられるかを競ったりしながら、思う存分遊んでいる。
今日がプール開きの日ではあるが、少女たち以外の子供は訪れていないようだ。お昼時になればなおさらだろう。
ひとしきり遊びつくし、疲れを感じたところで少女たちは再びプールサイドに腰を下ろし、休憩をする。
「今日はみんなどうしてこないのかな?」
「ホントだよね。まぁでも仕方ないんじゃない? もうすぐお盆でまたプール閉められちゃうから、再開したとききっとみんな遊びに来るんだよ」
通年ならにぎわいのあるプールだが、今年は少し予定が狂ったことでプール開きをする日にちがお盆の少し前に先延ばしにされたのだ。それが直接の原因となっているのかは定かではないが、少なくとも影響はあるのだろう。
「お盆にはどうしてプールを閉めちゃうの?」
少女が不思議そうに尋ねる。
「その時期になるとおじいちゃんやおばあちゃんとか死んだ人が帰ってきて、また天国に帰る時にこっちの人も一緒に連れて行くから危険な場所は誰も入れないようにするらしいよ」
「へー。でも、もう一生会えないと思っていた人と会えるなら嬉しいよね」
そう言って、お盆にプールが閉められる理由を聞いた少女は、手でプールの水をすくって空に向かって放った。
その横でもう一人の少女はうつむきながら、水面に映る自分の顔を眺めている。その表情はどこか曇っていた。
「そういえば、ちょっと身長伸びた?それに、泳ぎも上手になってたし……内緒で特訓してた?」
「うん。最近成長期なのかな~身長伸びたよ。それに、泳ぐのちょっとだけ練習しちゃった」
うつむいていた顔を上げ、ぱっと表情を明るくして答えた。
「あー、やっぱり! 前は私のほうが高かったのに同じぐらいになってるもん。泳ぎも私より上手になってるし!」
その答えを聞いて疑問が晴れたのか、ニコリと口角を上げて手を叩いた。
「今日の競争負けないように頑張ったんだけどなぁ……負けちゃった……」
晴れやかな顔の奥に悔しさと達成感に満ちた表情を隠しながら、「次は勝つからね!!」と大きく宣言した。
彼女の意気込みを聞いたボーイッシュ少女は、頬を伝っていた水滴が地面へと落ちる一瞬の時間だけ再度表情を曇らせた。その後は明るい表情にパッと切り替わり、「うん!」と大きく返事をした。
ふたりともそのやり取りが終わると、ぷっと吹き出し、心の底から笑った。
青い空と透き通ったプールとに挟まれながら、ふたりの透明で軽快な、風鈴のような音色の笑い声は辺りに響く。爽やかな風と遠くから香る海の匂いに乗せて、その声はとおくとおくまで届いた。
ふたりの笑い声が収まると辺りには静寂が訪れる。
「ねぇねぇ。今日の花火大会は行く?」
その静寂を破ってボーイッシュ少女は聞いた。
「花火大会があるの!? 行きたい!!」
無邪気な笑顔を浮かべながら、今すぐにでも飛びついてきそうなほどの勢いで振り向いた。
「天野海水浴場でやるらしいよ。大きな花火が上がるってお母さんが言っていた」
「え~、すっごい楽しみ! 花火大会に行くの久しぶりだなぁ。ねぇねぇ、浴衣着ていくの?」
「もちろん!みんな浴衣で行くって言ってたし、屋台もあるから食べ物もいっぱいあるんだよ」
「うわぁ……私、綿菓子食べたい! あと、かき氷とたこ焼きとイカ焼きも食べたい!」
今にもよだれを垂らしそうなほど口角を落として、とろけた表情で空を見上げている。
「お祭りは6時からするらしいから、その時間に海水浴場に集合にしよう。花火が上がるのはお祭りの最後だから、それまでは屋台でたくさん食べ物を買おう!」
「賛成!!」
天野海水浴場で開かれる花火大会は、周辺の町村が合同で行う大きな祭りだ。有名人をステージに招いたり、地元の伝統舞踊をみんなで踊ったり、町村一番を決める催し物をしたりとかなり活気のあるものだ。
この祭りは全国的にも有名で、県外からも多くの観光客が訪れる。それ故に、屋台の数も非常に多く、行き交う人の数も目が回るほどだ。
夏の大目玉な行事となっているため、この日を待ちわびている人は多い。そのため、主催者側だけでなく、祭りに参加する人たちも気合を入れて参加している。
例えば、装飾に凝った浴衣を着ていたり、コスプレをしてきて客が客を楽しませていたり、花火のよく見える場所を迅速に確保するために何時間も前から場所取りをしていたりと各々力を入れるところが違っている。しかし、どれも気合を感じるものだ。
祭りの集合場所と集合時間をお互いに確認し合った少女たちは、プールの側溝から立ち上がってシャワーへ向かった。
プールで存分に遊べたことと次の楽しみができたことでとてもワクワクしているが、彼女たちは決してプールサイドは走らない。
怒られて帰る時間が遅くなれば、祭りの準備に余裕ができないからだ。それに、プールの監視役の先生と入口には進藤先生がいる。走れば一発アウトだ。
シャワーできしむ髪の毛を懸命にとかしながら、プールの水を洗い流す。
はじめ入った時はその冷たさに身を縮こめていたが、プールに入ったことで水に慣れたためそれほど冷たさを感じなかった。むしろプールサイドで話をしていたため暑い体を冷やすのにもってこいだった。
シャワーを浴び終わると速足で更衣室へ向かい、テキパキと着替え始める。
更衣室の中では一切会話をせず、お互いがもくもくと着替えに集中し、着替え終わると更衣室から出て、「先生! 帰ります!」と向かいのプールサイドにいる先生に声をかけた。
「はーい。気をつけて帰ってな!!」
少女は下駄箱にしまったサンダルをはきながら、友達が着替え終わるのを待っている。
少女が更衣室から出てから1分後に友達は出てきて、プールサイドの先生に同じように挨拶をしてから下駄箱で靴を履いた
重い銀色の扉を開けると外で座っていた新藤先生がこちらに気づき、立ち上がった。
「忘れ物はないか? 今日はお祭りがあって夕方には先生たちも学校にいないから明日にならないと取りに来られないぞ」
「大丈夫です! ちゃんと確認しました」
「私も大丈夫です。水着ぐらいしか持ってきていなかったから」
「なら、気を付けて帰るんだぞ」
「「はーい。さようなら先生」」
二人の先生に別れの挨拶をした少女たちは、駐輪場を目指してゆっくりと歩き始めた。プール特有の疲れだろうか、二人の足取りは重い。
全身の筋肉を使う水泳は少し動くだけでもかなりの運動になる。また、水中にいることが多いため、いつの間にか脱水症になっている可能性もあり、運動量の多さがうかがえる。
二人が駐輪場について自分の自転車を持ち出し、校門前で花火大会の集合時間と集合場所を確認した後にお互いが家の方向へと走り出した。
家は真逆の方向にあり、少女は学校の裏手の坂を上っていくが、ボーイッシュ少女は学校の校門から正面にまっすぐ進んだところにある。
再び自転車に乗ったが、やはり学校に来る時の坂道は少女に牙をむく。どれだけ力強く漕いでも自転車が重力によって押し戻される。加えて、そよ風でも吹こうものならその牙をより鋭利なものへとさせる。
学校までは一瞬だが、この坂道を登って帰宅するのには一生の時間がかかる。そう思いながらおもいおもいペダルを漕いで進む。
結局、家に着いたのは学校を出発してから30分ほど経ってからだった。体からは水分を絞られ、ほんの少し頭痛がした。
自転車を玄関前に止め、バッグからカギを取り出す。両親はこの時間帯、家にいないのだ。これはいつものことだった。
「ただいまーーー!」
誰もいないが、少女は家中に響く声量で自分が帰ったことを知らせる。だが、もちろん返事はない。少女もそれをわかってはいるものの、どこか期待してしまっていたためか、表情は固い。
靴を脱いで玄関を上がり、まず向かった先は洗濯機の置いてある脱衣所。濡れた水着やタオルをその中に放り込み、横に備え付けられた棚から洗剤類を適量入れる。
この家のルールでは、洗濯機に最初に洗濯物を入れた人が洗剤を入れる役割を任命される。少女はそのルールに則った行動だった。
次に向かうのは台所に設置されている冷蔵庫。今はとにかくのどが渇いていて仕方がなかった。
先生からもらった飲み物も、炎天下の中プールサイドに置かれ、通気性のほとんどないバッグに詰められ、帰宅すればぬるいを超えて熱い飲み物へと変化していた。
今少女の体が求めているのはキンキンに冷えた麦茶。それを冷蔵庫から発見すると、隣の棚から適当なコップ並々に注ぐ。そしてそれを一息で飲み干し――――
「プッハーーーー!!! おいしいいいい!!」
冷えた麦茶が体の中をめぐり、全身ににじんでいた汗が一斉に引くのを感じた。
こういった飲み方は厳禁で、ゆっくり飲まなければいけないが少女にはそんな余裕すらないほどにのどが渇いていたのだ。
飲み干したコップに再度並々と注ぎ、次はゆっくり一口づつのみ始める。
もう注がないと決めた麦茶は冷蔵庫へとしまい、飲みかけのコップをテーブルの上に置いて祭りの準備を始める。
虫よけスプレー、お財布、子供用の浴衣(羽織ってボタンで留めるだけで浴衣風になる洋服)、帽子を用意するために家中を徘徊する。
虫よけスプレーは玄関下駄箱の中に、お財布は自室に、浴衣は倉庫の夏用品の中に、帽子は自室になかったのでお母さんのものをパクった。
準備を終えて時計を見ると四時を少し過ぎている。約束の時間までは少しあるため、少女はリビングのエアコンとテレビをつけて暇をつぶすことにした。
見慣れないCMと番組を横目に飲みかけの麦茶を片手に、ソファーで寛ぐ。
「つまんないな……」
そう言って少女はテレビのリモコンを操作して、面白い番組を探し始める。
「うーん、ないなぁ」
しばらくポチポチと操作していた手がピタリと止まった。退屈な番組とは打って変わって、映し出されたのは彩色に富んだ画面。見たことのないアニメだった。
その後、少女はそのアニメにくぎ付けになり、食い入るように見続けた。途中CMが入ったタイミングでは、間食用のお菓子を探しに行ったり無くなった麦茶を注ぎに行ったり、トイレに行ったりととにかくそのアニメに夢中になっていた。
気付けば約束の時間まで30分程になって、ようやく時計に意識が行き、その沼から抜け出すことができた。
幸いすでに準備は終わらせていたため、家を出るまでに一分もかからなかった。
再びかごの中にバッグを入れ、浴衣姿の少女は自転車にまたがった。
家から集合場所まで少し距離はあるものの、下り坂という味方がついている。
この時期の夕方は、昼間よりは圧倒的に過ごしやすいが、やはり夏という怪物は爪を隠してくれない。
肌に当たる風にはまだ熱気が残り、セミの大合唱も終わる気配はない。夕方になると別の虫の鳴き声も加わり、より盛大なオーケストラが結成される。これも夏の醍醐味と片付けるのは簡単かもしれないが、処女にとっては五月蠅いとしか思わなかった。
太陽は昼間のような威勢はなく、少し弱弱しくなっているがまだその存在はうっとうしい。むしろ昼頃と比べて位置が低くなったことでその姿を直接見てしまうことが多く、迷惑に思う。
-3-
午後六時を少し過ぎて少女は到着した。
「ご、ごめん! 遅れちゃった!」
「全然大丈夫だよ。プールの時は私が遅れちゃったし」
すでに待っていた友達も昼間の時の印象とはがらりと変わり、お転婆で男っぽくはなく、華やかで女性らしく非常に可愛らしくなっている。それを印象付けさせているのはやはり浴衣だ。
ピンクの生地に水玉模様がちりばめられ、帯は後ろでリボンのように結ばれている。髪留めは少女らしさの残る花形のピンで留められ、顔にはうっすらとお化粧が施されていた。
「その浴衣、かわいいね!!」
「でしょー!?」
くるりとその場で一回転し、自慢げな笑顔を浮かべている。
「今日はいつ帰っちゃうの?」
ひらりと舞った浴衣を軽く整えながら友達は少女に聞いた。
「?? 花火を見るまでは帰らないよ!」
この祭りの醍醐味といえる花火を見なければ、この祭りに来た意味がない。そう思った少女は、特に迷いなく答えた。
「じゃあたくさん遊べるね」
「うん!」
二人の少女はお互いの手をつないで屋台の並ぶ浜辺へと走っていく。
まず止まったのはイカ焼きの屋台の前。鼻を燻ぶる甘ダレのにおいと炭の香りに、少女のおなかはグーっと鳴った。
「イカ焼き一つください」
少女は迷いなく店員の元へと注文しに行った。
「いらっしゃい、お嬢さん。もうすぐ焼きあがるから少しだけ待っててね」
屋台の下から顔をのぞかせたのは、鉢巻を額に巻き、たすき掛けされた和服に身を包んだ若い女性だった。
イカを何枚も手に取り、それを一枚一枚串に刺して炭の近くに置いていく。焼かれているイカには何度もタレを塗り、均一に焼き色を付けていった。
「はい、お待たせね。どうぞ」
「ありがとー!」
少女はイカを受け取るとともにお駄賃を渡し、待っている友達の元へと駆けていく。
途中、誘惑に負けて一口だけ先に食べてしまったが、それは今まで食べてきたどの食べ物よりもおいしかった。
「おまたせ!」
思わぬおいしさによって歯止めの利かなくなった食欲に支配され、友達のところに着くまでに半分ほど食べ終わってしまった。
「おなかすいてたの? ふふっ」
食欲旺盛な彼女を見て、可愛らしく笑いがこみ上げる。
そんな友達の横で、少女は頬いっぱいにイカを詰め、不思議そうに首をかしげていた。
「これ、すごくおいしいよ! はい、ちょっとあげる」
「いいの? ありがとう――――おいしい」
「ね!」
友達もこのイカ焼きの魅力に気づいてくれたことがうれしかったのか、少女は何度も跳ねていた。
「あっ!」
「ちょ、ちょっと待って」
突然手を引かれ、人ごみの中を縫うようにしてたどり着いたのはお祭りの定番であるヨーヨー釣りの屋台。
色とりどりのヨーヨーが水に浮いており、一つの巨大な水入れを囲んで子供たちが悪戦苦闘している。
「ねーねー!これ、やろうよ!」
友達の裾をつかんで引っ張りながらアピールをする。
「うん。いいよ」
友達も二つ返事で了承すると、店員にお金を渡して、こよりのついた釣り針を渡された。
このヨーヨー釣りの難しい部分は紙の耐久力とヨーヨーの重さの関係を見極めることだろう。そのどちらかが基準を超えていた場合、釣ることはできない。さらに、ヨーヨーのひっかける部分が水中にあるか水面にあるかによっても変わってくる。非常に簡単ながら長年の勘と運に左右されるものだ。
少女はさっそく一つのヨーヨーに狙いを定めて引っかける。それを徐々に持ち上げ、ヨーヨーにつながっている紐が一直線になった瞬間、持っていたこよりが切れ、落下した。
「今、釣れてなかった!?」
勢いよく振り向いて店員に判定を訪ねる。
「ははは、残念だったねお嬢ちゃん。持ち上げられてなかったから、あれは釣れてないんだよ」
だが、残念なことに結果はダメだった。
「えーーー! うーーーー……もう一回!」
「おう、何度でも挑戦してくれ」
もう少しだったという悔しさから、再度挑戦を申し込む。
先ほど狙ったものとは違い、ヨーヨーの中に水があまり入っていないものを探す。狙いをつけ、再び釣りにかかる。
先ほどよりも慎重に、ゆっくりと引き上げると、
「やった、釣れた!!」
「お見事だお嬢ちゃん! よくやった!」
次こそはしっかりと釣り上がった。
友達のほうも同じように釣れ、二人とも屋台のお兄さんに褒められて、その場を後にした。
その後もかき氷やポテトを食べながら、射的や輪投げなどのゲームを堪能しつつ花火の時間に合わせて近くの神社に向かう。
「ここ、知ってた? 花火がよく見えるけど、夜だと神社の場所が暗すぎて見えないから人がほとんどいない穴場スポットなんだ」
「へーすごい! よく見つけられたね!」
「たまたまだよ。でも問題は――――」
少女二人は、同時に足を止め、目の前にある障害を目の当たりにする。
「――――100段ある階段」
「え!? 100段!?」
「……上まで競争ね。よーいどん!」
「あっ!! ずるい!!」
突拍子もなく始まりのゴングを鳴らされ、少々出遅れてしまった少女は、数段ほど先を行っている友達に追いつくために必死に足を動かす。しかし、徒競走とは違い平坦な道を走っているわけではないため、うまくスピードを出すことができないでいた。
「速いよー!」
「いつも競争じゃ負けてるから! この勝負は勝つよ!」
「うっぅ……! 負けるもんか!!」
階段を上っていくごとにお互いの体力は減っていき、最後の段差を乗り越えるときには二人とも境内に倒れこんだ。
荒い息を整えながら二人は立ち上がり、お互いの顔を見て「ぷっ……!」と噴出した。
誰もいない境内。静まり返った境内には明かりもほとんどなく、神社の賽銭箱を照らしている蛍光灯だけがその場所にある唯一の明かりだった。
勝敗はほぼ同着として、引き分けだと友達が判定を下した。
お互いが浴衣姿ということを忘れるほどの接戦をして、友達のほうは盛大に着崩れてしまっていた。
「こっち来て」
そういわれて連れてこられた場所には一つのベンチがあり、そこから見える景色は先ほどまでいた浜辺が見える。
「花火はあそこの漁港で上がるから、ここは特等席だね」
「こんないいところを教えてくれてありがと!」
「うんうん。今年一番の花火だもん。一番いいところで見たいじゃん」
「そうだね!」
ベンチに座って浜辺を見ると、小さく見える人たちが各自で持参したシートを浜に広げ、花火の開始を待ち始める人や子供がはしゃぎすぎて手に余っている大人たちの紛争がよく見える。それに、祭り開始と同時に花火の場所取りをしている人たちがいたことによって、浜の特等席はすでに埋まっており、待ち人たちは必然的に漁港から遠のいた場所での観戦を余儀なくされている。
祭りが開始してからすでに三時間、客足はピークを過ぎ、出店にできていた長蛇の列も短くなっている。
「花火……楽しみだね」
「うん! すっごく楽しみだよ!」
「でも、帰っちゃうんでしょ?」
「お祭りが終わったら帰るのは普通じゃない?」
「そうだけど……」
友達はいったい何に悩んでいるのだろうか?少女はその疑問がわからなかった。
その後、友達は花火が上がり始めるまで黙ったままだった。
少女も、友達の疑問の答えに不自然な点があったのか何度も思い返してみるが、決して変な返答はしていない。むしろそれが普通だと感じる。
一発目の花火は、最初の花とは思えないほど豪快で、どんなことをしていても目を引かれ、奪われるような、立派な花を咲かせた。
心臓を直接殴られたような衝撃とともに、色鮮やかな青と黄色、そして咲いた後の二段構えとして赤色の無数の花も咲いた。
その一発を皮切りに、枝垂桜のように咲いたもの、噴水のように上がる色とりどりの火花、ジュワッという音を立てて一瞬で咲き、枯れる花などすべて見逃すことのできない素晴らしい芸術だった。
しかし、一瞬、ほんの一瞬だけ友達のほうを見た少女は、その瞬間だけで花火という芸術に染まった脳が、現実を直視するために魔法を解く。
友達が、泣いていた。それも、大粒の涙を流して。
-4-
「どうしたの?」と声をかけようとし、手を伸ばす。だが、すぐに自分でもある違和感に気付いた。
友達の浴衣が腕越しでも見える。透けていたのだ。
「えっ……」
「美紀ちゃん、まだ……帰らないでよ……花火が終わったら……って、言ったじゃん!」
美紀とは誰のことだろうか? 私? 私はまだここにいるよ? 帰ってないよ?
そう思って、友達を触ろうとするが、その手は何にも触れることはできなかった。
「まって、ねぇ、聞こえてる? あれ、名前……この子、誰だっけ……?」
何度も通り抜ける手を見ながら、どうにか気付いてほしくて名前を叫ぼうとするも、肝心の名前が出てこない。
「友達……友達の、な、名前……なんでわからないの?」
美紀は自分に問いかけた。その問いに意味があるのかはわからない。ましてや問うたところで答えが返ってくるとは思えない。だが、そうせずにはいられなかった。
「プールでいっぱい遊んで、それで、それで……お祭りも……でも、なんで――――」
驚愕に塗られた顔からは、さらに血の気が引いていき、
「学校でのことは思い出せないんだろう」
断片的にしかない記憶に、困惑する。
「私ね……もう来年卒業するんだよ……」
その言葉を聞いて、訳が分からなくなった。
同級生だった。友達だった。一緒に遊んだ。一緒に笑った。なんだって隣にいてくれた、そんな友達が、学校を卒業? どうして?
「一緒に卒業したかったよ……なんでいなくなっちゃったの!!」
「ちが――――私はいなくなってないよ!! ここにいるよ!! 今も、隣にいるじゃん!!」
花火は、咲けば散る。どんなことにも始まりがあり、終わりがある。生物であれば、それは命として証明されている。
どれだけ長生きしようが、命尽きるときは必ず訪れる。そうして、誰かの前からいなくなり、記憶からも消えれば、存在が消えていく。
当たり前のことだ。
歴史に名を残している人であっても、その人物の全容を知っている人はいない。これは絶対である。
どれだけの書に人物像が記されていようが、遺品が残っていようが、そこからその人物をたどることは推測だ。
『知っている』ということとはかけ離れている。
誰であっても命が尽きることは、言葉通り人生が終わるということ。そう、終わるのだ。その人のすべてが終了し、あとはその人と関わりのあった人たちの間だけで存在し、物語を振り返ることだけができる。
そのため、本来ならば、新たな物語が紡がれることは起きないはずだった。
「私が、美紀とこの日を過ごしたの……もう四回目だよ……」
「!!」
美紀は友達と何度も違う夏の物語を紡いでいた。
人生という本は一筆書きだ。修正など認められるわけがない。ましてや、美紀のように付録のような物語もつくはずがなかった。
「いつも、最後まで一緒にいてくれない。まだ終わってないのに!」
友達の目からは絶えず涙があふれている。
浴衣の袖で拭いてもすぐにぽろぽろと滴るほどに想いを馳せている。
紡ぐ言葉も届かないとわかっていながらも口に出して言わなければ気持ちの整理がつかない。どうしようもなく、あきらめきれないこの気持ちを。
「ねぇ、何か……言ってよ……」
美紀の座っていた場所に手を置きながら、心から漏れた声が花火の音にかき消される。
返事はない。いつもそうだ。何度も同じことを繰り返し、同じ言葉を繰り返している。諦めがつかないのは毎年のことだ。
だが現実は非情だ。今までさんざん夢を見せておいて、肝心な部分では見せてくれない。
美紀はその様子を友達と同じような心境で、受け止めていた。
友達の寂しい思いをなくすためにいるはずなのに、どうしていつも何もできないままなのだろうか。
「私……私も!! 最後まで一緒にいたい!!」
もし神がこの寸劇を楽しんでいるのなら、今だけはどうかつまらなくしてほしい。
一言でもいい、友達に言葉を届けたい。
「あの時もきっと言えてなかったこと……友達も言えてないこと……」
一言だけ、友達に言いたい言葉が思いついた瞬間、ほんの一瞬だが、触れられた気がした。
そう感じたのは美紀だけでなく、友達も同様だったようで、くしゃくしゃになった顔を即座に上げ、あたりを見回していた。
美紀は、彼女の頬に両手を添え、額同士をくっつける。
何かに触られている感触に驚きつつも、友達はその存在が美紀であるとわかっていた。
「い、るんだね……まだ、そこに」
何もない虚空を見つめ、いつからか聞こえなくなっていた花火を遠目に見る。
「うん。なんか、この言葉を言うためだけに同じことを繰り返してた気がする」
一言、伝えたかったその言葉を思い出せたことで、今までどう過ごしてきてたのか何となく思い出せた気がしていた。その中でも、最も思い出したかったことを口にできそうで、美紀は少しだけ気持ちが軽くなる。
「まだ、行かないで」
涙は出ていない。しかし、悲しみに暮れた表情から変わらない友達。
どんなに頑張っても、この一言だけでは彼女を元気に――――笑顔にすることはできない。
わかっていても、伝えたかった。
伝えなければいけなかった。
「またね、由香ちゃん」
お別れの言葉を――――