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破邪顕正

 防戦一方のアキに、さちはただ眺めることしかできなかった。


「ごめんね。可哀想なことしちゃったかも」


 苦笑して謝るくらいには、筑紫も自分の行動を省みているらしい。

 あれだけ息精張っていたアキが、見るも無惨に押し込まれ何もさせてもらえない状況。ここまで差が出るものなのかと、さちは驚愕せざるを得なかった。二本目を取られずに耐えているだけでも幸いなレベルだ。


「剣道ってね、メンタルスポーツなんだよ」


 筑紫が独り言のように呟いた。


「もちろん技術や体力も必要。でもそれ以上に、相手の気迫に負けない胆力と隙を見極める眼、それに崩すための戦略。誰の助けもない状況で相手と駆け引きしながらそういうことをしなきゃいけない。だから試合時間の四分を丸々使ったら私でも疲れるくらい」


 たとえ団体戦だろうと、試合場に入ることができるのは一人だけ。己の腕だけを頼りに挑むどこまでも孤独な戦い。見た目の派手さに比例した過酷さが剣道という競技の特徴のひとつだった。


「それを鍛えることができるのは唯一、経験だけ。小さい頃からひたすら実戦を経験して、稽古では得られない刺激を吸収すればするほど、稽古の時以上の力が出せるようになる。私たちがやってきた剣道っていうのはそういう積み重ねなんだよ。だから強いの」

「それじゃあ、アキちゃんは……」

「圧倒的に経験不足。埋められない差。……まさかこうなるとは思わなかったけど」


 やはりそうなのかと、さちは胸が痛くなった。

 交わってはいけなかったのかもしれない。アキはアキでただあの道場で剣道をやっていればよかったし、それを競技らしく実戦に持ち込もうとしても、積み上げてきてしまったものを今さら崩して積み上げ直すなんて、猪突猛進なアキにできるわけがない。そこに生まれるのは絶対的な差。積み上げたものが通用しないという不条理な現実。そんな時に見てしまうのは往々にして諦めの道だ。あんなに剣道を好きなアキが頭を(もた)げて諦観に塗れる姿を見ることになるかもしれない。


 あの時、教室で止めていればよかったのだろうか。「スポーツではなく武道だ」と言い切られた時に、その手を引き止めておけばよかったのだろうか。


「でもね」


 筑紫がまた苦笑いを浮かべた。


「時々いるんだ。ある日突然、人が変わったように強くなる選手が。昨日まで余裕で勝てたのに次会った時には苦戦するとか。悔しいけどそういうのがあるんだよ」

「え……」

「そういう人が出てくる時って、大体条件が決まってる」


 筑紫の額に汗が滲む。

 さちは筑紫の視線の先──一向に前に出られないアキを見た。

 さっきまで丸くなってしまっていた背中が、しゃんと伸びている。


「強烈な刺激と未だかつてない経験。それを経た時、人はよく大化けするもんなんだ」


 見慣れたアキの背中が、いつもより大きく見えた。


 ◇


 辛うじて片品の打突を()なし続けて、二分強が経過していた。


 次第に部員たちがざわつき始める。繰り返される片品の怒濤の手数を、綱渡りながら試合時間の半分以上もの間回避し続けているのだ。そこには実力差という言葉では足りない経験の差が確実にあるはずなのに。

 攻め続けているのも動けているのも片品だ。実力を示すに足る一本も既に奪っている。なのに、決め切ることができない。


 ……だが、どうせ片品のことだから、好きなだけ打ち込んで実力を見せつけたところでそのうち派手な一本を取るのだと、部員たちは一様に思った。そういう性格なのだ。だから心配するようなことはない。あの片品が、格下の女子相手に仕留め切れないなどあるはずがない。


 ──そう思われているのだろうなと感じる度、片品の胸中に怒りが込み上げてくる。

 こんな奴に……こんな、チームの輪を乱し、神経を逆撫でするような詭弁ばかり吐き散らかす生意気な奴に、どうしてここまで手こずるのか。


 手を抜いてはいなかった。アキが気に食わないから、一瞬で終わらせて惨めに晒し上げてやろうと思っていた。アキが攻めてこないのも、攻めてこられないように片品が仕向けているからだ。どうやら試合経験は浅いらしい。立ち回りだって素人のそれだ。ほら、気づけばそのすぐ背後に白線が迫っている。

 それなのに。


「ちっ……!」


 小手に飛び込むも、竹刀が捉えるより先にアキの竹刀によって防がれる。また鍔迫り合い。

 これの繰り返しだ。偶然なのだろうが、いくら打突を繰り返しても寸前で去なされてしまう。いや、そもそも去なされているという考えが誤りだ。これはただの防戦一方。前に出てくる気配もない。

 痺れを切らした片品は、全体重を乗せて腰から体当たりした。

 容易く弾き飛ばされたアキはとっ、とっ、と片足で耐えるものの、勢いを殺し切れずあえなく場外へ。


「止め!」


 榎戸の号令で二人は開始線に戻り、アキに対して場外反則が取られる。

 宣言をする榎戸に礼をするアキを、片品はただ憮然と見ていた。


 倒せなかった。

 場外どころか、稽古での最初の体当たりより何倍も強くぶつかったはずで、試合でならほとんどの相手は呆気なく倒れ込むくらいなのに。

 何故、耐え切れた?

 構え直したアキの、面金の向こうの双眸が片品を見据える。湖面のように穏やかで一切の揺らぎがない。そこに手を入れてしまえばゆるやかに呑み込まれてしまいそうな、底知れない深さがある。まるで三分前とは別人の──


「始めッ!」


 号令と共に片品は飛び出した。再び亜音速の打突をアキの面に向けて放つ。


 放って──片品はすぐに後悔した。

 その打突には何も乗っていなかった。ほんの微かに渦を巻いた焦燥が、ただただ片品の武器であるスピードに頼り切っていた。必ず一本を奪うという気概や自信でさえ乗せ忘れた、あまりにもちぐはぐな軽い振り。

 その気配は振り下ろす竹刀さえも掻き消してしまうように、全てを巻き込んで向こうからやってきた。

 遅れて、頭に衝撃。


「──面あり!」


 打突の余韻がまだ残る中で、榎戸が右の赤旗を上げた。


 ◇


『え、今の相面(あいめん)……?』

『速くてよく分からなかったけど、たぶん……』


 部員たちは怪訝そうに見切り損ねた一本を確認し合う。実のところ半数弱はその瞬間を見てすらいなかったが、残心の形と視界の端で高々と上げられた赤い審判旗が否が応でも彼らの気を引いた。そこに拍手はなく、祝福の言葉もない。


「やった!」


 さちは完全アウェーであることを忘れて、つい大きくガッツポーズをしてしまった。周囲の視線に圧されてばつ悪くに手を引き戻す。

 だが、取った。この信じ難いアウェーで、遥か格上相手に見事な一本を取ったのだ。相面……? とかいうのはよく分からないが、あの赤い審判旗が何よりの証拠だ。


「ねぇ」


 試合場の二人を見たまま筑紫が呼んだ。


「東雲さんて、剣道どれくらいやってるの?」

「え? えーっと……小学生の時だから、もうかれこれ五年になりますかね。あたしが誘ったんですよ」


 何故か堂々と胸を張るさちに、筑紫は吃驚して振り返った。


「五年……? たったの(・・・・)?」

「はい、まあ」


 そんなわけがない、というのが率直な感想だった。

 正直、剣道の強さ──もとい試合の実績は、積み重ねた年数が絶対というわけではない。無論長いに越したことはないが、中学や高校から始めて全国区の選手になる者もいれば、長年続けても勝ちが遠い者もいる。さらには身体能力にも依らないと言われ、適正と、指導者等の環境の影響が特に顕著に出る競技なのである。


 ただし、それは勝敗のある競技としての剣道に限った話だ。

 例えばアキが標榜するような、所謂正剣と一般に呼ばれるものは、長い年月をかけてその剣を醸成していくものだ。彼らにとっては試合も稽古もあくまで自身を鍛える手段でしかない。何度も竹刀を振り、何年も稽古に打ち込むその時間が長ければ長いほど、剣筋は正しく真っ直ぐ成長する。その正しさは自身を省みる鏡となる。


 その、はずなのに。

 背筋を悪寒が襲う。さっきの面、あれは五年で習得できるような威力ではなかった。加えて何が何でも一本を取るというような勝負に懸ける執念も感じなかった。ただ圧倒的な正しさとそれに裏づけされた強さが、打突諸共片品を打ち砕いた。

 そんな一振りを、たった五年で?


「マジかよ……」


 漏らした声は誰の耳にも届かない。

 吸収したのだ。恐るべきスピードで、正しさも強さも、他の追随を許さないほどに。

 そして今経験しているのは、彼女にとって未知の領域。

 常識外れの現実に、筑紫は笑みを隠せなかった。

〇相面

同時に面を打ち合うこと。剣道の試合ではよく見られる。

どれだけ相手の先をいっているか、中心を捉えているか等によって結果が変わるが、正直どちらの一本かはスローで見ないと分からないほど判断が難しい。なので審判をしている先生方はホントすごい。

上記のようなもののため、実力差が如実に反映される難しい一本である。

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